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その都市では最近、奇怪な事件が多発していた。
夜中に道を歩いていて、まずは急に目の前が真っ暗になって気絶する。しかも、目が覚めたときには嘔吐や下痢が止まらなくなっているというのだ。
感染症の検査ではなんのウイルスも検出されず、対処療法も効果がない。
しかも、最も重篤な症状としては。
ものすごく臭いのだった。
あまりの悪臭に、収容された病院でも個室に隔離するしかなく、看護士たちも近づきたがらない始末。いやいやながらも家族が付き添ってくれる患者はまだましなほうで、一人暮らしの老人や学生たちは、嘔吐も下痢も自分で処理するしかないという悲惨な状況である。果ては病院側も、この奇妙な患者を受け入れたがらなくなった。
しかたなく家に寝かせておくと、自宅ばかりか向こう三軒両隣に悪臭が広がり、大迷惑となる。
だが、その奇妙な病気が、例の祠を壊されたマンション建設予定地を中心に広がっていることには、まだ市民は誰も気付いていなかった。
一方、はるばる市外から新幹線やら電車やらを乗り継いでやってきた二人は、それを知っていた。
「ここだよ。これが、狐の神様が俺に無理やりデータを送ってきた、問題の場所だ」
地面はすでにブルドーザーで綺麗にならされていたが、年末ともあって工事は一時中断していた。
二人は建設予定地の看板を無視して中へ入り、中央に立って敷地を見回した。
なにしろ地面には何もないので、すぐに全体を確認することができた。
「どこにも祠なんかないけど」
「だから、壊されたんだってば」
フォウが不機嫌に答えた。
実際に壊された場面を見たわけではないが、狐がそう言っているのだから間違いはない。さしずめ、工事の途中でうっかり壊してしまって、運よく誰にも知られなかったので、しめしめとばかり闇に葬ったというところであろう。
「ふうん。ここに妖怪が封印されていたのか」
和彦は地面から土をひとつまみ取り上げて、指の間ですりつぶした。乾いた土はすぐ風にさらわれていった。
和彦の目には、ここは何の変哲もないただの空地でしかない。
しかし、敷地に入ってからずっと、フォウは厳しい表情を崩さなかった。
身体に触れたら静電気でぴりっとしそうなほど緊張している。
「和彦さん、見張っててくれるか?」
「見張るって、何を?」
地面をならしたところで年末休みに入ったか。もしくは、従業員がつぎっぎと例の病にやられたのかもしれない。どっちにしろ、この様子では工事関係の人々が急にやってくることはなさそうだった。
それに、周囲の人家も道を隔てている。
無断で敷地に入っていることを咎めるような住人もなさそうだ。
「誰かがこっちに歩いてきたら、うまくごまかしといてくれよ。今から俺が、ここにちょっとした祭壇を作るから」
「えっ。でもフォウくん、ごまかせって言われても、何をどうしたらいいのか……」
和彦が困っているうちに、フォウはさっさと準備を始めた。
持ってきた大きなバッグから折り畳み式の小テーブルのようなものを取り出し、空地の中央に据える。
バッグの中には他にもいろいろなものが入っていた。
携帯式の燭台に線香立て、ランプに湯呑、もち米の小袋。
それぞれをテーブルの上に配置してから、フォウは次に小さな携帯用の水筒を取り出して、湯呑に赤い液体を注いだ。
水にしてはどろっとしている。
「なんだい、それは」
「鶏の血だよ」
フォウは平然とした口調で怖いことを言った。
「ああ、もちろんこのために生きた鶏を買ってきてかっさばいたわけじゃないよ。本当はそうするのが作法ではあるんだけど。平沢さんとこの鶏舎が鶏をつぶすと聞いたから、もらってきて術をかけて、冷蔵庫に保管しといたんだ」
うっ、と和彦は呻いた。
「冷蔵庫ってもしかして、台所にある、僕らが使ってるやつのことかい?」
「悲壮な声を出すほどのことじゃねえだろ。ちゃんとペットボトルに入れて、外側に俺の名前を書いてたじゃねえか」
「……ああ、あれか。トマトジュースにしては妙な色だなと思っていたんだ」
「よかったな、飲まなくて」
氷浦家には他人の名前が書いてあるものを誰かが勝手に使う習慣はないし、だからこそフォウもそうやって保管していたのだろう。
しかし、一般用の冷蔵庫に呪術道具が保管されているというのも、なかなかすごい話だ。
「研究室にも冷凍庫はあるじゃないか」
「だから、あれは冷凍庫だろ。しかも試薬を保存するためにマイナス何十度にもしてあるんだぜ。鶏の血は、凍らしたら儀式用には使えなくなっちゃうんだよ。これが黒い犬の血だったら、凍らしたやつでも使えたんだけど」
