第1話:王のいない方舟
神話の王は、その身をもって世界を救った。
だが、神も王もいない瓦礫の空で、青年は何を救えるのかーー
「――クイル・ワンより各機へ、これより第三フェーズに移行する、目標は区画7、残存勢力を殲滅せよ」
無機質な通信音声が、思考の隙間に滲む
青年は、鳥の特徴を模した鉄の塊――フェザーフレームのコックピットで、吐き気を押し殺した
眼下に広がるのはかつて街だったものの残骸だ。灰色の大地に突き刺さった墓標のようなビル群が、夕暮れの赤い光を浴びて不気味に佇んでいる
『ゲーム』指揮官たちはこの殺戮をそう呼んだ。 モニターの端に表示されるスコア、撃墜数、貢献度、損害率、数字の羅列が、フェザーフレームのパイロット――『アダリズ』と呼ばれる者たちの価値を決める
彼のような少年兵もそのスコアによって命の値段を決められる日常に身を置いていた
「……区画7だと?」
僚機の誰かの声がノイズ混じりに回線に乗る
「あそこは非戦闘員の避難区画じゃなかったのか?」
「コマンドの決定だ。お前はスコアが欲しくないのか?」
嘲るような声がそれに続く…
そうだ、欲しくない者などいない、良いスコアは良い食事とマシな寝床を保証する
ここではそれが全て、それがこの瓦礫の世界で生き抜くための唯一のルール
だが、青年はもう、そのルールに従うつもりはなかった
操縦桿を握る手にじっとりと汗が滲む
この機体――燕型の機体「クレセント」その内部にはこの日のために彼が密かに仕掛けた細工が施してある
位置情報と識別信号を撹乱する、即席のジャミング装置だ
成功するかは賭けだったが、このまま飼い殺しの駒として空を舞い続けるよりは、万倍マシな賭けだった
『――何をしている、クイル・ツー! 早く動け!』
指揮官の苛立った声
青年――ブラインは、応答しない、代わりに、モニターに映る区画7を睨む
あそこには、きっと子供もいる、老人だっているだろう、スコアのためだけに命が消費されていいはずがない...
『本当の強さって、なんだと思う?』
不意に、脳裏に姉の声が蘇る
彼のたった一人の姉ウェナ、ここに送られる前、彼女と最後に交わした言葉だった
――本当の強さ
こんな場所にあるはずがない、ならば、探しに行くだけだ
ドクン、と心臓が大きく跳ねた
覚悟は、決まった
「……ッ!」
次の瞬間、ブラインは操縦桿を限界まで倒していた
機体が悲鳴のような軋みを上げ、急旋回する
編隊から離れ、戦域の境界線へと一直線に加速、網膜に焼き付いた地形データを頼りに、廃墟のビル群の隙間を縫うように低空飛行へ移る
『クイル・ツー、貴様! 命令違反だ!』
『どこへ行く気だ、ブライン!』
怒声と驚愕の入り混じった通信が殺到する、だが、その声はもう遠い
心臓が肋骨を内側から激しく叩きつけ、自分の呼吸音だけがヘルメットの中で異常に大きく響き渡る
世界から音が消えたようだ
モニターが赤く点滅し、アラートが鼓膜を突き破らんばかりに鳴り響く
《WARNING: ENEMY LOCK-ON》
《WARNING: DEVIATION FROM COURSE》
背後から放たれた数条の光――曳光弾が、コックピットのすぐ脇を駆け抜けていった
熱波が機体を揺らし、焼けた鉄の匂いが微かにコックピットに流れ込む
死がすぐそこを通り過ぎていく
もっと速く、もっと、速く!! スロットルレバーを握る拳は、とっくに血の気を失っていた
その時だった。前方のビル陰から、滑るように現れた一つの影が、ブラインの逃走経路を完全に塞いだ
白銀の装甲に、鷹を思わせる鋭利なシルエット。他の機体とは明らかに格の違う、気品と威圧感を纏っている
「……エフニス……!」
最悪だ
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた
全身の血が逆流し、指先が氷のように冷たくなるのを感じる
元貴族の出身で、ブラインがまだ訓練生だった頃、親しさと同時に畏敬の念を抱いていた相手
彼の駆る、鷹型の機体「ベンドラゴン」は、この空域の絶対的な王者だった
『――戻れ、ブライン』
スピーカーから聞こえたのは、昔と変わらない、静かで落ち着いた声、だが、高鳴る心臓のせいで、その声すらもが水中で聞こえるように歪む
『命令だ。戻れば、今回のことは俺が上に掛け合ってやる』
「……道を開けてくれ、エフニス」
震える声を叱咤し、なんとか言葉を紡ぐ
モニターに映る「ベンドラゴン」は微動だにしない、いつでも撃墜できるという絶対的な強者の余裕
『……なぜだ』
「あんたの言う『強さ』は、俺の求めるものじゃない。それだけだ」
ブラインは残された全神経を指先に集中させ、スロットルを最大まで開きながら機体を傾けた
「ベンドラゴン」の脇をすり抜けるように突っ込む
コンマ数秒の判断ミスが死に繋がる賭け、エフニスなら撃てる、その気になれば、この旧式機なんて一瞬でスクラップに変えられるはずだ
だが、追撃はなかった...
一瞬だけ見えた彼のコックピット、モニター越しに、その横顔が映る
命令と、何か別の感情の狭間で揺れるような、複雑な表情
彼はただ、ブラインの去っていく背中を見つめているだけだった
やがてエフニスの機体は反転し、命令に従い撤収していく、その姿がバックモニターから消えるのと同時に、ブラインは震える指でコンソールのスイッチを起動した
瞬間、けたたましかったアラートが嘘のように沈黙し、レーダーから全ての信号が消え失せる
ブラインという存在が、この空から完全に掻ききえたのだ
「……はっ……はぁっ、……はぁ……っ」
完全な静寂が訪れたコックピットで、ブラインはようやく息を吸うことを思い出した
酸素を求める肺が痙攣し、視界が白く霞む
彼は胸のポケットに手を伸ばし、一つの硬い感触を確かめた
姉が遺した、古びたロケットペンダント
その中に隠された座標データと、「黄金の光」――世界を再生する力を持つという超高性能ナノマシン『ユーライド』の伝説
それは、あまりに非現実的で、おとぎ話のような希望
だが、スコアのために命を削るだけの明日より、万倍マシだった
さらばだ、錆びついた鳥籠
ブラインは、ペンダントを強く握りしめ、荒廃した世界の果てへ、たった一人、翼を広げた
はじめまして、そしてこの瓦礫の世界へようこそ。作者の呟貝と申します
第一話「王のいない方舟」、お楽しみいただけたでしょうか
たった一人、ルールを破って飛び立った青年「ブライン」彼の無謀な逃避行は希望への飛翔か、それとも破滅への序曲か、彼を静かに見送ったライバル「エフニス」の瞳には何が映っていたのか。そして、姉が遺した「ユーライド」の伝説とは……。
多くの謎を乗せて、彼の方舟は今、荒野へと漕ぎ出しました。
次話、孤独な逃亡の果てに彼を待つのは、安息の「枝」か、それとも新たな嵐か。
ブラインの旅路を、どうか最後まで見届けてやってください。