エルフの里
「アクロス、今日は買い物に行くぞ」
「あうー」
今日は買い物の日らしい。リリアーナは数日に1度は歩いて近くの里に買い物に行く。もちろん俺はまだ赤ん坊なので歩けない。リリアーナは布を器用に巻いて俺を背負った。近くの里とはいえ、半日歩くことになるので抱くより背負うほうが楽で安全なのだろう。道という道はないので足場も悪い。リリアーナは文句も言わずにえっちおっちら山道を歩く。なんでわざわざこんなへんぴな場所に住んでいるのだろうか。いっそ里に住んでしまえばいいのにと思うのだが、リリアーナはここ半年ほどずっとあの小屋に住んでいる。
そして、俺の名前はどうやらアクロスというらしい。アクトとデュピロスからとったのだろうが、安直な名前だ。しかし、アクトとはどうやら恋仲であったらしいのはアクトの言動から分かるのだが、仇とも言えるデュピロスからも名前をとったのはなぜだろうか。言葉が話せるようになっても事情が複雑そうなので聞くことはないだろうが。
リリアーナは俺を背負ってえっちらおっちら歩き、その側をアクトとデュピロスが心配そうな目をリリアーナに向けながらついてくる。この二人は俺から離れるわけにはいかないらしいので、ついて来る他にないのだが。ちなみに、アクトとデュピロスの姿はリリアーナには見えていないらしい。おそらく俺以外誰にも見えていないだろう。もう何度も里に買い物に行っているが、里の人間はアクトもデュピロスも視界に入っているようには見えなかった。
早朝に家を出てリリアーナは昼まで森の中を歩いた。適当な木の根に腰を下ろして、俺のおしめの具合を確認し、ミルクや水を飲ませる。それが一通り終わると自分の汗を拭い水を飲んだ。
俺は小屋では腹が減れば泣いて知らせ、おしめを汚せば泣いて知らせるが、里へ向かうときは多少の我慢をする。この体はすぐに腹が減るが、さすがにリリアーナがこんなに大変そうなんだ、俺も少しは我慢するさ。
しかし、リリアーナは魔法が使えないのだろうか?それとも、山道を楽に進むための魔法なんて都合のいいものないのであろうか、どちらなのかわからないが、魔法を使っているところは見たことがない。魔法で空を飛ぶ…っていうのはこの世界にはないのかな。だとしたら残念だ…魔法使いと言えば箒に乗って海辺の町まで旅をするものだと思っていたのに…いや、それにしても食事の支度をしている時も火は自分で起していたし、リリアーナは魔法が使えないに違いない。結界魔術を使ったとデュピロスは言っていたが、案外それしか使えない、なんてこともある世界なのかもしれないな。魔法にも適性があるとか。俺はどんな魔法が使えるんだろう。はやく自由に動けるようになりたいぜ…そしたらデュピロスに頼んで魔法を教えてもらおう。アクトと話しているときもデュピロスの方が詳しそうだったしな。
里についたのは夕暮れ前だった。一際大きい樹の根元でリリアーナがぼそぼそと呪文を唱えると一気に視界が開けて木の上に木造の家が並ぶ里が広がった。初めてこの光景を目にしたときは、驚いて漏らしたもんだ。うん、赤ん坊だから仕方ないだろう。呪文は「風と水の精霊よ、フクロウは西から東へ舞い戻る」だったかな。よくわからない呪文だ。呪文というより合言葉なのかもしれない。
「リリア!また歩いてきたの?怪我はない?」
里に入るといつも通り金髪の女が駆け寄ってきた。耳長族だ。というより、ここは耳長族しかいない。なので俺はこの里をエルフの里と呼んでいる。
「怪我はない。魔物除けのお香を焚いている」
「それだって弱い魔物にしか効かないのよ、今のあなたじゃ…ま、いいわ。はやくうちに来なさい。汚れを落として…今日は泊まって行くのよね?いえ、泊まって行きなさい!夜道を半日も歩かせるわけにいかないんだから!」
金髪の耳長族の女は早口にまくし立ててリリアーナと俺を木の家へと連れて行った。建物は全て樹の上にあるので、太い梯子を上ることになるが、耳長族たちはよく苦も無くこんな生活をしてられるもんだ。俺なら地べたで暮らしたいよ。台風で家ごと落とされるなんてこともないだろうしな。台風がこのあたりに発生するかは分からないが。
「ね、リリア。雪の間だけでもこの里にいてもいいのよ?」
女ふたりは今茶を飲みながら話している。明日、必要なもの、主に食材を買って、あの小屋に帰るのだ。
