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空母「蒼龍」最後の戦い!

作者: 山口多聞

架空戦記創作大会お題3、ミッドウェー海戦で米国が敗北した世界線のお話です。


なお当作品には史実の人物の名が登場しますが、あくまで当作品はフィクションです。実在した人物・国家・団体等とは無関係であることを、予め申し添えておきます。

「何でこんなことになるかね・・・」


 大日本帝国海軍中将山口多聞は、今まさに臨もうとしている戦いを前に、愚痴とも取れるセリフを口にした。


「やっぱりあの時かな?」


 彼が思い出すのは、今を遡ること3年前の6月に発生したミッドウェー海戦のことであった。


 ミッドウェー海戦時、少将だった山口は乗り慣れた旗艦「蒼龍」の乗り込み参加していた。太平洋上に浮かび飛行場が存在するミッドウェーを攻撃、占領するとともに出てくるであろう米機動部隊を壊滅させるという二兎を追った作戦は、序盤からミッドウェー島攻撃に向かった第一次攻撃隊が戦果不十分を打電するという事態に陥った。


 これに対して、機動部隊全体を指揮していた南雲中将は敵艦向けに兵装を準備していた第二次攻撃隊を、ミッドウェーに向けようとした。


 しかし、山口はこれに対して意見具申を行った。今ここで第二次攻撃隊の兵装転換をすれば整備員はその作業に追われることになる。おまけに、転換作業の時間を考えるとその最中に第一次攻撃隊を収容することになるので、混乱を惹起しかねない。だから第二次攻撃隊の兵装はそのままで、まず第一次攻撃隊を収容。第二次攻撃隊の護衛戦闘機を艦隊援護に回しながら、第一次攻撃隊に燃料・弾薬を補充して再度ミッドウェーへ向かわせ、第二次攻撃隊はそのまま敵艦隊に備えるという作戦案を具申した。


 この作戦案で行くと、ミッドウェーへの再攻撃に時間を要することになるが、どちらにしろミッドウェーは島なので動かないし、第一次攻撃で効果不十分とはいえ打撃を与えたことには違いない。


 山口の意見具申に機動艦隊参謀長の草鹿少将と航空参謀の源田中佐が賛成した結果、この案が採用された。


 そして案の定と言おうか、偵察機がようやくのこと空母を含む敵艦隊を発見した。この時、機動部隊は第一次攻撃隊を収容したところであった。


 入れ替わる形で飛行甲板に並べられた第二次攻撃隊は、この報を受けるや急速収容した戦闘機の燃料補給完了と同時に発艦し、敵機動部隊へ向かった。


 そして第一次攻撃隊を第三次攻撃隊として敵艦隊へ向けるべく、補給と整備に入ったところへ、米機動部隊から発艦した攻撃機が襲い掛かった。


 この時、4隻の空母のうちで南雲中将座乗の「赤城」と僚艦「加賀」の第一航空戦隊を形成する2隻が、米軍機の集中攻撃を受けた。断続するミッドウェー島から来襲する陸上機の空襲のために陣形は乱れ気味であり、それが第二次攻撃隊発艦の際の高速航行でさらに大きくなっていた。その結果突出した2隻が、米軍機の袋叩きにあってしまったのだ。


 もちろん直援戦闘機もがんばったのだが、第二次攻撃隊の護衛に戦闘機を含むための編成や、第一次攻撃隊を収容したことによる補給の混乱で機数は最低限の数となっており、阻止するなど不可能だった。


 そして護衛艦艇の高角砲や高角機銃の数が決して多くなく、対空砲火の密度が薄かったことも拍車を掛けた。


 結果は「赤城」が爆弾8発命中「加賀」が爆弾11発と魚雷1本命中で、双方とも大破した。南雲中将以下の司令部は奇跡的に無事であったが、両艦は完全に戦闘能力を喪失した。


 この結果を無電で知らされた第二次攻撃隊は、復仇の念を強くして米機動部隊に立ち向かった。


 米側はレーダーに編隊空戦を導入した直援戦闘機、さらには大幅に強化された対空火器で日本攻撃隊を迎え撃ち、これまでにない損害を日本攻撃隊に負わせたが、まず第二次攻撃隊の攻撃で「ヨークタウン」が撃沈された。


 ここで空母の数は2対2となり、ガチの真向勝負となった。


 米側も日本機動部隊への第一次攻撃時に機体の多くを損耗したが、それにもめげず日本機動部隊への第二次攻撃隊を送り出した。


 対する日本側は航空戦の指揮を引き継いだ山口が第三次攻撃隊を発進させた。


 この攻撃は米側が「ホーネット」を、日本側が「飛龍」を喪い五分五分の結果となった。


 山口はさらに追撃の意向を示したが、残存機数ならびに残存弾薬と燃料が心許ない状態となっていたことと「加賀」「飛龍」が沈没(「赤城」は大破したものの機関が健在で、戦場から何とか離脱できた)しており、これらを鑑みて連合艦隊司令部より作戦中止命令が出て引き揚げざるを得なかった。


