ふきとさつま揚げ
〈プロローグ〉
こんにちは。私、猫軒芽衣子26歳。中学の教員をやっております。担当教科は国語です。
趣味は食べること。とにかく食べることが大好きです。高校の時、失恋をして大泣きした日も食欲はあったくらい好きなんです。私の人生、食に支えられてばかりの日々でした…
さて、これから私の教員生活をお恥ずかしい限りですがお見せしようと思います。どうぞ暖かい目で見守ってください。
〈一話 ふきとさつま揚げ〉
春、雪が溶け始めて日差しが柔らかく注ぐ今日。私はいつも通りバイクのエンジンをかけて、自宅のマンションを出た。よく生徒からはバイク登校なんていかついと言われるが、私がバイクの免許を取った理由は、姉にあなたに自動車は向いてないと言われたからだ。むしろ私でさえ向いてないと思っていた。アクセルとブレーキ、踏み間違えそう…
ヘルメットの隙間から、白い吐息が見える。暖かくなってきたとはいえ、まだ朝は冷え込むのだ。
私の勤める中学校はバイクで1時間ほどのところにある、山の麓の方。少し古いので隙間風対策が必要だ。今日もカイロと、ひざ掛けを持参している。
信号で止まって、すぐそこの曲がり角に自販機があるのが見えた。自販機を見ると、今でも思考が「あっ」と数秒止まってしまうのは何故だろうか。…暖かい飲み物でも買っていこう。
自販機でペットボトルの白湯を買った。今の自販機は白湯も売っているのか。かちりとキャップをひねり一口。寒さで力が入っていた肩が緩んだ気がした。昔は暖かい飲み物といえばココアばかり飲んでいたのに、大人になったんだな。
けれど、大人になれないなと思うことは多少ある。
以前生徒に、先生はどうして先生になったの?と聞かれ焦ったことがある。私が先生になったのは、いや、『中学校の』先生になった第一の理由は、ずばり「給食が食べられるから」というなんとも間抜け感丸出しの理由なのである。あの時はなんとかそれっぽい理由をつけて説明したと思うが、今思えば子どもの頃から私は給食を何よりも楽しみにしていたんだな、と自分の食欲のいじきたなさや、食に対する関心・意欲・態度に何らかのアイデンティティを改めて覚えた。
「今日の給食、なんだろ」
おはようございますと生徒に挨拶されると、たまに不思議な気分になる。自分も少し前まで誰かに何かを教えてもらっていた生徒だったのに、先生になるとはそういうことなのだ。そう思うと、背筋がぴんと伸びる感覚になる。
朝の職員会議が終わり、買った白湯を冷める前に飲み干して、担任を持っている3年3組の教室へと向かう。向かう途中に、クラスメイトの斉木さんが保健室に入っていくのが見えた。こちらを見たかと思うとふいと目を逸らして行ってしまった。声を、かける隙もなかった。
前を向いて歩き出す。
教壇の上は好きだ。いろんなみんなの顔が見える。眠そうな子には「わかる、超眠たいよね。ほんと出席してるだけ偉すぎ」と共感し、授業中に手紙を回している生徒を見かけたら「いいなー、私も混ざりたい…」と謎の共感をする。そして注意したくないけども、テストで悪い点取られたら困るので「もうー、だめでしょ!」と怒っておく。でも私は、こそこそ何かをするところを見るのは嫌いではないよ?と言わんばかりににやにやしてしまう。やっぱり怒る時はぴりっとした顔にならないといけないよなぁ。おかげで私の国語の授業はゆるいと評判だ。最近は職員室でも噂になってきている。気をつけないと。
また、私はよくおっちょこちょいをすることで有名になってしまった。子どもの頃から家族にぼーっとしがちなことを注意されてきたが、大人になっても変わらないようだ。一年生の授業の時に二年生の教科書を持って行ったり、前回と同じ授業内容の事をやってしまったり、そもそも授業を忘れていたことだってしょっちゅうある。
キーンコーンカーンコーン____
4時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。今のところは、授業を忘れることも持ち物を間違えることもない。職員室に戻り少し方の力が抜け、お腹がぐるるると鳴った。隣のクラスの西条先生に「先生、給食だけで足りますか?」と笑われてしまった。はあ恥ずかしい…
西条先生は、少し苦手だ。なんというか、なんでも物事をずばっと言い切ってしまうのでいつか私の心もずばっと切られそうで怖いのだ。愛想笑いだけ残し、私は教室へ戻った。給食の準備をする生徒たちの手伝いをせねば。
今日の給食は、豆腐とわかめのお味噌汁、ふきとさつま揚げの煮物だ。
「猫軒先生の分多くしとくねー」といつものように生徒に大盛りにしてもらう。かたじけない。
ランチマットの上に並んだおかずは今日もきらきらと輝いている。お味噌汁もほわっといい香りのする湯気を立たせてこちらを待っている。昔待ちきれずにいただきますをする前に給食を食べ始めてしまって怒られたことがあるが、もうそんなことはしない。だって大人ですもの。
「いただきまーす」
その合図とともに私はお味噌汁に口をつけた。暖かく、落ち着く味だ。なんというか、自分では作れないような澄んだ味。お味噌の味も、かつおだしの香りも、ふるふるした豆腐も、柔らかいわかめも、全てがちょうどいい。
続いてふきとさつま揚げの煮物。ふきは独特の風味があるので生徒たちは苦手意識を持っているが、私はこの鼻にずーっと広がる風味が好きだ。日本酒が飲みたくなる… そして甘辛い煮汁を吸ったふっくらとしているさつま揚げ。噛むたびにじゅわっと溢れる濃い味がご飯を進ませる。さつま揚げとふきを一緒に食べても、ふきの歯ごたえや風味とさつま揚げの甘みが合っててすごく美味しい。
すぐにお皿が空になりおかわりをしに行く。みんなさつま揚げばかり取っていくので、トレーの中はふきばかりだ。ここでもまた、大人になったことを覚えさせられる。仕方なくふきを沢山とってその分ご飯も増やす。そして一口。あぁ、給食のおばさんたち、ありがとう…
ふと、斉木さんも食べてるかな、という思いが脳裏をよぎった。4時間目の前に保健室に行ったら、まだ帰っていないと養護教諭さんに教えてもらったからもしかしたら食べてるかな。斉木さんはふき、好きかな。斉木さんの好きな食べ物も、嫌いな食べ物も、何も知らない。
あとでちょっと話してこようかな。
あの時、先生はどうして先生になったの?と聞かれて私は
「学校の好きなところ、みんなにも見つけて欲しいんだ」
と言った。
あれは確かに嘘なんかじゃない。
私の「おいしい給食が食べられる」みたいに、みんなが学校の好きなところを見つけられるお手伝いを、私はこの仕事を通して出来たらいいなと思う。