後編
ややあって。
汗を行水で流し、食事をしっかり摂って火盗改の役宅に出勤した衣織は、この日は捜査のために市中を歩き回り、スリを捕まえるなどしつつもその日の通常業務を終えた。
さらに、呉服問屋に押し込みをかける盗賊への捕り物で深夜に出動し、刃向かってきた下っ端を6人ほど斬り伏せるなど大活躍し、未明にやっと自宅への帰路についた。
「……?」
だがその道中、面頬男とほっかむりに狐の面をつけた2人組が、竹藪の中へと入って行く様子を見付け、不審に思った衣織は家紋の提灯を消して、足音を立てずにその後を着いていく。
「――して、首尾の方は?」
「――は。つい先程、下総の文吉めに約束させました」
男2人の声が聞こえてきて、見付からない様に姿勢を落とした衣織は、獣道程度の細さの通路から外れて藪の中に身を潜める。
「そうかそうか。これで弁天屋の件は安泰だな」
「は。左様でございます」
「しかし、あの〝鬼〟が長官になってから、おつとめもやりにくくなったものだ」
「で、ございますね」
「その上、数が足らないとはいえ、女でも使わねばならんとは頭が痛うてたまらん」
女、に強い侮りが籠もった面頬男の声に、衣織は眉間のしわを不愉快そうに深くする。
「流行病とは恐ろしいものですな。おお、確か火盗の同心にもいるとか」
「そうだな。――ちょうどそこにいる者がそれだな」
「――ッ!」
一切物音を立てていなかったはずだが気付かれた衣織は、脱兎のごとく竹藪を疾走して逃げに走った。
笛が鳴らされ、湧いて出たかのように何人もの盗賊の気配が、その背中をめがけて詰め寄ってくる。
「畜生どこだ?」
「ひとまず散開して探せ」
「へいっ」
だが、ひたすらすばしっこい〝山猫小僧〟を追い回してきた衣織の脚力に、盗賊共のそれでは全く追いつけずにやがて彼女を見失った。
息も絶え絶えになりつつも逃げおおせた衣織だが、焦りで闇雲に走ったせいで、今どこにいるのかが全くわからなくなっていた。
「あれは……」
周囲を警戒しながら、月明かりだけが照らす竹藪を進んでいると、偶然荒れているお堂を発見した衣織はその中へと逃げ込んだ。
「……?」
そこで扉を閉めて人心地ついたところで、衣織の視界がぐにゃっと歪み、彼女は薄汚い床へと倒れ込んだ。
「しまった吹き矢か……」
目の前の右上腕部に、興奮していたせいで気が付かなかったが、太い針が刺さっている事を確認し、自分が毒に冒されていることに気が付いた。
毒の量自体は大した事ないが、衣織の身体は麻痺して鈍くしか動く事ができなくなってしまった。
「う、う……」
その上、運の悪いことに盗賊がよくする歩き方の足音が近寄ってきて、悪あがきとばかりになんとか柄に手を置くが、抜く前にお堂の扉が開いてしまった。
もちろん振るうどころの状態ではなく、辱めをうけるのか、それとも殺されるのか、と目をギュッと閉じて覚悟するが、
「姐さん? どうしてこんな所にいるんでぃ?」
その人物が出した声は聞き覚えのある、声の高い男の様な、若干ハスキーなそれで、ゆっくりと目を開けた。
目に入ってきたのは、山猫のお面と黒いほっかむり、という〝山猫小僧〟の出で立ちをしたたつだった。
「しびれ薬か。ならコイツを飲めば収まり……。いや、悩んでる場合じゃねぇか」
まともに声が出せない様子を見て原因を看破したたつは、扉を閉めると腰の巾着から薬入れを出し、痺れ毒に拮抗する成分が入った丸薬を取りだした。
「ちょいと失礼」
「――ッ」
少しの逡巡の後、それを自分の口に入れると、半身を起こした衣織の顔を真上に向けて、その口を開いて自分の口をつけると丸薬を飲み込ませた。
突然の行動に目を白黒させる衣織と、口元に手を当てて彼女を見ない様にする、真っ赤な顔のたつは、薬が効くまでの間身じろぎ1つしなかった。
「た、助かりました……」
「い、良いって事よ……」
「姐さんはあれかい? 仕事?」
「まあ大ざっぱに言えば……。あなたはおつとめですか?」
「その通りでごぜぇます」
「そうですか。一体何を?」