 これに山口は不満であったが、その後残る米空母「エンタープライズ」も潜水艦の魚雷で沈められ、日本側は辛うじて勝ちを拾うことができた。


 開戦以来、太平洋・インド洋を暴れ回った日本機動部隊は大打撃を受けた。「加賀」「飛龍」の2空母が沈み、さらに大炎上した「赤城」は日本まで回航することこそできたが、上部構造物のほとんどが被害を受けて、復旧するには2年は掛かると判定されてしまった。


 残る「蒼龍」も艦載機の喪失数が多く、加えて開戦以来の酷使もあり、しばらくドック入りを余儀なくされた。


 このため、山口もいったん陸に上がって横須賀鎮守府付となった。


 もっとも、米海軍側も3隻の空母を喪っており、太平洋上で稼働する空母は「サラトガ」1隻のみとなり、いまだ数隻の空母が健在の日本側に対して著しく劣勢であった。


 日本側のミッドウェー島占領を挫いたものの、空母は日本側の喪失2隻に対して3隻を喪失した。それも虎の子の正規空母を。総合的に見れば決して敗北とは言えないものではあったが、米国民はそう思わずルーズベルト政権と太平洋艦隊司令部には逆風となり、大打撃となり政治的に東京空襲でとりかえした点を全て喪ったに等しい敗北であった。


 もちろん、しばらくは戦力の再建期間が必要であり、積極的な攻勢などできるはずもなかった。ミッドウェーの敗北の結果、米軍は反攻を慎重に行う必要に迫られた。


 一方日本側はミッドウェーで喪った2隻の穴埋めとして、急遽改「大鳳」型1隻と「雲龍」型空母1隻の建造を決定するとともに、旧式戦艦「扶桑」「山城」の空母化改装を決定して、さらに数隻の特務艦や商船の空母化改造を追加することとした。


 日本海軍としては今後完成する4隻の新造空母(上記プラス「大鳳」「雲龍」)に加えて、「扶桑」「山城」含む改造空母が揃えば、基地航空隊と合わせた航空戦力で、再建される米機動部隊に充分対抗できると踏んだわけだ。


 そのため、空母の整備はここで打ち止めとされるとともに、建造が遅れ気味だった戦艦「信濃」「飛騨」重巡「伊吹」「鈴鹿」の建造が促進されることとなった。


 この状況下で資材を喰う戦艦と重巡の建造が続行されたのは、ミッドウェーで米空母を全滅させて米軍の反攻はしばらくないと踏んだのと、米海軍でも戦艦と巡洋艦の建造計画を進めているため、そしてミッドウェーの結果による制海権確保で本土への資源還送が上手く行くと見込まれたためだ。


 実際に12月に米軍がガダルカナル島に上陸するまでの半年間、大規模な戦闘は発生しなかった。さらにその後発生した海戦でも、日本側が戦力比的に勝っていたため、米軍側が本当の意味で反攻に転じたのは1943年10月以降となった。


 この間に山口は新設された空母機動艦隊である第三艦隊の参謀長に就任し、アウトレンジ戦術など斬新な運用戦術を考案したものの、空母での実戦経験がない小澤司令長官を1年近くに渡って補佐した。


 そして2人のコンビの結果は、軽空母「龍驤」の喪失のみで、対する米海軍に空母「サラトガ」「ワスプ」「レンジャー」「エセックス」「インディペンデンス」の撃沈という打撃を与えた。


 日本側が空母の集中運用(ミッドウェーの直後ですら4~5隻の空母を同時に運用できた)が可能であり、対する米側は逐次投入にならざるを得ないという条件の差を差っ引いても、大戦果であった。


 この結果小澤は連合艦隊参謀長に栄転し、山口も中将に昇進の上で軍令部次長となった。


 しかしながらそうした勝利の積み重ねも、圧倒的な物量とレーダーや新型機をはじめとする新技術を用いる米軍の侵攻を完全に挫くには至らなかった。


 1944年6月までに中部太平洋の島々は軒並み陥落するか、補給線を寸断されて孤立しその存在意義を喪った。


 そして1944年10月、終に米軍は本土への爆撃可能圏内であり、日本が絶対国防圏の一角と定めるマリアナ諸島に侵攻した。


 これに対して、新たに角田中将指揮する第三艦隊と市丸中将指揮の基地航空隊が全力で迎撃にあたった。


 その結果航空戦と砲戦合わせて空母「扶桑」「翔鶴」「千歳」「瑞鳳」を喪いながらも戦艦1隻、正規空母3隻、軽空母2隻撃沈の戦果を挙げた。


 しかし艦載機の8割を喪失し、損傷艦艇も続出。さらに燃料と弾薬の欠乏により、日本海軍の奮闘もそこまでであった。


 後方に続く上陸船団には打撃を与えられず、上陸を許してしまった。それでも陸海軍混成のマリアナ守備隊は約1カ月間善戦したものの、補給も増援もないままに、航空機と潜水艦で撤退できた極一部の将兵を除き、ほとんどが住民を巻き添えに玉砕へと追い込まれた。


