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前編

 男のみが罹るとある流行はやり病によって、人口の男女比が1対4となった、史実とは異なる歴史を歩んだ江戸。


 いくら歴史が変われども、凶悪な賊の群れによる火付け、強盗は後を絶たず、火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためがたも変わらず江戸の市中を休む暇もなく駆けずり回っていた。


 そんな中、跡取り不足によって取り潰しが多発した事を受け、幕府はやむを得ず武芸に秀でた長女が家督を継ぐ事を許可し、下級武士の家に生を受けた長女・田中たなか佐平さへい衣織いおりもまた、同心として時の火盗改かとうあらため長官によって取り立てられた1人であった。


 衣織は武芸もさることながら、実務に関しても完璧・丁寧な仕事ぶりから、職に就いてからほんの数月で長官や同心筆頭からいたく信用されていた。


 隙をみて行われる同心達の稽古にて、今も自身より大きな相手を真一文字に切り伏せた、総髪を一つ縛りにしている衣織を見て、


「いくら人手不足とはいえ、女子おなごの同心とはなぁ」


 稽古場の壁際に正座している、やや肥満の男同心が顔をしかめてぼそりと漏らした。


 彼女の他にも、複数組の同心達が声を張り上げつつ、木刀で激しく打ち合っている。


「拙者を含めたその女子に散々打ち据えられたのは、一体どこのどいつであったかな?」

「貴殿より田中殿の方が召し捕った人数も遥かに多いではないか」

「文句を言う前に武士の端くれなら精進に励むのだな」

「まずその緩んだ腹をどうにかすべきでは?」


 周辺にいた同心達が、そのひがみ混じりに陰口を漏らす男同心へ、しらけた視線を向けて口々にそう言って袋だたきにする。


「せ、世間一般から見ての話ではないかっ」


 手心もない言葉を浴びせられ、赤面している男同心が言い訳しようとすると、


「――おうキツネ。おめぇ、この俺の目に曇りがあるって言いてぇのか?」


 後ろのふすまがガラッと開いて、ちょっと前から盗み聞きしていた火盗改の長官が、非常に人の悪い笑みを浮かべて、キツネ、と呼んだ彼の両肩に後ろから手を置いて言う。


 衣織を含めた他の同心達は各々彼の方を向いて一斉に控えるが、いらんいらん、と長官は払うように手を振るいながら頭を上げさせた。


 ちなみにキツネとは名前ではなく、彼が稲荷寿司いなりずしを好んで食べている事からの連想で、長官からそうあだ名されている。


「おっ、長官おかしら!? 滅相もございませぬっ」

「そんな器の小せぇ事を言ったと聞きゃあ、お前の親父ろうじゆう殿が何と言うか……」


 一瞬遅れて素早く長官と向き合ったキツネは、ご勘弁を、と青い顔でへこへこ頭を下げて、渋い顔でかぶりを振る彼へ許しを請う。


「おいおい、俺に謝ってどうする。相手が違ぇぜ?」


 ちょうどまた、先程の相手よりもガタイの良い男同心を足払いでスッ転ばせた衣織を、長官は煙管で指しつつ情けない顔のキツネへ促す。


「いささか口が過ぎ申した。この通りだ田中殿」

「……はい? 何のことやら……」


 一礼して脇にはけてきた衣織に対して、キツネは深々と頭を下げたが、集中していた彼女は割と大きめだった彼の発言を全く聞いておらず、目を丸くして首を傾げた。


「ふはは。残念だったなぁキツネ。おめぇのことなんぞ眼中にねぇらしい」

「お言葉ですが長官。この衣織、彼は共に精進する同輩の1人である、と認識しております」

「おう、そうかそうか」


 ストン、と正座になって小さく頭を下げつつ反論する衣織へ、何度か頷いてそう言った長官は、


「そりゃ悪かったなぁキツネ」

「い、いえ……」


 恐縮しきりのキツネへ手刀を切って謝ると、邪魔したな、と言ってフラリと去って行った。


 市中見回りの後、書類仕事をさっさと終わらせた衣織は、火盗改方の役宅から少し離れたところにある自宅へと帰った。


 衣織自身は下級武士でしかないが、元々はそれなりに武勲のある家系であったため、邸宅は独り身の御家人にしてはやや持て余す大きさをしている。