「い、犬の血……」
「ほらな? 鶏の血のほうがお手軽だろ?」
お手軽かどうかはともかく。
最後にフォウが取り出したのは、伸縮式の棒のようなものだった。フォウがそれを手早く伸ばした。すると、先端に複雑な飾りのついた儀式用の錫杖となった。
フォウはおもむろにマッチを擦って、その両側に火を点けた。
祭壇の蝋燭と線香にも火をともす。
その前で燃える棒をぐるぐると器用に振り回した。曲芸師の使う火の技の要領だ。両側が火炎の環の形になる。
フォウは棒を回しながら、呪文を唱えた。
「臣、慎みて五陽霊神に願い奉る……」
そのあとはよく聞こえなくなった。
だが、フォウはひとしきり口の中で言葉を転がした後、回していた火炎棒を振りかぶり、いきなり湯呑に叩きつけた。
火花と共に湯呑が割れ、中から鶏の血が飛び出した。
物理法則に従えば、割れた容器の中の液体は四方八方に飛び散るはずだった。しかし、その血は一つの方向へ跳んだ。
まっすぐに直線を描いて地面に落ちる。
描いた赤いその図形は、矢印のように見えた。
「ちっ」
それを見て、フォウは舌打ちした。
「妖怪は、もうここにはいない。夜な夜な戻ってきたりもしていない。完全な抜け殻だ」
「祠のあるこの土地が、元々は妖怪の住み家だったんじゃないのかい? 自分を封じていた祠がなくなったんだから、それこそ大手を振ってここに住めばいいのに」
「俺もそう思ってたんだけどさ。妖怪というのはたいてい、土地に執着するものでもあるし。けれどそいつは、この土地にはもう未練がないらしい。ここから離れて、人間を襲いながら徐々に移動しているんだろう」
「移動って、どこに向かって?」
「知るかよ、そんなこと」
フォウはにべもなく言った。
「お狐さまの情報によると、妖怪の本体は、元は白蛇だったらしいや。動物がひょんなきっかけで長生きしちまって、そのうちに精気を糧にして妖怪になっちまうという、よくあるパターンだったんだろう。犠牲者の状況から考えても、毒を吐いて人間をそいつに包み込み、正気を吸い取ってそれを食料にするっていうタイプみたいだな。それも、いかにも蛇っぽいやりくちだ」
来る前にネットニュースで、この都市で急に発生した奇病については情報を得ていた。突然目の前が真っ暗になって気絶する、というのがつまり、蛇の毒に包まれた状態なのだろう。
そうして、魂を丸呑みされて栄養を吸い取られてしまうのだ。
「患者は正気を失っている者もいれば、かろうじて意識はあるものの、全身がぐったりしている点では共通しているという話だった。つまりそれは、生気を吸われてしまった残りカスになっちまってるということだ」
だが、悪臭とは?
下痢と嘔吐という症状についても、謎である。
悪臭のほうがニュースとしては面白いと思われているのか、インターネットの世界ではかなり誇張された目撃談や被害報告が書き立てられ、注目を集めていた。
病院が悪臭を理由に患者の受け入れを拒否していることにも賛否両論があって、ネットの世界では紛糾していた。
「妖怪というのは、長く封印されていると、性質や攻撃方法にも変化が出てくるものなのかい?」
「うーん。基本的には、封印っていうのは相手の時間を止めるような機序だから、妖怪の力は以前のまんま、のはずなんだけどなあ。けれどニュースで流れてる話が本当なら、あきらかにパワーアップしてるってことになるし」
首をかしげながらも、フォウは指で血の矢印をたどった。
矢印の先からは、それが指している方角を人差し指で指し示してみせる。
鋭い目をして、和彦に言った。
「とにかく、蛇を見つけるしかないよ。つかまえちまえば、さろんな謎も一気に解けるだろ」
「けれど、どうやって?」
「血が示している、この先のどこかにいるはずだ。被害はいつも夜に出ているということだったろ。夜中になるまてで待って、この直線上を歩いていってみよう。ばったり出会えたらめっけものだ」
「大雑把だなあ」
「しょうがねえだろ。てっきりここを根城にして、人を襲うたびに戻ってきてるのかと思ってたのに。そうじゃなくて街をふらふら犠牲者を探して這いまわっているとしたら、大雑把だろうが闇雲だろうが、こっちも同じようにしてみるしかねえよ」
もはや御来光とか初詣とかいう呑気な話を越えて、現実に被害者が出ている重大事である。
確かに、聞いてしまった以上このまま放っておくわけにはいかないし、次の被害者を出さぬためには、急がなければならない。
よその街のことだから、関係ない?