「あなただけじゃ雪の間ここへはこれないだろうし、雪の間の備蓄をまとめて買っても運べないでしょう」
「…いや、私はあそこで暮らす」
俺でも雪道は無理だろうと思うのだが、リリアは耳長族の申し出を固辞した。
「迷惑だなんて思わないでよ?まだ世界は混乱しているわ。人間が魔族の迫害を始めるのは、人間の世界が落ち着きを取り戻してからになるはず。それにここは人間のものでも魔族のものでもない。エルフの里なんだから」
人間が魔族を迫害する…そんなことを聞いてデュピロスは怖い顔が一層怖くなった。ただでさえ怖い顔なのに凄むのはやめて欲しい。なんなら殺気すら感じる気がする。
「エルフは確かに人間でも魔族でもない。でも、魔王デュピロスが世界を荒廃させたせいでエルフたちにも迷惑が掛かったのは事実。デュピロスのせいで多くの森が枯れた」
「ええ、そうね。でも前から言っている通り、魔王のしたことの償いをあなたがしなくちゃいけないなんてことはないのよ。だから」
「私はエルフではなくレイラに迷惑をかけたくない」
「…そんなこと、私が気にするはずないじゃない」
「…」
嫌な沈黙が流れた。どうやら、リリアはエルフにも人間にも歓迎されない存在らしい。そして、魔族は魔王を失いこれから迫害の歴史を辿ろうとしている…こんなところだろうか。
「あなたに魔王の血が流れていても私はあなたの友達をやめる気なんてないんだからね!」
レイラがそういうと、リリアは少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「いいのよ!当たり前のことを言っただけなんだから」
ふふふと笑いあう二人。
この二人の友情は本物だろう。しかし、だからこそ、リリアはレイラの申し出を固辞し続けるような気がした。リリアがこの里に留まることがどれだけの不利益をこのエルフの里にもたらすかは俺にはわからないことが多すぎるが、リリアはきっと意地を張るだろう。そもそも存在不明の俺を育ててるのがもう意地を通してるみたいなものだろうし。
「そこで俺だー----!!!」
バンっと音を立てて急にドアが開いた。建物の入り口に夕日を背にして一人の偉丈夫が立っていた。
俺は突然の物音に漏らしたが誰も気が付かない。そもそも赤ん坊は漏らすのも仕事のうちだからな。
「ハンス!?急にどうしたのよ!」
「おう!いのししの肉をリリアに届けてやろうと思ったんだが、いなかったからここかと思ってな!立ち聞きしてた!」
いや、堂々と立ち聞きしてたこというのかよ!てか、このおじさん一回家に来たことあるな。やたらリリアの心配しながら大きな袋を置いていった記憶がある。その時はまだ言葉がわからなかったから何を話していたのかわからなかったのだが。
「立ち聞きなんて趣味が悪いわよ!上がりなさい!」
レイラがそう言うとハンスはガハハと笑って、ドカンと胡坐をかいて座った。
「ハンス、頭どうしたのよ?」
「剃った!!!ハゲる前に全部なくしてしまえばハゲじゃないからな!」
ガハハと大声で笑うハンスに呆れ顔でレイラは水を差し出す。
「おう!気が利くな!立ち聞きしたが、食料は俺が調達しておいたから後から届けてやる!肉類以外のものはここで購入していけばいい!俺も明日運ぶのを手伝ってやる!」
「でも…」
「ついでだ!気にするな!」
何かを言おうとしたリリアを遮ってハンスは俺を見た。
「ほう!大きくなったな!どれ!」
「あう!?」
ハンスはそのでかい体からは想像が出来ないくらいの素早い動きで俺を持ち上げると窓際に立った。
「見ろ!ボウス!夕日だ!いいもんだろう!」
確かに夕日だった。
森に囲まれた小屋から見る夕日より、樹の上に立つ家から見る夕日は絶景だった。
「あうー!」
「おお!ボウスにはわかるか!ここ何十年もこんな綺麗な空は拝めなかったんだ!しかし、生まれた時からこの景色が見れるボウスは幸せ者だな!」
ガハハと機嫌良く笑うハンスのことが俺はすぐに好きになった。
嫌味も何もない真っすぐな言葉だったからだ。
そして、あの小屋ではリリアは無表情で過ごすことが多かったが、今は少しだけ笑っていた。
そのこともなんだか嬉しかった。
「むっ…!?ボウズ!漏らしてるぞ!臭いな!」
うるせいやい。