 こうなると、年明けにはマリアナ諸島からB29爆撃機が日本本土へ来襲するのは必至である。さらに、春頃には戦力を回復させた米軍がフィリピンもしくは台湾方面へ侵攻する可能性も大となった。


 日本海軍はそれに対して総力を傾けて迎撃・・・とは行かなくなった。原因は北の赤い帝国ソ連の存在であった。


 1945年5月、ついにナチス・ドイツを降伏に追い込んだソ連は、その膨大な戦力をシベリア鉄道経由で極東方面へ移動させはじめた。


 スウェーデンやスイスと言った中立国の領事館からは、ソ連が独降伏から3カ月から半年程度で対日開戦する可能性が高いという警告文が幾度も舞い込んでいた。


 この状況に、日本海軍では一部の戦力を抽出して、北方の守りを担う第五艦隊の増強を図った。北回りからの米軍の侵攻対策と、ソ連への牽制のためであった。


 旗艦はかつて連合艦隊旗艦も務めた戦艦「長門」であった。これに重巡洋艦「青葉」軽巡「多摩」「北上」に各種駆逐艦6隻が集められた。


 40cm砲を搭載し、かつて日本の誇りとまで謳われた「長門」は別格としても、巡洋艦以下は旧式艦が集められていた。


 米艦隊はともかく、ソ連の太平洋艦隊は最大で重巡クラスの艦艇しか有していないのが最大の理由であった。


 そしてこの第五艦隊の司令長官に就任したのが、軍令部次長であった山口多聞中将である。


 この人事に一部からは「米国通の山口提督を軍令部から外して、強硬派の多い陸軍に配慮した」という噂があった。実際、同じく駐米武官経験があり、米海軍軍人と付き合いのあった伊藤整一中将が同時期に戦艦「大和」「武蔵」「信濃」からなる第二艦隊司令長官に就任している。


 しかしながら、東京にはやはり米国通の山本五十六大将と彼に近い井上成美中将が残っているので、これは単に空いたポストへの将官の人事異動の結果と言うのが事実であった。


 それはともかくとしても、山口としては、ソ連軍相手ならこの戦力でやれる自信は確かにあった。しかし、一つだけ不満があり軍令部に噛みついた。


「空母を回せ」


 さすがは歴戦の空母指揮官。空母が無ければ話にならないとばかりの要請であるが、実際制空権を確保する意味からも、例え1隻でも空母は必要不可欠な存在であった。


 しかし、度重なる海戦で航空戦力は激減しており、軍令部としては早々簡単に首を縦には触れなかった。


 結局、山口が直接軍令部に乗り込んで喧々諤々の議論が交わされた末に空母1隻が差し回されることになった。


 その空母こそ「蒼龍」であった。


 ミッドウェー海戦を生き残った「蒼龍」であったが、その後の艦生は複雑なものとなっていた。


 ミッドウェー海戦から日本本土に戻った「蒼龍」であったが、そこで何と艦載機を全て降ろして、実質的に予備艦になってしまった。


 これはどういうことかと言うと、ミッドウェーでは艦上機部隊にも大被害を受けた。このため、艦載機が不足。そして再編した部隊にしても、残存する正規空母「翔鶴」「瑞鶴」改装空母「隼鷹」「飛鷹」に集中することとなった。


「蒼龍」に載せる飛行隊が無くなってしまったのだ。これが第一の理由。


 第二の理由は「蒼龍」自身が開戦以来の酷使でオーバーホールの必要があったためである。


 ところがここで問題が起きた。それは日本国内に入渠できる大型ドックの数が、限られているということだ。ミッドウェーから戻り、上部構造物を総取り換えする「赤城」や、空母化改造が決定した「山城」「扶桑」さらには追加建造が決定した艦にもドックを振り分けると「蒼龍」の入ることができるドックに余裕はなかった。


 そのため「蒼龍」に行われたのは簡単な修理・整備、艦底部の清掃のみで、ドック入り出来たのは1週間にも満たなかった。


 このため、機関の運転をはじめ各所に制限が加わってしまった。これでは戦列復帰は難しい。そのため、その後しばらく「蒼龍」は内地周辺での航空機の訓練に協力したり、広い格納庫と飛行甲板を利用しての航空機輸送に協力したりと、つい数か月前まで主力空母として働いたとは思えない仕事をさせられた。