そんなことを言ってフォウに殴られる愚だけは、和彦はやりたくなかった。
それでも、ひとつ溜息をついてしまった。
「一日で片付く、というわけにはいかないようだな。ホテルの延泊の手続きをしておくかい?」
「先のことは俺に聞かれてもわからないってば」
「けど、今は年末だからね。ホテルもこんな時期にいきなり延泊とかいったら、断られちゃうかもしれないし。大晦日とかまでずれこむと、ビシネスホテルでも目の玉が飛び出るくらいの料金を取られてしまうと思うよ」
「ああ、もう!」
フォウは自分の頭をかきむしった。
「なんでこんな面倒くさいこと引き受けちゃったかな、俺たちは!」
それはもう、村のため人々のため。
正義の味方というのは、なかなか辛い立場なのだ。
二人が泊まっているのは、飛び込みでやっと取れたホテルだった。みすぼらしいビジネスホテルなのに、年末とあって、そうとう強気な値段設定だった。
それでも、野宿するよりはましだったので我慢した。
事情はもちろん、氷浦教授にも説明してある。
なにしろ祠の修理は氷浦教授から言い出したことなので、そこで新しい任務を拾ってきた二人に、彼も文句は言わなかった。
「それでも、このホテル代を聞いたら、氷浦教授もでんぐり返って驚くだろうな」
フォウがぼやいた。
「どうしよう、俺の給料から知らない間に天引きされてたりしたら」
和彦は笑って答えた。
「そうしないでくれって、僕からも父さんに頼んでおくよ」
フォウの呪術の道具を置くために、ホテルににいったん戻った。
ついでに近くのコンビニでおにぎりを買って帰って、二人で早めの夕食をすませた。
今までの犠牲者のデータをみると、早い者は日が暮れた後すぐという時間帯に襲われているからだ。
呪術によって割りだした蛇の移動先には、なかなか複雑な配置の住宅地が広がっていた。一直線に突っ切ることはできない。あっちの道がこっちの道につながり、広い道だと思っていたら急に行き止まりになる。
フォウと和彦は地図アプリを頼りに、路地から路地へと歩き回った。
謎の奇病が日没後に通り魔的な方法で起こることは、SNSで広く伝わっていた。
かなり大きな都市であるのに、日暮れになると急に人通りがなくなったのは、そのせいもあるだろう。
被害者が襲われた地点は、かなりの広範囲に広がっていた。そのこともSNSでは話題になっていて、ご親切に分布地図を作っている者もいた。
保存したその画像を見比べながら、フォウが呟いた。
「それにしても蛇は、なぜこの辺りをぐるぐると徘徊してるのかな。祠のあったあの土地に帰るわけでもないし。犠牲者が襲われた場所をつないでみても、どこか目的地があるようにも見えないし」
また行き止まりにぶつかった。
地図の上では通り抜けられそうに見えたのに、路地の奥が鎖と個人の駐車場でふさがれていた。
それを見て、和彦はひらめいた。
「もしかして蛇は、道に迷ってるんじゃないかな」
「ええっ?」
「だって、僕たちだって今、蛇と同じような状況に陥っているじゃないか。この街は蛇が活躍していた頃と違って、再開発で作りが複雑になってしまっているんだよ。だから蛇も勝手が違ってしまっていて、行きたいところに行けないので、困っているんじゃないだろうか」
「はー。なるほどー」
フォウも頷いて、思案げに顎を撫でた。
「つまり蛇は、昼間はどっかに隠れていて、夜になるとうろうろこのあたりをさまよって、どこか目的地へ行くための道を探しているってことか。で、腹が減ると、たまたま出会った人間の生気を吸っている、と……」
「ということは、僕たちは地図アプリじゃなくて、地方図書館とか学校とかで、古地図を見てみるべきなんじゃないかな」
「古地図?」
「蛇が自由に活動していた時代の、この地方のことを調べるんだ。それがわかれば、蛇の目指しているものがわかるかもしれないよ」
二人がそう話していたときだ。
すぐ近くで誰かの悲鳴が聞こえた。
二人はとっさに顔を見合わせ、次には同時に走り出した。
声のした方角に行こうとしたが、またしても複雑に入り組んだ道に困らされた。業を煮やしたフォウは、いきなり塀に取りついてその上に乗った。
