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「こたつ、買おうぜ」
和彦はぷっと噴き出してしまった。
日本の暖房器具の中に、こたつという魅惑の道具があることをフォウは子供の頃から知っていて、ずっとあこがれていたのだという。
日本製のアニメやドラマに出てきて、みんながそこでごろごろ寛ぐ様を見ては、きっとものすごく気持ちがいいんだろうなあ、と思っていたのだそうだ。
それを阻止したのが他ならぬ九条先生だった。
曰く、こたつは人をダメにする悪魔の道具だ。こたつを与えたらフォウは恐らく、春になるまで中から出てこなくなるだろう。食事も睡眠もこたつの中。そのうちこたつの周辺に何もかもを積み上げて、手の届く範囲だけで暮らすようになる。
えらく具体的な警告ですね、と和彦が言ったら、九条は胸を張って言った。
「子供の頃、冬の俺が毎年そんなふうだったからだ」
それを聞いて氷浦教授はおろか、自分もこたつを体験したことのない和彦でさえ、なるほどと感じ入ってしまった。
結果としてフォウの通信販売サイトでの注文はキャンセルされ、こたつの導入は見送られたのだが。
「父さん、僕からもお願いしますよ。本当にそんな邪悪な道具がこの世界にあるのか、自分の目で見てみたくなりました」
笑いをこらえて和彦がいうと、氷浦教授もしゃっくりのあいの子みたいな音を出して、笑いを喉に飲み込んだ。
せいぜい厳格な顔をしてフォウに告げる。
「こたつを買う前に、ひとつだけ約束してほしい。私が後で九条に、ほうら見たことかと言われるような使い方だけはしないこと」
「は、はい。もちろん」
「一つ、こたつの周囲にものを散らかさない。二つ、こたつに入ったまま眠らない。三つ、こたつで仕事をしない」
子供のしつけのような氷浦教授の言葉に、フォウがいちいち真剣に頷いているのを見て、和彦は慌てて暖炉の火をかき起こすふりをした。おかしいやら、愛らしいやら。
いっそ、ぎゅっと抱きしめてやりたくなる。
可愛いなあ、フォウくんは。
それにしても、こたつとはそれほどに人を楽し気にする代物なのか。
フォウはすっかり元気になって、祠の修理もなんのそのといった調子だ。
「こたつだ、こたつだ! 楽しみだなあ、正月までに届くといいなあ」
注文といっても、山奥という言葉でさえ足りぬ僻地にあるこの研究所まで、宅配業者が荷物を届けてくれるはずもない。
氷浦教授の研究資材であれなんであれ、注文したものは、いったん町で、契約している宅配ボックスに入れてもらうことになっている。
それを後からジープで取りに行くのだ。
「ついでにみかんも買わなくちゃ」
「みかん? なぜだい、フォウくん」
「知らないのかよ和彦さん。こたつに入ったからには、そこでみかんを食べるのが日本の掟なんだぜ」
得々として語るフォウに、氷浦教授はもはや我慢しきれず、笑いにむせて涙までこぼしかけている。
慌てて談話室の隅に駆け寄り、テレビをつけることで顔を隠そうとした。
テレビでは、いかにも年の瀬らしい振り返りニュースが流れていた。
動物園の赤ちゃん誕生や帰省客ラッシュなど、のどかなものばかり選んだかのようなほっこり話である。
「なんか、平和だよなあ日本」
画面を眺めて、しみじみとフォウが言った。
「俺たちはずっと闘ってる感じなのに、世間はこんなに平穏なのって、なんか不思議な気がするよな」
「いいじゃないか、平和なのは」
和彦も真面目に答えた。
陥落寸前のリューンを思い出す。
毎日が硝煙と血の臭いに満ち、兵は次々と倒れ、市民の怨嗟の声が街中に渦巻いていた。それでもあの頃はそれが当たり前の日常となっていたから、なんとも思いはしなかった。正直なところ、平和がどんなものかも知らなかった。
この世界に来て。氷浦教授に拾われて。
フォウと出会って。
気がつけばフォウがじっと和彦の顔をのぞきこんでいた。
大きな黒い目の中に、暗い顔をした自分が映っていた。いけない、と気を取り直して笑顔を浮かべた。