「ちと頼まれ事でね。さるお武家様の江戸屋敷から、書状を頂いてきやしてね」
「わかりました。――ではお縄ということで」
壁により掛かっている衣織と、向かい合って座っていたたつは、まさかこの状況でやって来るとは思っておらず、衣織に両手首を縛り付けられてしまった。
「ちょっ、待てぃ! 今絶対そんな場合じゃねぇでしょ!?」
「何を言いますか。この機を逃すわけには行かないでしょう」
「ええい、仕事熱心なことでっ!」
割と一世一代の覚悟を持ってやったのに、そんな仕打ちを喰らったたつは、ムスッとした顔をしてしれっと縄抜けをした。
「あっ」
「あのなあ姐さん。冷静に考えても見てくだせぇ。恐らく周りは賊の群れがうじゃうじゃだ。姐さん1人と足手まとい付きじゃ流石に死ぬぜ?」
「それも……。そうですね」
「その間、なんとか行けそうかと算段しやしたね……?」
「はい。5割だったのでやめました」
「ちなみにどのくらいなら行けると?」
「5割5分以上なら」
「勇猛果敢すぎゃしやせん?」
5秒程度小さく首を傾げてから頷いた衣織の発言に、偵察でみた尋常じゃない戦闘力を思い出し、たつは意外とその数字に説得力があるので笑えなかった。
「む。どうやら勘づかれた様です」
ちょっと引いているたつを不思議そうに見ていた衣織だが、周囲に気配を察知して、目を細くしながら刀の柄に手を掛けた。
たつが半信半疑で格子から外を覗くと、白み始めた空が竹藪の隙間から見える中、お面姿の複数人がお堂のすぐ目の前まで来ていた。
「お――〝山猫小僧〟1人で何人斬れますか?」
「お侍様の基準で勘定しないでくだせぇよ」
「わかりました。私が暴れますので奇襲という事ですね。吹き矢を使う者がいま――」
「……姐さん戦国乱世からお越しになったんで?」
あくまで自身の大立ち回り前提の提案をする衣織に、たつはため息交じりにかぶりを振って話の腰を折った。
「こういう多対1の場合、最低限の行動で最大限の効果を出すのが鉄則でさぁ」
「というと?」
「その場から逃げるだろう、という思い込みを利用する作戦でござい」
たつはそういうと懐を探り、かんしゃく玉のような物を3つ、右手の指の股にはさんで取りだし、
「やいやいやい! たった1人を相手に大勢でかかるなんざ、テメェら粋じゃねぇナァ!」
思い切り扉を蹴り開けつつ大声で言い、それを地面に叩きつけた。
「な、なんだぁ!?」
すると猛烈な勢いで煙が吹き出し、追加でもう1つ投げつけお堂の周りを覆い隠した。
「クソ! 前が見えねぇ!」
「奥だ! 奥の方に逃げたぞ! 追えー!」
不意を突かれて混乱するお面達は、その呼びかけに反応してお堂から奥の方へと走っていった。
「こんなのでいいんですね……」
「まあ下っ端なんざ声に合わせて動くだけの木偶でさぁ」
その少し後から、盗賊達がたつの声真似に騙されて向かった方とは逆に、衣織とたつは全力疾走し、江戸の市中の方へと無事に逃げおおせた。
ややあって。
「ほう、そいつぁ穏やかじゃねぇなぁ」
そのまま、お面を外したたつと共に衣織は火盗改の役宅へとたどり着き、寝間着の小袖のまま、煙管片手に広縁へ出てきた長官に余すことなく報告した。
「しかし両国の弁天屋か。密偵(元盗賊で火盗改長官直属のスパイのこと)連中から報告すらねぇとは、相当上手く立ち回っていやがるな。のぅ衣織よ」
「は」
しかし知った以上、この〝鬼〟の目を逃れさせる訳には行かねぇなァ、と長官は煙管の先の吸い殻を、カンッ、という高らかな音とともに煙草盆の灰落としに捨てた。
そのとき垣間見せた、賊の群れは1匹たりとも逃さない、という意思が言葉にせずとも伝わってくる、あだ名通りの鬼の形相を見て、たつは身体の芯から震え上がった。
「でだ。衣織よ。その女子は〝山猫小僧〟で相違ないな?」
「えっ」
「流石のご慧眼でごぜぇます」
報告し終えた後で、一介の盗賊として説明しようとしていた衣織が、控えていた顔を焦った様子で上げると、たつは潔く自らの正体を認めた。
「な、何故……?」
「ん? いやぁ、衣織の説明通りの顔つきをしていたのでな。ちと鎌を掛けてみた」