「和彦さん、先に行くぜ!」
そのまま大胆に、人家の屋根へ飛び移っていく。猫科の猛獣のようにしなやかな動きで、足音も立てずに幾つもの屋根を乗り越えて、走っていってしまった。
和彦のほうは、そこまで大胆にはなれない。だからといって大声で待ってくれとフォウを呼び止めたら、それこそ自分自身が近所の住人から不審者として通報されてしまう。
焦りながらも路地を回り道し、用水路を飛び越えてフォウの後を追った。
三つ目の角を曲がる。
そこに、フォウがいた。
いたのはもちろん、フォウだけではなかった。
足元には気絶した男性。まだ大学生くらいに見える。白目を剥いて仰向けに倒れているが、怪我はなさそうだ。
そして、その向こう側に。
蛇という言葉から想像するには大きすぎる、まるで怪獣のような大きさのものが鎌首をもたげていた。
白蛇と聞いていたのに、その姿はどこも白くはなかった。
それどころか、どす黒くぬめぬめと光っていて、長い身体のあちこちからは、粘ついた汁のようなものが垂れている。
その汁が地面にたまって、次第に面積を広げていた。
ものすごい悪臭が地面から立ち上ってきた。これには和彦もたまらず、ウッと呻いてしまった。
「あの液体には気をつけろよ、和彦さん」
蛇の正面にたちはだかったフォゥが、振り返らずに背後の和彦に警告した。
「なんだかわからねえが、そいつを吹きかけられると気絶しちまうようだ。てことは臭いが嫌なだけじゃなくて、それに触らないにこしたことはねえ」
言われてよく見ると、倒れた若者も全身に粘液を浴びていた。薄黒い液体が、服のあちこちに染みを作っている。彼の身体も粘液と同じすごい臭いを放っていた。
暗い路地なので肌の部分はよく見えないが、そこにも粘液がこびりついて、じわじわと体内に浸透しつつあるのだろう。
そのうちに嘔吐し始めるのではないか、と和彦が少し心配になったとき。
シャアッ、と大蛇が口を開いた。
小さな蛇も、自分の頭の十倍の大きさがある鳥の卵をなんなく飲み込んでしまうのだ。湿地帯に暮らすアナコンダになると、人間はおろかワニやゾウまで丸呑みできる。蛇は上下の顎の骨がつながっていないため、獲物の大きさに合わせて、どこまでも口を開けることができるのだ。
ましてや、人間をはるかに越える大きさの蛇ときては。
「妖怪退治というよりは、怪獣大作戦って感じだな」
しかしフォウは不敵に笑っていた。
「行くぜ、和彦さん!」
「おう!」
和彦は、さっき飛び越えた用水路に向かって左腕を突き出した。
車の通行のためか上からコンクリートの蓋はされていたが、すぐにその蓋の隙間から水が噴出し始めた。
和彦を目掛けて一直線、リューンの腕輪の周囲に集まってくる。
相手は大物だ。
和彦は水を凍らせて、両手用の大剣の形にした。
その間にもフォウは、手早くマッチで点けた火を手の中にすくいとり、大きな塊へと変化させている。
まばゆく輝く炎に、蛇が頭をややのけぞらせた。
蛇といえど、火は怖いものらしい。
その反応に目ざとく気付いたフォウは、すぐに炎を幾つもの球にして目の前に一列に広げた。
「そらよっ」
球を指で弾いて、次々に蛇へと叩きつける。
大蛇は慌てて身をくねらせて直撃を避けようとした。
だが、フォウはその動きも見切っていた。
ねばねばした身体の表面にヒットした炎は、それ自体が生き物のように蛇の全身を巡り、動きを封じる。
蛇がのたうつ。激しい動きに合わせて粘液が飛び散る。
家の壁やアスファルトにぺちゃりと張り付くと、そこからじわじわと毒が浸透して、黒く染まっていく。植え込みの木にかかり、青々としていた葉がたちまちしおれて枝から垂れ下がった。
恐るべき即効性と威力である。
「うわっ」
フォウがひっくり返った。
蛇が粘液を口から吐き出し、それが腕にかかったのだ。
とっさにフォウは、汚染されたジャケットを脱いで地面に投げ捨てた。
「ちくしょう、せっかくのお気に入りのジャケットが! 高かったんだぞ!」
「そんなことを言ってる場合じゃないだろう!」
和彦はフォウをしかった。
「フォウくん、そこをどけっ!」
