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落とし文(ぶみ)

作者: 摩莉花

 千坂文之進が仕えている高鍋藩秋月家の領地は、美濃の山中にあった。新緑の頃、藩主のお国入りがあり、家臣たちがいっせいに登城した。

 藩主秋月若狭守には正室との間に生まれた若君があり、六歳になった今年、師について学問を学び始め、剣術については藩の剣術指南役、大野喜兵衛のひとり息子喜一郎がその師となることが内定し、来月にも喜一郎は江戸へ出立する予定だった。

 登城して廊下でこの従弟と顔を合わせたとき、文之進は祝福の意味で微笑み、会釈をしてすれ違った。殿中で私語を交わすまでもなく、互いの心中はわかっている間柄だ。

 御納戸役として勤める文之進は、これといって目立たない人物であった。中肉中背の身体にうりざね顔、そこに細い目がついている。実直、もの静かで人の良い男、というのが上役や朋輩の文之進に対する印象だった。彼が免許皆伝の腕前を持つ剣の達人であると知るのは、大野家へ養子にいった叔父の喜兵衛と息子の喜一郎だけであった。

 城代家老の望月監物が家臣一同を代表して帰国のお祝いを申し述べ、お国入り時の一連の儀式が終わると、文之進は朋輩たちと共に城を出た。門の近くで待っていた中間の六助が心得たようにあとをついてくる。

「お殿様がお帰りになって、賑やかになりますね」

「そうだな」

 文之進の父は彼が元服前に早世し、母と妻も五年前に流行り病で亡くなっていた。だから彼は、二十八歳で男やもめの上、医薬のための借金があった。そのため、彼ほどの家柄ならばいても良い若党や女中など人を雇う余裕がなく、今は亡き父に恩義があるといって残ってくれた六助とその女房のお勝と共につましく暮らしている。

 五十を過ぎていても筋力のある六助は、若者のようなきびきびとした足取りをしていた。文之進を幼い頃から知っているので、ときに遠慮のない口をきく。

 それは無口な文之進の周囲を少しでも明るくするためなのだと、最近、彼は気づいた。だが、黙っていた。母と妻を亡くしたときから、文之進は後悔ばかりだった。

 剣の修行が面白く、熱中していた十五歳のとき、山中でひとり、棒に縄を結び付け木の枝から幾つも垂らして修練をしていた。木刀で動く木切れを薙ぎ払った際、それの一つが外れて飛んでいき、たまたま山菜とりのために通りかかった娘に当たり、大怪我をさせてしまった。

 十三歳になる庄屋の長女で、お静といった。養生して日常のことが出来るようになったものの、額の左側からこめかみにかけて、醜い傷が残った。

「顔に大きな傷跡のある娘なぞ、だれがもらってくれるのか」と怒る父親に詫びた文之進は、その場でお静を嫁にもらうと申し出て、間にはいって取り成した叔父の喜兵衛が養女にし、二年後に妻とした。

(お静は私と夫婦となって、果たして幸せだったのだろうか)

 共に暮らした五年の間、健気に尽くしてくれたものの、お静の晴れやかな笑顔を一度として見たことはなく、彼女は寂しげな笑みを浮かべるだけだった。

 お静を怪我させてしまったことで一度は剣の修練をやめてしまったが、従弟の喜一郎とお静の説得で文之進は再び剣をとることにした。しかしもはや以前のような情熱は失せていた。お静の「剣術はご奉公に必要でございます」という言葉に従っただけだった。殿へのご奉公は剣の腕前などなくてもできる、と考えた文之進は叔父の道場で他の藩士が帰ったあと、従弟を相手に練習するのみだった。

(母はお静を気に入っていたから嫁と姑の仲は良かった。あの事故があっても、私は変わりない日々だった。けれども顔の傷のことでお静は村役の息子との縁談がだめになり、私のもとへ嫁ぐことによって、慣れない武家暮らしをすることになった。容姿も良縁も、お静だけが失ってばかりだ。武家といっても、内実はそれほど豊かではない。苦労ばかりさせて、若くして死なせてしまった……)

 このような物思いにふけっているうちに、文之進は朋輩たちの集団から離れ、いくぶん遅れてしまっていた。ふと前を見ると、朋輩たちをやり過ごした女がひとり、小走りでこちらへやってくる。紫の御高祖頭巾を被り、藤色の被布を着ていた。

(お静……)