 父親や上にいた3人兄弟達は全員流行病で死に、母親は衣織を産んだ際に死んだため、彼女のその決して広くはない肩に、お家の存続という重荷がのしかかっていた。


「おう。お早いお帰りで」


 薄暗くなりつつある道を通って非常に簡素な門を潜ると、手ぬぐいを頭に巻いた、いかにも町人の男という風体の女が、入って左にある土間の方からひょっこりとやって来た。


「……何のつもりですか?」


 かなり気安い態度の女に対し、衣織は非常に鬱陶しそうな様子で顔をしかめ、空っ風ぐらいの冷たさを持つ物言いをした。


「おうおう、冷てぇじゃねぇのあねさん。せっかくあっしが温いメシをけえってすぐ食えるように、と用意したってのによ」


 門を閉めて閂をかける衣織に、女は唇を尖らせて少し不満げに言う。


「頼んではいません。大体、自分で夕餉ゆうげの支度程度は出来ます」

「支度って、めざしを黒焼きにしたり、出汁をとってねぇみそ汁を作ってなにが出来るってぇいうんですかい?」

「……た、たまたま失敗しただけです」


 割と容赦なく言ってくる女の言葉に、表情を変えることはないが、頬を恥ずかしそうに染めつつ、衣織はそそくさと家へと上がっていった。


 草履を脱いだところで、土間の方から入ってきた女がもう奥座敷の前へとやって来ていて、鞘ごと抜いた刀を預かろうと手を差し出すが、衣織はそれを無視して通過した。


「風呂、湧かしておきましたぜ」

「私は行水で構わないと言っているでしょう? 薪代の無駄じゃないですか」

「姐さん人の倍は忙しく働いてんですから、そのぐらいは良いじゃねぇですか。ま、あっしが貰ってきた廃材を燃やしてるんで、その辺りはご心配なく」

「相変わらずよく分からない人脈をもってますねぇ……」


 正面から見て左奥にある風呂場を親指でさしながら、愛想が良い笑みを浮かべているたつへ、パチパチと瞬きして感心の声を漏らした。


 一見、小間使いの様に甲斐甲斐しく振る舞っているこの女だが、


「それはそうと、あなた天敵たる同心の家によく堂々と居座りますよね。しかもあなたに関しては私が専任なんですが」

「あっしがその山猫某っていう盗人ぬすっとだっていう証拠もねぇのに、何を恐れる事があるんで?」


 正体はごうつくばりから金銭を盗み出し、恵まれない庶民にばら撒く怪盗〝山猫小僧〟のたつであった。


「人相書きも、衣織殿が説明ヘッタクソなせいで当てにならないんじゃねぇ」

「ぐ……」


 ニヤニヤとした目つきで事実を並べられ、衣織はぐうの音も出ない様子で渋い顔をしつつ、床の間にある横向きの刀掛け台に刀を置いた。


「……次は絶対に縄を掛けますからね」

「おう。望むところでぃ。ところで、ちぃと晩メシに食うもんじゃねぇかもだが、良いアサリが手に入ったもんで、深川飯にしたぜ」


 広縁に出て風呂場に向かって移動しながら、悔しそうに宣言した衣織へ、口元を挑戦的に曲げながら答えたたつは、話を変えて今日の夕飯について彼女に伝えた。


「別に腹が膨れればなんでも構いません」

「まー、姐さんはこと食に関しては無頓着でいけねぇや」


 やや呆れ混じりにかぶりを振って言うたつに、


長官おかしらにも同じ様な事を言われましたが、そこまで大事な事なのですか?」


 本当に何も分かっていない様子で衣織は首を傾げて訊ねた。


「たりめぇよ。江戸暮らしときたら飯に拘ってこそじゃねぇか」

「そういうものですか。……ちなみに、盗んできたわけではないですよね。アサリ」

「姐さんから頂いた額の中から出して買ったに決まってんじゃねぇですか」


 あっしはそういう盗みはしないと姐さんはご存じでしょうに、不要に疑われたたつはジト目で衣織へ文句を言う。


「それは申し訳ない事を」

「構やしねぇよ。疑うのが姐さんの仕事でさぁ」


 立ち止まって頭を下げた衣織へ、な事はいいから早く入ってしまってくだせえよ、と手を払うようにしてたつは言い、風呂場へ繋がる障子を開けた。


 烏の行水を地で行く速度で汗を流し、寝間着の小袖に着替えた衣織が茶の間に行くと、まだかかるものだと思っていたたつが、繋がっている土間の作業代で具と飯を混ぜ合わせているところだった。


