八本目
今日も今日とて、結城探偵事務所は自由な空間である。が、珍しく、所長の笑萌が真面目にパソコンに向かっていた。
「きな臭いねー」
「何がですか」
揚げパンをむしゃむしゃと食べていた莉桜が画面を覗き込む。そこにあったのは先日、茅乃が依頼にやってきたときの玄関口でのやりとりだ。
結城探偵事務所はあれやこれやと事件に巻き込まれることがある。難癖をつけてくる輩もいる。そういうのを叩き潰すために映像記録などで物証というものを取っているのだ。莉桜が入り浸っているが、ここは名目上笑萌が一人暮らししている自宅でもあり、防犯カメラの設置は笑萌が身を守るためにも必要だった。
「いや、茅乃さんさ、本当に莉桜ちゃんのこと知らないリアクションなんだもん。でも莉桜ちゃんは茅乃さんのこと知ってたわけでしょ?」
「それは当然でしょう。親友の母親ですし、通夜にも行きましたし」
「だよねー、ってえ!? お通夜にも行ったの!?」
「当たり前でしょう。そうじゃなくてどうして親友名乗れるんですか」
それはその通りであるのだが。
やはり、茅乃が莉桜のことを全く知らない風なのはおかしい。莉桜が保護者同伴で行ったとしても、記録くらいには残るだろうし、何なら顔も合わせているだろうに。
では何故茅乃は初対面の反応だったのか。
「一つ、息子が亡くなったショックでそれどころではなかった」
「そう見えます?」
「全然」
秒で可能性の一つが消滅してしまった。
笑萌は茅乃の様子を思い出す。息子が亡くなったことにショックを受けはしたのだろうが、息子の遺品探しの場面で彼女が涙を見せることはついぞなかった。桜生と言い争いになった場面も情緒不安定によるヒステリックというよりは普通に怒鳴り散らしていたように見えたのだ。
優樹が死んだことへの悲しみの深さなら、桜生や莉桜の方が大きいことは笑萌でもわかる。悲しみを表に出さないようにしている、にしても、茅乃はあまりにも取り乱さなかった。
「一つ、人の顔を覚えるのが苦手」
「まあ、それはあるかもしれませんね。俺はそんな頻繁に茅乃さんに会ってたわけじゃないですし」
「でもそうするとおかしいのは、あの人、莉桜ちゃんが優樹くんの友達だっていうことすら知らなかったことなんだよね」
笑萌がパソコンを操作し、別なカメラの映像を映し出す。それは依頼について話しているときの映像だ。音声も入っている。
「本当に優樹の友達だったんですね」
笑萌はそこで一旦止めると、莉桜を振り向いた。
「ここまで、莉桜ちゃんは優樹くんの同級生としか名乗ってないけど、どうして友達って思ったんだろう?」
莉桜は揚げパンの最後の一口を頬張ると、牛乳を含んで、飲み下した。余韻に浸る様子もなく、笑萌に答える。
「優樹は用心深いんですよ。遺品についても、メモについても、何重もの意味を持たせて本質がどこにあるか、一見しただけではわからないように組み立てるんです。そんな人物が大事なスマホのロックパスワードを他人の前で解くと思いますか? やるやつは指の動きだけでパスワード見抜きますからね?」
「そんな人私は莉桜ちゃんくらいしか知らないよ……」
画面を見せなければいいだけの話なのだが、指の高さ、フリック操作の向きからパスワードを予測する輩はいる。今やパスワードも安全とは言えないのだ。一番安全なのは指紋認証なのではないだろうか。
また、スマホは画面をタッチしたり、フリックしたりすることで操作をするため、画面が真っ暗な状態だと指紋や操作した痕跡が見える。こういうのを放置して操作を続けると、後々画面が見づらくなり、操作などに支障が出るため、スマホ画面用のクリーナーがあるわけなのだが。その痕跡で最もよく使われている箇所を見ることができてしまうわけである。
何桁あるかもわからないパスワードであるが、使われている文字を絞ることができれば万も千や百にできてしまう。悪い輩はそういう技術を身につけているものだ。
「別にそういうの覚えるのは悪い輩ばかりじゃないし、逆に警戒心が強い証にもなるとは思うんですけど。榎本優樹をどういう人物だと判断しますか?」
「まあ、警戒心が強いというか、用意周到なところはあるよね。頭がいいのもわかるよ」
メモに隠された「三本目の桜」と桜生九十九の名前を指す透過を使った工夫。一見しただけでは「3ばんめのさくら」の意味すら誰もわからなかったであろう。
きっと遺品の内容もそう。というのは置いておいて。
「確かに易々と人にパスワード明かすような子には見えないよね。というかパスワードバレたら変えそう」
「正にそういうタイプだったんですよ、優樹は。でも、茅乃さんが優樹の警戒心の高さに気づいていたわけではありません。問題はあのときのパスワードが亡くなった弟の名前と誕生日を組み合わせたもの、だったからです」
なるほど、と笑萌は頷く。
優樹は弟を幼い頃に亡くしており、その辺りから体調を崩すようになったと聞いた。体調に支障をきたすくらいつらい出来事である弟の死、それを思い出すことになるであろう弟の名前は仲がいい悪い関係なく、口に出すことはないであろう。誕生日も同じだ。
そのことから辿ると、莉桜とはそういうことも話せるくらいの仲だったということにもなる。それなら「友達」と周りからは見えるだろう。
「莉桜ちゃんは優樹くんのおうちに行ったことはないの?」
「ないですよ。まあ、入院してたら、見舞いには行きましたけど」
「じゃあ、茅乃さんとはお通夜が初対面?」
「授業参観を除けばそうじゃないですかね」
授業参観で嬉々として参観する親の方を見る中学生は少ないだろう。親側も自分の子どもくらいしか見ないだろうからどっこいどっこいだ。
「優樹くんは友達がいることすら親に隠してたってこと?」
「おそらくそうでしょう。『3ばんめのさくら』のメモからして、俺の名前も知られたくなかったでしょうし」
「どういうこと?」
「言ったでしょう、あのメモは『三本目』と『三番目』のダブルミーニングだって」
笑萌は振り返る。確かに、莉桜はダブルミーニングがどうのと言っていた気がする。いや、ダブルミーニングと言ったのは正確には笑萌だったが、莉桜は特に否定しなかった。
だというのに、莉桜から「三番目」について説明されることはなかった。
「三本目を数えるために、一本目と二本目が必要なように、一番目と二番目のさくらが存在したんですよ」
「三番目のさくらが桜生先生ってこと?」
「優樹の三番目の担当医って意味なら、桜生先生は該当します」
へえ、と笑萌は愉しげに目を細めた。桜生が優樹の三番目の担当医かどうかはさておき、莉桜は暗にこう言いたいのだ。「そう都合よく、一番目と二番目の担当医の名前に桜という字が使われているか」と。
話し始めた段階で、想像はついていたことだが、笑萌は確信を持って口にした。
「つまり、本当は莉桜ちゃんが『三番目の桜』だったっていうこと?」