プロローグ~前世の男~
「そろそろ家にお金でも入れてちょうだい」
ベッドに寝転んでスマホでゲームをしている不詳の息子を見ながら母親はため息交じりにそう言った。
「わかってるよ」
視線を合わせずそういう返事をするアラサーの息子。
母親は諦めたように盛大に盛大にため息を吐くと音を立ててドアを閉めて出て行った。
(ため息が多いんだよ)
母親の後姿を見送って男はそう悪態を吐く。
初めからこうではなかった。
小学生の時は優秀な子供だった。母親は将来弁護士か税理士になれなどと言ったし、男もまんざらではなかった。
中学に入学してからは、レベルの低い学校だなと見下しつつも、学校をサボりながらも成績は良かった。
そんなこんなで地元でも進学校と言われる公立高校に合格し、更に冗長するようになる。
学校は行かない、テストは受ける、成績は優秀。
授業は留年しない程度には出席した。
当然周囲の生徒からはやっかまれており、友達はほとんどいなかった。
男が初めて躓いたのは大学受験だ。男は当然のように国立大学を志望したが、なんといっても地元の国立大学は全国で見てもレベルが高かった。真面目に勉強してこなかった男が受かるわけがない。
しかし、男は楽観視していた。自分が本気を出せば受かるだろうと。今までサボっていてこれだけ成績がいいのだ、周りと同じくらい努力すれば自分が合格しないわけがなかった。
結果は不合格。男は努力することが出来なかったのだ。
もちろん、努力しようとはした。やればできる。自信があった。
しかし、男は人生で努力をしたことがない。努力のやり方がわからなかったのだ。
さて、大学受験に失敗した男がどうしたか。引きこもったのだ。
高校は進学校。周りの人は当然に大学に通っている。なのに自分は就職したり浪人したりすることはプライドが許さなかった。男はどちらも選べず引きこもるようになる。もちろん、もうお小遣いはもらえないし、お金がない。やりたいことも出来ない。欲しい服も買えない。仕方がないので、人生の保留を選んだつもりで男はフリーターになった。まあ、保留にはならず、その後10年以上実家暮らしのフリーターを続けているのだが…
(さすがに家に居づらくなってきたな)
しかし、あまり働きたくはなし、アラサーの自分が人生の起死回生を図るのは遅すぎる気がしていた。
(もっと前になにかしていれば…でも、なにを?)
ぼんやりと天井を見上げながらそんなことを思う。
(人生やりなおせたら…今度こそは努力して…努力?俺にそんなことができるのか?どこからやりなおす?中学から?高校から?せめて5年前なら…いや、考えても無駄だ…)
思考を放棄してぼーっとしていた。
(とにかく家には居づらい。早めに家を出てバイト前にふらふらしよう)
床に投げ捨ててあったパーカーを着て家を出た。
街中をぶらぶら歩く。特に見たいものはない。
洋服にも無頓着、趣味もこれと言ってない。仕方ないので本屋に向かった。
本屋は長時間時間を潰すにはちょうどよかった。ここ何年かよく本屋で暇つぶしをしている。買うわけでもないのに漫画の新刊をチェックしたり、雑誌のコーナーで表紙のグラビアを眺めたり…
その日は何となく大学の赤本の棚の前にいた。
(懐かしい…)
半分も解かずに受験した大学の赤本を手に取った。
「久しぶりだな?」
声をかけられてハッと顔を上げると高校の時の同級生がいた。しまった。今日は土日だ。日中家から出ればこういうこともあるだろう。
「懐かしいなー。お前今何やってるんだ?昔から頭良かったもんな。塾講師でもしてるの?」
手に取った赤本を見てそういわれた。
同級生はパリッとしたスーツを着ている。対してよれよれのパーカーを着ている自分。耐えられなかった。
「…まあ、そんなもんだ」
絞り出すようにそれだけ言うと元同級生の顔も見ずに赤本を戻し、その場を離れた。
後ろから声をかけられたが、無視した。
逃げるように足早に去る途中に文字が見えた。
(税理士試験か…)
幼いころ、税理士か弁護士になれと言われたことを思い出す。
(今から勉強して税理士にでもなったら、人生逆転できるだろうか?いや、無理だろう。そもそも、自分はどこまでも努力のできない人間なのだ。しようと思っても出来ない。努力の才能がないんだ)
(…でも、ちょっと見てみるくらいはいいか)
適当にテキストを手に取り中を見てみる。
何が書いてあるかわからなかった。
(やっぱり、今更無理だよな、はは…)
自重気に笑いテキストを戻そう、として、しかし、その手は宙で止まっていた。
(やれるかもしれないじゃないか、今からでも…)
できるかも、むりかも、いまさら?でもこの先50年このままでいいのか…?そんな思いが交錯する。
テキストの値段は高かった。財布の中を見る。
(買える…)
本屋を出た時には一冊のテキストを持っていた。
無理だとは思う。のに、買ってしまった。
後悔と、なぜか、高揚感。できるかもしれない。最後のチャンスだ…
バイトまで時間がなかったので、小走りになっていた。
スマホで時間を確認する。急がないと遅刻だった。
男は気が付いていなかった。
車が近づいてくるのを。
その車には医者の息子が乗っていた。一家は父も兄も妹も医者。落ちこぼれた姉だって薬剤師だ。しかし、男は更に落ちこぼれの無職だった。俺は悪くない、世の中が悪い。
彼は世の中に対する恨みだけをもって人ごみに突っ込んで行った。
ある母娘は直前で気づき難を得た。ある若者はぎりぎりで走り足の骨を折っただけで済んだ。ある老人は見知らぬ学生に助けられた。
そして、バイトに急ぐアラサーの男は綺麗に跳ねられて宙を舞い、死んだ。
◇◇◇
目が覚めると、知らない場所にいた。なんだか薄暗い。そして体が思うように動かない。
自分を覗き込む金髪の女が手にナイフのようなものを持っていた。
それに気づいて叫ぼうとしたら、なぜか赤子のような声がでた。
一体、何が起こっているのかわからなかった。
バイトに向かっていたはずなのに。
周りを見ようとすると、銀髪の少女がいた。
(よかった!助けてください!)
そういったつもりが出てきたのは「あう、あー」という、なんとも頼りない声だった。
しかし、その少女は走り出し、俺を抱き上げ、何を金髪の女に向かって叫んだ。
(助かった…のか?)
安心すると、ふと体の力が抜けて、俺は意識がまた薄れていったのだった。