 六畳の茶の間には、たつによってろうそくが点されていて、上座の方に衣織の座布団とお膳台が、土間を背にする下座の方にたつのそれが置かれていた。


「なんでもう上がってきてんです?」

「早く、と言ったのはあなたじゃないですか」

「上がるのまで早くとは言ってねぇでんす」


 二度見して訊ねてくるたつに、困惑した様子で衣織は首を傾げて言うが、彼女からの説明に自分が勘違いしていた事に気が付いてハッと口元を覆った。


「どうやら大分お疲れのご様子で」

「そのようですね……」


 非常にバカらしいそれに、耳まで真っ赤にしている衣織をたつはバカにはせず、ご苦労様でんす、と心配そうに眉を曲げて労いの言葉をかけた。


「あっしがしますんで、姐さんは上げ膳据え膳で座っててくだせぇ」

「結構です。あなたは別に小間使いでもなんでもないので」


 彼女はたつの厚意をやや冷たく断り、土間に降りて自分で米と具を茶碗に盛り、漆碗にみそ汁を入れた。


「それだけじゃ物足りなくねぇかい?」

「贅沢はしませんよ。大した稼ぎもないんですから」

「でも漬物ぐらいは食べてぇでしょ? ご用意してるぜぃ」


 その2つだけをお膳台に乗せて茶の間に持って行った衣織へ、たつは水瓶の水で手を洗うと、土間の片隅においてあるふた付きの壺から、大根のぬか漬けを取りだしてドヤ顔をする。


「いつの間に……」

「随分前からでさぁ。姐さんどんだけ料理に関心ないんで?」


 素早く大根をやや厚めに切りながら、たつは冗談抜きに目をパチクリしている衣織に少し引いていた。


 たつの作った深川飯は、少し硬めに炊かれた米と絶妙な味付けと火の入れ加減の具が合わさり、下手な屋台や飯屋のそれを軽く超えた味になっていた。


「どこで習ったのですか。これ」

「別にどこってぇ事はこたぁねえでんす」

「それでこの私が違うと思う程の物は作れないと思いますが」

「言うまでもねぇでしょ。盗むのはあっしの得意分野ですぜ?」

「詰まるところ技を?」

「正解。下っ端の頃に偵察で飯屋に行ったとき、暇潰しで観察してたら覚えちまったわけよ」

「その腕で飯屋をやった方が良いのでは?」

「それじゃ面白みが足りねぇんだよなぁ」


 飯屋に命かけてる連中にゃあ悪いが、と、たつはゆっくりかぶりを振る。


「私としても、そちらの方が江戸の治安維持にもなるので助かるんですがね」


 そう言って飯にほうじ茶をかけてすする衣織に、少し良いかもしれない、と一瞬考えていたたつだったが、


「……。というか絶対ぜつてえ主目的はそれじゃねぇですかぃ?」

「バレましたか」


 冷静になって衣織の提案を拒否し、そうなるのを分かっていた様子で衣織は小さく舌を出した。


「姐さん。お仕事とはいえ、あっしをお縄にしたら間違まちげぇなく釜ゆでになっけど、それで姐さんは割り切れるんで?」

「はい」

「ええっ」

「それはそれ、これはこれ、です。お墓は立派なものを建てますし参りもしますよ」

「んなお侍様みてぇな」

「そうですよ。30俵2人扶持ふちですが」

「そういうことじゃねぇんですよ……」


 一切の葛藤を感じさせない極めてサッパリとした物言いに、粋じゃねぇなぁ、と頭が痛そうにかぶりを振った。


「んな風に思ってるヤツが作った飯を平気で食うんだから太ぇお人だぜ」

「あなたは毒を盛るような真似まねはしない小粋な人でしょう?」


 そりゃあまぁ、と少し照れて鼻を擦って答えるたつへ、それに分かってからでもあなたを斬る程度は造作も無い事なので、と真顔で答えて湯飲みの茶を啜った。


「ははぁん。さては舐めてやがりますね?」

「はい。なんなら今からでも、あなたを三途さんずの川の船着き場まで連れて行きましょうか?」

「ひぇっ。メシ食ってるときにする話じゃねぇよ姐さーん……」


 戯れに殺気を一瞬だけ向けられ、たつは青ざめた顔を引きつらせて後ずさった。


「冗談です」

「あのなぁ姐さん。冗談ってぇのはな、愉快なもんじゃねぇとダメなんだぜ」

「なるほど」


 だからお前の冗談は怖いとよく言われるわけです、と合点がいった様子で眉を上げて言い、難しそうな顔で腕組みをして悩み始め、たつに呆れたため息を吐かれた。

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