「じゃあ、フォウくん。せっかくの決断が揺らぐ前に、祠の修理には明日行くというのでいいかな? 幸い、ここ数日はいい天気が続いているから。たぶん昼頃に行けば、フォウくんがうずくまって動かなくなるほどの寒さにはならないと思うんだ」
「あっ。ひでえなあ和彦さん」
フォウがことさら陽気な声を上げた。
「いくら寒さに弱いとはいっても、俺は、いったん約束したことを破るような男じゃねえぜ。
それよりも氷浦教授、この後すぐに通販サイトでこたつを注文してもいいですよね? もちろん、払いは俺がするってことで」
「いやいや、仕事の報酬なんだから私が払うよ。そのかわり、あんまり豪華なやつは勘弁してくれたまえ。大きさも、この談話室に入るくらいがいいな」
三人は笑い崩れた。
この談話室は元々、一個師団の駐屯地として設計されたものだ。暖炉で温めるには不経済なので中央に間仕切りを作っているくらいの広さなのである。
「こたつが来るなら、このテーブルや椅子を片づけておいたほうがいいですかね、父さん」
「いやいや。それだと九条の予言どおり、こたつの上でみんなが仕事をするようになるよ」
「みんなって、僕もですか」
「お前はまだ、こたつの魔力がわかっておらんのだ」
陽気なおしゃべりの背景に、テレビではニュースが流れ続けいていた。
いつの間にかほっこり話から時事ネタになっていて、フォウがちらりと見たときには、公害の補償問題がどうのこうのという話題になっていた。
「工場が川に流した廃液のせいで起こった公害だよ」
興味深げに画面へ見入っているフォウに、氷浦教授が解説してくれた。
「もう何十年も前に起こった事件なんだが、それが公害だと認定されるまでに、まず十年以上かかっている」
「十年も!」
「当時の日本は高度経済成長期で、その勢いを止めるような訴訟にはみんながの乗り気でなかった、という裏事情もあってね。誰を被害者とするかという基準も二転三転して、そのうちに原因を作った企業も名前が代わり、業務も変わってしまった。ようやく特別措置法が設置された後も、そこで認められなかった人たちが自分たちも被害者だと主張して、今でも国に対する訴訟が続いているんだ」
「へえ。何十年も前の公害問題で、まだ揉めてるんですねえ。日本政府も大変だな」
画面には国会議事堂前でのデモの様子が流されていた。
プラカードを持っているのは老人ばかりと見えた。自分たちが救済されなかったのは不当だ、と訴えていたが、なにがどう不当なのかは、ニュースからはよくわからなかった。
「年の瀬だっていうのにねえ」
氷浦教授もニュースに目をやった。
「公害物質を川に流した会社はもう存在していないのに、訴訟だけが今も続いているんだよ。被害者が不幸まなのはもちろんのことだが、こういう事件では、関わった誰もが不幸になる」
「汚染された川はどうなってるんですか?」
「もちろん今でも、浄化のためのあらゆる方策が取られている。けれども問題は川だけじゃなくて、市内にも工場の廃棄物があちこちに埋められていたということで、そのせいで新たな問題が次々と起こっているようだ」
「へえ。香港の地面の下は、たいていゴミを埋め立ててあるんですけどね。公害の話とかは、とんと聞いたことないなあ。あ、でもクリアウォーターベイの付近は、埋め立てて数年くらいはずっと、空気が臭いとか言われて住人が政府に文句を言ってたっけ。でも、香港にとってゴミは、国土を広げるための資源ですから」
「おおらかというか、なんというか」
氷浦教授が全員の湯呑にお茶を注ぎ足しながら苦笑した。
「フォウくんの仕事がおおらかなのは、そういう風土で生まれ育ったせいもあるのかな」
「あっ。それって、大雑把ってのをよさそうな言葉で置き換えましたね? ひでえなあ。しかたねえや、明日の祠の修理では、俺の細やかで注意深いところを披露しなくっちゃ。和彦さん、俺の仕事ぶりをちゃんと見てて、あとで氷浦教授に報告してくれよ」
「ほほう、それは楽しみだな。その調子で、空間波動系の計測のほうも慎重かつ細やかに頼むよ。先週みたいに、単位を間違えたままの記録は勘弁してほしいな」
「あいたっ」
和気あいあいの中で、夜は更けていった。