「えっ、あの福笑いの上等なヤツが仕上がるもんで、ですかい!?」
神妙にしていたたつだったが、真剣に見れば見るほど自分に見えなくなる始末の、酷い人相書きを産んだ説明で理解した事に引っくり返りそうになった。
「長官に言わなくても良いではないですかっ」
「いてっ」
「いや。ありゃ描き手の理解力が足らぬのだ。気にするな」
全身まっ赤っかになってたつの後頭部を引っぱたいた衣織へ、長官は愉快そうな忍び笑い交じりに言った。
「……。では何故直させなかったのです……?」
「衣織ほどの同心に追われて捕まらぬ程の盗賊ならば、密偵にしてしまう方が市中の平穏に繋がると思うてな」
長官にしてはいい加減過ぎる対応にはたと気が付き、目をしばたたかせて彼に訊ねると、口元に薄く笑みを浮かべて答えた。
「そ、それならそうと言って下されば……」
「釜ゆでを恐れて肝を冷やす事もなかったな? いやぁ、すまぬすまぬ」
どうやってたつを釜ゆで刑にさせないか、という事を役宅に着いてから延々考えていたが、要らなかったと分かってヘナヘナと地面に伏せった。
「というわけでだ、後は本人の意思次第だ、と思うたが、しばらくダメそうであるな」
「はい?」
「……」
「あっ、おたつさん!?」
発言の意図を図りかねて長官を見た衣織は、彼が煙管で指し示す先を見て、たつが自身のさっきの一撃で気絶して、地面に突っ伏していたことに気が付いてわたわたする。
その一月後。
草木も眠る丑三つ時。慎重に慎重を期し、本来の決行日よりもかなり後ろにずらし、弁天屋を襲撃にかかる盗賊たちおよそ20名は、今回のおつとめの鍵である、とっくに足を洗った錠前外しの名手・文吉の到着を待っていた。
「――ええい、文吉はまだかっ」
「お頭っ、文吉の野郎、煙の様にいなくなってやがりましたっ」
「なにっ。娘は?」
「てぇへんです! 出羽守様の屋敷に奉行所が立ち入り、娘が助け出されたと……」
しかし文吉は来ず、頼みの人質である彼の娘も保護されたと聞き、賊の頭目は、その背筋に死神が取り憑くような猛烈に嫌な予感を覚えた。
「ちっ、失敗だ! 散れ散れッ!」
きっぱりと諦める判断をして、手下共へ逃げる様に指示を飛ばしたが、
「おおっと、そうは行かぬぞ!」
次の瞬間、朗々とした一声と共に、盗賊達を挟み撃ちにする格好で、同心達と火盗の提灯と棒を持った役人が周囲の建物内からゾロゾロと現われた。
「火付盗賊改方であーるッ! 神妙に致せぇええええッ!」
そして、辻から馬に乗った、鎧と縁の反った陣笠を被った火盗改の長官が現われ、盗賊達が1人残らず恐れおののく、凶悪な賊を地獄にたたき落とす叫び声を上げた。
「ち、畜生がぁ!」
ヤケクソとばかりに頭目が悪態を吐くと、手下の1人が撤退路を切り開くため、一番貧相にみえる同心へと襲いかかったが、
「せいッ」
それは衣織であり、彼女得意の神速の居合い切りで、その手下は逆袈裟に斬り捨てられた。
「刃向かう者は容赦するな! 斬り捨てぇい!」
それを皮切りに、同心達は盗賊共へ襲いかかって次々とお縄にしていき、その乱戦に乗じて逃げおおせようとした頭目を長官自ら斬り捨て、盗賊は無事に一網打尽にされた。
その後、たつが盗み出していた書状を証拠に、盗賊に加担した北原出羽守金鞆は、お上から切腹を言い渡され北原家は取り潰しとなり、無理やり従わされていた文吉は、娘と共に江戸所払いという軽微な罰にとどまった。
大捕物の夜が明けた頃。衣織は自宅へと足早に帰ってきた。
「おっ。ご無事のお帰りで」
「はい」
ちょうど玄関先に打ち水をしているたつがいて、穏やかに微笑んで疲れた家主を出迎えた。
「もう密偵なんですから、気楽な町人暮らしに戻られても良いのですよ?」
その事に、しっくり収まる安心感を覚えた衣織だが、たつを縛り付けたくはないので、そう彼女へ提案する。
「てやんでぃ。元から好きでやってんでさぁ。姐さんの事も含めてなっ」
すると、彼女は照れくさそうにそう言って、ニカッと笑いながらそれを断り、いつも通り朝食に何が食べたいのかを衣織へと訊ねた。