 そうして騙し騙しの運用を続けること1年半、ようやくのこと「蒼龍」は神戸にあるドックへの入渠を許され、そこで徹底的なオーバーホールと改装を加えられることとなった。


 改装の内容は、新型機でも運用可能なように発着艦に関する装備を一新するとともに、対空噴進砲の搭載や電探の刷新などであった。


 この工事の為に「蒼龍」はマリアナ沖海戦に参加できず、またフィリピン方面へ派遣された他の空母からもあぶれることとなった。


 その結果として、昭和20年5月時点で「蒼龍」は実質的に本土近海で稼働する唯一の正規空母となっていた。


 同艦にとって幸いだったのは、辛うじて南方資源地帯との航路が健在で資材が供給されたことと、日本側が硫黄島経由で「連山」「飛龍」などの爆撃機を総動員してマリアナ諸島の米軍基地を攻撃し、3月までB29の本土空襲を遅らせて作業が進捗したことであった。


 改装後の「蒼龍」の搭載機は新鋭艦上戦闘機「烈風」24機に、同じく新鋭艦上攻撃機「流星」18機、そして艦上偵察機「彩雲」6機となっている。


 搭載機数が以前に比べて減っているのは機体の大型化によるものだ。それでも、まとまった航空戦力を確保できたことに、山口は大満足であった。


 そして彼は、旗艦を「長門」から「蒼龍」へと移した。わざわざ無線能力が低い空母への旗艦変更には、反対意見も多かったのだが、愛着があり、航空戦を指揮する上で有利と言う理由で押し通した。


 その「蒼龍」艦上から、山口はソ連太平洋艦隊との戦いに身を投じようとしていた。


 4月に行われたフィリピン沖での日米大海戦で、日本連合艦隊は壊滅的打撃を被りつつも、基地航空隊と共同しての作戦を展開し、来寇した米艦隊を迎撃してこれを押し返し、辛うじてフィリピン陥落を防ぐことができた。


 とは言え、再度米軍が攻勢に移ればもはやそれに抗する体力は日本にはない。


 フィリピン陥落を防いだとは言え、南方資源地帯からの輸入は潜水艦や陸上機の攻撃で大打撃を被っており、情勢の悪化によって占領地の維持も危うくなりつつある。


 本土への空襲は本格化しており、新鋭機をもっての迎撃も完全には防ぎきれない。


 そのため帝国政府はフィリピン沖での戦いの戦果をもって、連合国との水面下での和平交渉に入っていた。


 しかし、交渉は難航しており、そうこうしている間にソ連が参戦してしまった。


 そうなれば、山口のやることは一つだった。


「ソ連艦隊を撃破し、制海権を確保。その間に千島と樺太からの撤退を援護する」


 現在帝国海軍に残る有力艦隊は山口の第五艦隊と、南方に残る第二艦隊だけとなっている。もちろん、いますぐにソ連と戦えるのは第五艦隊だけだ。


「今なら背後を気にしなくてもいい。露西亜人共に日本海海戦以来の帝国海軍の底力を思い知らせてやろう!」


 幸いなことにフィリピン沖で打撃を被った米艦隊はしばらく出てくる気配はない。であるならば、ソ連軍相手に思う存分暴れまわれる。


「全艦出撃!目標樺太沖に展開するソ連艦隊並びに輸送船団!」


 山口の力強い声の下、第五艦隊は錨を上げて大湊より出撃する。


 オホーツクの海を舞台に、帝国海軍最後の戦いが始まろうとしていた。

御意見・御感想お待ちしています。


米国がミッドウェーで敗北しても、日本の敗勢は覆りませんでした。


あと、どうしてここで終わり?と思われる方が大多数でしょうが、これ以上書くと長編になりそうなので、いいところで短編としてキリをつけました。山口提督と第五艦隊が最終的にどうなったかは、読者の皆様の想像にお任せいたします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ミッドウェーの勝利がちゃんと建艦スケジュールにも変化をもたらしている点。最終的には敗北になるけどなんだかんだで多くの日本艦は成仏?できそうですね。 [一言] 山口多聞といえば飛竜のイメージ…
[良い点] ミッドウェー海戦で日本が勝利しても安易に日本優勢成らないところ。 [気になる点] 実際に計画にもありましたが、速度の遅い「山城」「扶桑」を空母に改装しても使い物になったのでしょうか? […
[一言] 描写されなかった日本帝国海軍艦艇たちの運命が気になる終わり方でしたね。 山口提督と蒼龍・長門の運命について私が思いついたのを少し長くなりますが書きます。 ソ連艦隊を鎧袖一触にするも、ソ連…
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