欠落したピース
冷たいコンクリートジャングル、東京。
無機質な高層ビルが、まるで巨大な墓標のように空へと競り立つオフィス街。その一角にある中堅IT企業「サイバーネクサス」は、29歳のプログラマー・佐藤翔太が今日も戦う場所だ。
プログラマーとしての腕は確かで、社内でも一目置かれる存在。それでも彼の心は、何かが欠けたままのパズルのように、いつも満たされない空虚さを抱えていた。
金曜日。1週間の仕事を終えた安堵からか、オフィスにはいつもより軽い空気が漂う。
週末の予定を楽しそうに話す同僚たち。その声があちこちから聞こえてくるが、翔太は黙々とディスプレイに向かい、キーボードを叩き続けていた。
「翔太、例のバグはどうだ? 進捗を教えてくれないか?」
背後から声をかけてきたのは、チームリーダーの高橋。
翔太より5つ年上で面倒見が良く、頼れる兄貴分のような存在だ。人柄の温かさもあって、確かな技術と的確な指示でチームを支える、まさに精神的支柱だった。
「はい。今、最終テストの段階です。今日中には仕上げられそうです」
翔太はディスプレイを見つめたまま報告する。画面には一般人には呪文のようにしか見えないコードが複雑に並んでいた。
その“文字の海”は、翔太にとっては頼りになる相棒であり、同時にバグという名のモンスターが潜む戦場でもある。
「助かる。クライアントが急いでる案件だし、品質管理部からOKが出たら、早めにリリースしたいんだ。頼んだぞ」
そう言って高橋は翔太の肩を軽く叩き、自席へと戻っていった。
チームの司令塔とも言える高橋の存在を、翔太は尊敬している。だが同時に、「彼のようにはなれない」と感じるもどかしさも拭えない。
再びコードに意識を向ける。すでにバグの原因は突き止めていた。
それは、翔太自身が書いたコードの些細なスペルミス。普段の彼なら絶対に見落とさないような初歩的ミスだったが、それがシステム全体に深刻な問題を引き起こしていたのだ。
(何やってるんだ、最近本当にミスが増えたな…)
そう思いながら、小さくため息をつき、固まった首を回す。
原因は分かっている。寝不足だ。
プロジェクトの忙しさから睡眠時間が削られているのも一因だが、より大きな理由は、家に帰ってからの孤独に耐えられず、夜更かしをしてしまうこと。
ネットサーフィンや動画を眺めて無為に時間を潰し、気づけば深夜を回っている。
今日も遅くなるだろう。誰もいない部屋で冷めきった食事をとり、そのまま眠りにつく自分を想像するだけで、胸が重く沈む。
孤独という名の鎖が、じわじわと心に巻きついてくるようだった。
時刻は午後10時を回り、ようやくバグ修正とテストが完了した。
翔太は両腕を大きく伸ばし、悲鳴を上げる肩や腰をほぐす。
「お疲れ、翔太。今日はもう上がってくれ。遅くまで助かった」
高橋の表情には、いつもの厳しさよりも労わりの色が浮かんでいた。
「ありがとうございます。お先に失礼します」
そう言ってオフィスを出る。
金曜の夜だというのに、まだ多くの社員が残業をしていた。彼らの姿は、巨大な歯車が連動する機械の一部のように見える。もちろん、翔太もその一つに過ぎない。
ビルを出ると、真冬の冷たい夜風が容赦なく肌を刺す。
その刺すような寒さが、徹夜続きでぼんやりした頭を少しだけクリアにしてくれた。コートの襟を立てながら、足早に駅へと向かう。
電車に揺られ、外の夜景をぼんやりと眺める。
流れ去っていくネオンの光は、自分の人生がただ通り過ぎていくように見えて、やるせない。
(このままでいいのか…? 何も変わらないまま流されていって、本当に…?)