両手で剣を構えて、フォウと蛇の間に割り込んだ。
蛇が再び、鎌首をもたげる。
毒を吐く。
とっさに、和彦は氷の剣を盾の形に変えた。
通常の盾よりも大きく広げて、それで自分とフォウの両方をかばった。
冷たく輝く氷のバリアは、さすがの粘液も通過できない。
それでもあきらめ悪く粘つく毒のしずくを、和彦は盾を回転させることで振り払った。
粘液が周囲に散る。
草が枯れ、木が首を垂れる。
悪臭も遠慮なく周囲にふりまかれる。
なんという毒性だ。これはいったい、何なのだ。
防御しながら攻撃する方法を考えようとしたが、あまりにもすごい悪臭が周囲にたちこめていて、集中力が削がれた。
大蛇のほうもフォウの炎を警戒して、次の攻撃のチャンスをつかみかねている。
にらみ合っていると、急に背後が騒がしくなった。
パトカーのサイレンも近づいてきた。
さきほどの若者の悲鳴を聞いたのは、和彦たちだけではなかったようだ。善意の誰かが警察に連絡したらしい。
野次馬が来ないのは、この恐ろしい悪臭のおかげだろう。それと、SNSでさんざん拡散されている被害の概要と。
ナイフで刺されるのも怖いが、自分の身体に悪臭が沁みついて、しかも下痢と嘔吐が止まらなくなるというのは、なかなかに想像しやすい恐ろしさだから、かもしれない。
蛇がくるりと向きを変えた。
この図体でよくもと感心するほど素早い動きだった。
「まっ、待て!」
フォウが跳び起きて追いすがろうとするが、和彦の氷の盾が邪魔になった。
かといって和彦も、まだ蛇が目の前にいる状態では、盾を解除する気にはなれない。
二人でまごまごしている間にも、蛇はすごい勢いで地面を滑って逃げていく。
ふっ、と姿を消した。
「あっ⁉」
フォウは驚愕の叫びを漏らしたし、声には出さないものの和彦もびっくりした。
決して目を離していた瞬間はなかったはずなのに、あれほど大きな蛇の姿が、一瞬で消えたのだ。
和彦がそちらに気をとられたせいで、氷の盾も水に戻った。
とたんに、フォウが弾丸のように走り出した。
蛇の消えた地点まで到達する。
街灯のない暗い路地裏だが、地面を手探りして、そこに蛇の逃げ込めるような穴などがないことを確認した。
だいいち、あの大きさである。
あれが入る穴が地面あったとしたら、近くまで行ってみなくてもわかるはずだ。
「どういうことだ……?」
ガヤガヤと、今度は明確に人の声とわかるものがすぐ近くに迫ってきていた。お巡りさんこっちです、と誰かが叫んでいる。
地面には例の若者が横たわったままである。あいかわらず、臭い。
蛇がいなくなった今、ことさらに犠牲者の臭いが鼻についてきた。
和彦とフォウは目線を交わし、無言で退散を決めた。
「おっと」
脱ぎ捨てたジャンパーをフォウが行きがけに拾った。
和彦が注意するまでもなく、粘液を浴びた腕の部分をくるんで、直に手で触らないように気を付けている。
ちょっと鼻を寄せて、うわやっぱり臭いや、といった。
謎また謎の事件だった。
「これ、正月までに解決するには、どう考えても時間が足りねえよ。しょうがねえ、ここからは二手に分かれようぜ」
走りながらフォウが言った。
「俺はこのまま研究所に戻って、この粘液を分析する。和彦さんはここに残って、図書館調べをしてくれよ。祠と白蛇と、できれば古地図と」
「……それは、面倒なほうを僕に振ったということ?」
「とんでもない! 考えすぎだよ、和彦さん」
確かにフォウは理系の研究者ではあるので、分析を担当するのは理にかなっている。一方の和彦が文系の仕事をするのも納得はできる。
それは十分にわかっていて、やはり釈然としない気分の和彦であった。
一方のフォウは、すでに心は帰還の途上にある。
「帰るといっても、今から新幹線の切符が取れるかなあ。いっそ、出費は度外視で、飛行機で帰っちゃおうか」
「飛行機のほうが先に満席になるんじゃないか? 帰省客というのは、都会から田舎へ移動するものなんだろう?」
「あー」
フォウが額を押さえて呻いた。
「年の瀬、だもんなあ」
その年の瀬に妖怪退治をやっている自分たちが、なんだか道化のように思えてきた。