 軽く頭を下げた女の白い横顔をすれ違いざまに見て、文之進は、はっと驚きのあまり足を止めた。

(……似ている)

 女の後姿を見送ったとき、背後にいた六助がしゃがんで、何かを拾い上げた。

「旦那さま。今のご新造さん、これを落としていかれましたぜ」

 渡されたのを見れば、手紙である。表に流れるような手蹟で、『安之助どの』とあった。

「いかんな。追っていって、返しなさい」

「へい」

 と、六助が走り出す。それと同時に前方の朋輩たちの間から、怒鳴り声が聞こえた。

「どうされた」

 文之進が駆けつけると、一人が築地塀に貼られた紙を指し示した。

「見ろ、千坂。牧野様の御屋敷の塀にこんな落とし文を貼りおって、下手人は実に大胆なやつだ」

 それは、城代家老の望月と勘定奉行の牧野が結託して、悪事を為しているという告発の落書だった。これと同じものが二か月前から城下のいたるところで貼られている。

「これは牧野様にお渡しして善処を願うが、殿がお国入りされているのだ。この件をもはや隠しておくことは出来ないだろう」

 落書を壁から剥ぎ取りながら、朋輩の佐々木が言った。

 朋輩たちと別れて家へ戻った文之進が裃を脱いで着替えていると、六助が戻ってきた。

「旦那、あれは珠光尼さまの庵に居候している手習いの師匠のものでした。街はずれの庵に入っていくのを見届けたんでさ。で、手紙を返すために入ろうとすると、下働きのばばあが『手習いの子どもはともかく、男は入れねえ』って言い張るもんで、渡せずに持って帰ってきました」

 と、申し訳なさそうに報告する。

 珠光尼とは、主君秋月忠治の乳母を勤めた女性で、夫を亡くしたときに落飾して庵を結び、仏事のかたわら、城下の娘たちに茶の湯と和歌を教えていた。尼御前は穏やかな人柄で質素な暮らしをしていたが、殿の元乳母ということから重んじられており、下働きの老婆が言うように中間の六助が気安く出入りできる場所ではない。

「ご苦労だった。叔父上のもとへ帰国のご挨拶にうかがってから、私が届けるとしよう」

 文之進は手紙を受け取って懐へ入れ、紺の羽織と袴姿で六助を伴い、叔父の屋敷へ向かった。






 主君と共に江戸にいた喜兵衛は、いろいろな土産話をしてくれた。

「暮れにあった赤穂の浪士たちの吉良邸への討ち入りは、それは評判になってな。今や仇討が流行りもののようになっておる。その討ち入りの趣向も取り入れた怪談噺の芝居がこれも大当たりしておるよ。国許には、江戸の噂は届いておらぬかな」

「さあ……私はそのような話題には疎くて。六助夫婦がそのような話をしていたような気もいたしますが……」

「お勤め大事もいいが、もっと世間のことにも興味を持ったほうがよいぞ、文之進」

 生真面目に答える甥へ、喜兵衛は続けた。

「……先月でお静どのの七回忌も済んだ。そろそろ後妻を迎えることも考えねばなるまい。家を絶やさぬのも、先祖への勤めぞ」

「はあ……わかってはおります。ですが叔父上、喜一郎も同じ立場ですよ」

「そうなのだ。こやつは縁談が幾つもあるのに、なかなか嫁を迎えようとせん」

「いえ、父上がご健勝なので、急いでおらぬだけです」

 話題が自分の方に向いたので、父親の傍らに座っていた喜一郎が精悍な顔の頬を赤くして、慌てて言った。

「文之進、手土産に持ってきてくれた七辻屋の饅頭、母の好物でな。喜んでいた」

「それは良かった」

 ほっとした笑顔を見せた文之進へ、喜一郎がたたみかけて言う。

「お前、たしか他にも用があっただろう。送っていくぞ。では、父上」

 と、喜一郎は文之進をせかせて、自分の家をあとにした。







「何か、話したいことがあるのか」

 大野家の屋敷から離れたとき、先に立って歩いている喜一郎へ、文之進が尋ねた。二人の後方を六助が遠慮しながらついてくる。

「とくにどうということではないが……そうだな。実は、密かに想い合っている相手がいる」

「ならば、叔父上に話して……」

「いや、身分違いの上、とうてい添い遂げられぬ人だ」

 喜一郎は文之進の横に並び、前を向いたまま答えた。

「互いの事情が分かった上のことだ。その人は二年後に結婚することになっている。断れぬ相手だ。だから、俺もそのあいだは妻をめとらないつもりだ。両親には悪いと思っているのだが」