大きな不満があるわけではないが、心から満ち足りているかと問われれば、素直にうなずけない自分がいる。
大学時代、翔太は軽音サークルでギターを担当していた。
仲間と音を奏でる時間は何ものにも代えがたく、特にベース担当の健二とは性格こそ正反対ながら妙に気が合い、親友と呼べるほどの存在だった。彼らはいつかプロになろうと夢見て、学業そっちのけで音楽に没頭した。
それこそ、未来への希望と無限の可能性にあふれていた時代――。
だが、現実は甘くない。自分にはプロとしての才能が足りないと悟った翔太は、大学3年の頃にバンド解散を提案。ほかのメンバーは渋々同意したが、健二だけは最後まで猛反対だった。
『お前、本気で諦めるのか!? このまま普通に就職して終わりでいいのかよ!?』
怒りと悲しみに揺れる健二の表情を、翔太はいまでもはっきり覚えている。
それでも自分の意思は変わらず、バンドは解散。そうしてメンバーとの付き合いも自然と薄れていき、健二とは完全に連絡を絶ったままだ。最後に顔を合わせたのは、5年以上前になる。
さらに半年前、3年間付き合った恋人・美咲とも別れた。
明るくて包容力があり、太陽のように周囲を照らす美咲。翔太はそんな彼女に癒され、結婚さえ意識していた。
しかし仕事を優先するあまり、彼女の寂しさや不安を汲み取ろうとしなかった。積もったわだかまりは深い溝となり、最終的に修復不能になってしまったのだ。
『あなたはいつも自分のことばかり。私が何を感じているかなんて、考えもしないよね…。もう疲れたの』
別れ際に美咲から言われた言葉は、まるで凶器のように胸に突き刺さった。
そう、翔太はいつも大切なものを失ってから気づくのだ。
(俺は、結局いつも同じ過ちを繰り返して…)
最寄り駅に着き、改札を抜けて静かな住宅街を歩く。
築30年以上は経っていそうな古びたアパートが、翔太の住まいだ。オートロックはもちろんない。人気のない階段を上り、がちゃりと部屋の鍵を開けると、冷たい空気が出迎える。
照明をつけ、エアコンのスイッチを入れても、部屋が暖まるまでには時間がかかる。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルタブを開けて一気に喉へ流し込み、ソファに沈む。
テレビをつけても特に見たい番組はなく、騒がしい深夜のバラエティをなんとなく流しては、リモコンでチャンネルを変え続ける。
画面には、笑い合う人々の姿。だが今の翔太には、あまりに遠い世界に思えた。
(あんなふうに笑い合える相手は、もういない…)
やがてテレビを消し、暗闇の静寂に身を任せる。すると孤独がさらに濃く広がっていくようだった。
一人で生きて、一人で寝て、また一人で仕事へ行く。それがいつまで続くのか。
答えのない問いがぐるぐると頭を巡る。
ふと脳裏に浮かぶのは、大学時代の仲間や健二、そして美咲の顔。
あの頃は確かに何かを夢見ていた。失った今だからこそ、戻れないからこそ、あの頃を思うたびに後悔の念が募る。
もし、バンドを続けていたら。もし、健二と衝突せずに済んでいたら。もし、美咲の気持ちにもっと寄り添っていたら――。
「もし」だらけの後悔が波のように押し寄せ、彼の心を締め付ける。
そのとき、部屋の隅に置いたままの段ボール箱が目に入った。
引っ越しの際、実家から持ってきてずっと開けずに放置していたものだ。
なぜか引き寄せられるように立ち上がり、箱のもとへ近づく。
埃を払い、中を探ると、大学時代の思い出の品々が詰まっていた。
ライブのチケット、写真、使い古された楽譜、折れたドラムスティック…。
それらは今も、当時の輝きを宿しているように見える。
「これは…」
翔太が手に取ったのは、サークルの仲間たちと書いた寄せ書きだった。
色あせた写真とインクが滲んだメッセージ。そこには懐かしい笑顔の自分と仲間たちの姿があった。
『翔太、お前のギターは最高だぜ! いつか一緒にでっかいステージに立とうな!』――健二
『翔太の作る曲、めちゃくちゃ好き! いつかみんなを笑顔にしたいよね!』――美咲
『困ったらいつでも言えよ。息抜きに飲みに行くのも大事だからな!』――山田(ドラム担当)
『翔太のギターは俺たちの要だ。最高のバンドにしようぜ!』――川村(ボーカル担当)
その文字たちは色あせながらも力強く、あの頃の情熱を今に伝えてくる。
読み返すうちに、翔太の目尻に涙が滲んだ。
夢や仲間、そして恋人――あのときはすべてが手の届く場所にあったのに、今の自分には何も残っていない。
「もう一度…やり直せるなら…」
寄せ書きをぎゅっと握りしめ、絞り出すように声を落とす。
すると、段ボールの底からかすかな光が洩れていることに気づいた。
翔太は不思議に思いながら、箱の奥に手を伸ばす。
指先に触れたのは、冷たく硬い何か。
取り出してみると、それは古びた銀のペンダントだった。
見たことのない紋章が刻まれ、中央には小さな透明の石がはめ込まれている。その石はまるで小さな星のようにかすかに瞬き、翔太の視線を捉えて離さない。
(こんなペンダント、いつ手に入れたんだ…?)
記憶にはないはずなのに、不思議と手放せない。
凝視していると、石がまるで鼓動するように明滅を繰り返し、ひときわ強い光を放った。
瞬間、眩い光に包まれながら、翔太の意識は遠のいていく。
まるで深い海に沈むように、光の奥へと吸い込まれていくのがわかった――。