緋色の扉の向こう側。
私とセオ以外入室禁止ということは、メイリーンは連れて行けません。
「こちらで侍女を待たせてもよろしいですか?」
「もちろん結構です」
「よろしくお願いします。じゃあメイリーン、行ってくるわ。ゆっくりしていて」
メイリーンの両手を取りぎゅっと握ると、メイリーンもぎゅっと握り返しました。
「リシュー様、行ってらっしゃいませ」
銀髪の店員さんが教えてくれた方向へ足を向け、気合いを入れて一歩を踏み出しました。
これまでの出来事が走馬灯のように甦ります。
実家から送りだしてくれた家族の面々も。
例えブレット様のお許しを得られなくても、セオと浮気したという誤解だけは必ずや解かなくてはなりません。
細長い通路の先に扉がありました。
薄暗い中に浮かび上がる緋色の扉が、緊張感を煽ります。
このすぐ向こうにブレット様が。心穏やかにニコニコしてお待ちでないことだけは確かです。
ノックしましたが返事はなく、さらにノックしましたが返事はなく、重厚な扉越しに無言の圧を感じます。
当然です。遅刻ですから。強引に約束を取りつけておいて大遅刻。
土下座の覚悟で扉を開けました。
「失礼いたします! 遅くなって、大変申し訳ございません!」
……ん?
ブレット様…………寝てらっしゃる……?
広い部屋にブレット様一人きり、大きな緋色の円卓に上体を突っ伏しておいでです。
気を失って倒れていたアンダーソン男爵家の御者のことを思い出して一瞬ドキリとしましたが、一般的なうたた寝のポーズ(組んだ両腕に頭を乗せている)です。
足音を忍ばせ、そろりと近づきました。
え? これって……うたた寝というより……
ブレット様のすぐ側には、琥珀色の液体が薄く残ったグラスが一つと、空のグラスが一つ、空のワイングラスが二つあり、円卓には数種のワインボトルと数種のウイスキーボトルが並んでいます。
そして空のワインボトルが一つ、床に転がっていました。
……お酒を飲みすぎてお潰れになった、ということでしょうか……?
ブレット様は普段のお食事ではワインを少し嗜む程度ですし、パーティーの席でもお酒の量は控えていたご様子でした。
このようなお姿は見たことがありません。
考えられることは一つです。
待たされてイライラが募り、つい飲みすぎてしまったと。
「ブレット様、ブレット様。遅れて申しわけございません。リシューです、参りました」
何度も呼びかけましたが無反応です。そっと肩を揺すると、小さく呻いて、ごろんとお顔がこちらへ向きました。
子供のように無防備な寝顔を、思わずじっと見つめました。
整髪剤できっちりセットされた髪ですが、このままだと寝癖がつきそうです。
いつもきりっと上がった眉も、寝ている今は心なしか下がって見えます。
切れ長の綺麗なラインを描いた二重まぶたに、高く通った鼻梁。透明感のある白い肌はほんのりと赤みが差しています。
浅く開かれた唇からは透明な液体がこぼれ落ち、てらてらと口元を濡らしています。
てらてらと……ん? これって、よだれ?
あわわわ、いけないものを見てしまいました!
クールでお美しい、氷の貴公子との異名もあるブレット様が、よだれを垂らしてお眠りになっているなんて。私は決して見ておりません。
何とか無かったことにしなくては。
もしもこのままブレット様が目を覚まされたら、起き上がったときにでろーんとなります。
それを私が目撃してしまう事態だけは絶対に回避しなくては!
さっとバッグからハンカチを取り出し、そうっと手を伸ばしました。
爆弾処理班並みの緊張感と使命感です。
そうっと、かつ的確に、ブレット様の口元を拭いました。良しっと、心の中でガッツポーズを決めました。
しかしまだでした。一度で拭い切れない量のよだれです。拭ったハンカチを折り畳み、新しい面でもう一度触れました。
赤ちゃんのお世話をする母親になった気分です。可愛いなあとほんわりします。
氷のような美貌で普段隙のないブレット様が、無防備な姿で眠りこけ、よだれを垂らして拭かれているのです。妙に愛しくなります。
ばっと手が払われました。
ブレット様が目を覚まして、振り払った私の手を凝視しています。
「あぁ、……君かぁ。戻って……きてくれたんだな……」
口調がむにゃむにゃしています。
「はい、ブレット様。遅くなって大変申し訳ござーー」
ブレット様にいきなり手を握られ、固まってしまいました。ブブブレット様!?
「イザベル……悪かった」
イザベル? 前の奥様のお名前です。
「ブレット様、お間違えです。私は」
「あぁ、分かってる……幸せならいいんだ」
会話が噛み合わないまま、ブレット様はことりとまた寝てしまいました。