「そうか。しかし、じきに若君の指南役として江戸へ行くのだろう。忙しくしていれば、少しは気が紛れるだろう」

「それが、そうもいかなくてな。登城したときにご城代から申し渡された。勘定方の牧野様の縁者で伊藤重兵衛という腕の立つ者がいるそうだ。伊藤は浪人の身だが、若君のご指南役として取り立てようと思うので、俺にお役を辞退しろ、と言うのだ」

「それを受けたのか」

 驚きと怒りで立ち止まった文之進へ、喜一郎は頭を振った。

「いや。この話は殿のご命令ですので、と断ったら、五日後に御前試合でどちらが強いか殿にお見せすればよかろう、と勝手に決められてしまった」

「無理を押し通すつもりか。牧野様の縁者とはいえ、得体の知れぬ男を若君のお側へ置くなど、ご城代は何を考えておられるのか」

「欲得だけだろう。勘定方にいる知人が密かに調べたところによると、ご城下に出回っている落書の内容は、ほぼ合っているそうだ。しかし、ご城代が噛んでいるとなると、下役ではどうにもならぬ。握りつぶされてしまうからな。そこで、御前試合のとき、俺が伊藤に勝って、牧野と城代の悪行を殿に直接申し上げる手はずを整えた」

「すべては、おまえの剣にかかっているのか。ことは重大だな。でも、喜一郎……おまえなら、大丈夫だろう」

「買い被るな。これでも責任の重さに心が押し潰されそうなんだ。剣の腕前なら、文之進、お前の方が上なのだがな」

「まさか」

「相変わらず、自覚のないやつだ」

 喜一郎は笑い、そこで二人は別れたのだった。






 従弟の身に降りかかったことに心を痛めながら、文之進は街はずれにある珠光尼の庵へと向かった。

 柴垣を巡らせた庵はこぢんまりとした佇まいで、板戸の前に立った文之進が呼ばわると、前掛けをし、鬼瓦のような顔をした老婆が厨から出てきた。

「あの、ばばあ。自分をここの番人だと思ってるんでさあ」

 と、背後で六助がささやいた。

 文之進をじろりと見た老婆は、「何のご用で」とぶっきらぼうに言った。

 文之進が「離れの住人の落し物を届けにきたのだ」と、手紙を差し出すと、ひったくるようにしてそれを持っていってしまった。そしてすぐに再び姿を現すと、文之進を離れへ通してくれた。

 そこには先日の女性が頭を下げていた。

 手紙の礼を述べたあと、晴れやかな笑みを浮かべて文之進へ問うた。

「わたくしの顔に、何かついておりますか」

 見つめてしまっていたらしい。すれ違ったとき、亡き妻に似ていると感じたが、本人を前にしてみるとさほどでもなく、ただ、お静が屈託なく笑ったら、こんな感じだっただろうか、という印象だった。

 女性は雪絵という名だった。白菊のようなその人に、似会いの名だと文之進は思った。

 人を探して旅をし、今はつてを頼り、ここで手習いの師匠をして暮らしているのだと、雪絵は言った。落とした手紙は、おとうとに出そうとしたもので、大切な用件をしたためていたのだと。

 見つめてしまった言いわけに、相手が他郷の人だからか、文之進は雪絵にお静のことを語った。これまで他人には言わなかった事柄も話してしまったようだ。お静の短い生涯を語り終えたとき、雪絵がぽつりと言った。

「奥さまがうらやましい……」

「そうでしょうか」

「尽くしがいのある誠実な旦那さまを、お慕いしていたのですわ。けれども顔の傷がご縁で妻となったので、引け目を感じていたのです。お幸せだったのですよ」

 雪絵の言葉で、長く心の重しとなっていたものが、溶けていくようだった。

 同じ女性から見れば、お静は決して不幸ではなかったのだと、その言葉が慈雨のように後悔で乾いた心を潤した。

「めおとにも、いろいろございます。わたくしの亡くなった夫とは、そうではありませんでした……。でも、妻として役目は果たさねばなりません」

 何か複雑な事情を抱えているようだった。雪絵に対しては、初対面とは思えない深い印象を受けた文之進だが、深入りすることは自制し、そこを辞したのだった。




   ***




 御前試合が明日という日、卯の花くたしの雨が夜半から降っていた。

 その朝、文之進が朝餉を摂っている部屋へ、六助が飛び込んできた。

「旦那さま、たいへんだッ」

「何があったか知れないが、なんて作法だ、おまえさんは」

 給仕をしていた、お勝がたしなめるのもかまわず、息を切らした六助は雨で濡れたまま、廊下で肩を震わし、平伏する。

「大野の喜一郎さまが……瀕死の重傷を負ってお屋敷にかつぎ込まれましたッ」

「すぐに支度する」

 箸を置いた文之進は、すくっと立ち上がった。

 動揺する六助をおいて、早足で大野家へ赴いた文之進は身体中、さらしで巻かれた痛々しい従弟を目にした。

 山向こうに住む伯母を訪ねての帰り、山で道を踏み外し、沢に落ちて全身を打撲した上、肋骨と左腕を骨折しているという。

「これでは御前試合には出られぬ。相手の不戦勝だな」

「生きていてくれただけで良いのです」

 残念そうに言う叔父へ叔母が涙ながらに訴えている。

 文之進が喜一郎の枕元へ坐ると、従弟がかすれた声でささやいた。

「牧野の……手の者だった。試合で敗れるのなら、あきらめもついたが、闇討ちをされるとは。無念……」

 と、喜一郎は両目を閉じた。

 叔父と叔母に慰めの言葉をかけてから屋敷の門を出た文之進は、目の端にちらりと華やかな色が動くのをみ、そちらへ足を向けた。

「小姓頭の新之丞どのではありませんか」

 主君から満開の桜の花に例えられた側仕えだった。前髪姿の美しさを若狭守が惜しみ、二年元服を遅らせ、その後は重臣の娘と結婚することが決まっていた。

 その人物がなぜ……と言いかけて、文之進は理解した。従弟の秘密の想い人が誰なのかを。

「喜一郎様……いえ、大野様のご様子はどのようでございましょうか」

 傘もささず、ずぶぬれなのも気にならないのか、青ざめた顔で文之進に尋ねた。

「大怪我ですが、命に別状はありません。中へお入りになったらどうですか。喜一郎もよろこびましょう」

「いいえ、わたくしはこれで。あの方に何かあったら、わたくしも生きていませんでした」

 安堵の表情を浮かべる新之丞は何度うながしても屋内に入らない。だから文之進は、「濡れた着物を乾かしましょう」と、強引に自分の家へ連れ帰った。喜一郎の様子をもっと詳しく話せば、新之丞も少しは安心するだろうと思ったのだった。

 ところが家へ戻ると、お勝が来客だという。新之丞の世話をまかせて客間へ行くと、そこには雪絵が待っていた。

「このたびは千坂様にお願いがあって参りました」

 雪絵が神妙に頭を下げる。

「なんでしょうか」と、文之進も気を引き締めて坐った。

「わたくしの夫、平林佐野助は酒席にて朋輩と口論になり、帰り路にその男、伊藤重兵衛に斬られて亡くなりました。わたくしどもには子がなく、夫の弟で十四歳になる安之助が仇討の上、家督を継ぐことに決まりました。わたくしたちは仇の行方を追い、安之助は助太刀をしてくださる縁者の方と、わたくしは自分なりのやり方で伊藤を探しました。そしてこの地で見つけたのです。先日、千坂様に拾っていただいた手紙は、それを知らせるべく義弟に宛てたものでした。ところが、助太刀をしてくださるはずの方が怖じ気づき、国許へ帰ってしまいました。女子供では、手練れの伊藤には勝てません。手紙の縁ということもあり、どうか、ご助力をお願いいたします」

「なぜ、それを私に」

「誠実なお人柄を見込んで。そして、剣術の腕前は喜一郎様に劣らぬと聞き及んでおります。お隠しになってもわかるものですよ」

 と、そこで襖が、ぱんと開いた。

「どうか、わたくしからもお願いいたします。闇討ちにあった喜一郎様の無念を晴らしてくださいませ」

 そこには文之進の着物をきた、新之丞が頭を下げていた。揺らいでいた心が決まる。




 翌日の御前試合は、仇討の場となった。助太刀の文之進による、一撃。それで勝負がついた。

「これで夫と婚家への義理が立ちました。あとは自由にいたします」

 その言葉通り、一度国許へ帰った雪絵は文之進の許へ押しかけ、半年後に妻となったのだった。

                   







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