逝く人
その患者とは、かれこれ2年程の付き合いになる。医者としてそれなりに長くやってきたが、彼のような人間は案外いる。生にこれと言って拘らず、こちらのせっかくの助言も無視して早死してしまうタイプだ。
ほとんどが、いや、私がそれまで出会ってきたそういう連中は全員老人だった。その死は来るべくしてきた死であった。その点において、彼は他と全く違う存在であった。彼は私よりも一回り若い20代の青年だったのだ。そして彼の死は早すぎて、突然すぎる死であった
病院にもろくに来ない男だった。初めて救急車で運ばれてきてから、2度目の救急搬送も含めて10回来たか来ないか程度であろう。それも全て、唯一健康に気を使っていた半年間だけのことである。
若者が往診を利用することはまずない。その金はないが、彼ら彼女には病院に来る体力はあるからだ。彼がどんな仕事をしていたのかはよく知らないが、彼にはその両方があった。それでも人は金を使いたがらない生き物だから、医者を家に呼び出すという選択がされるのはそう多いことではない。彼に往診を選ぶ理由を聞いたことがある。彼が言うには、医者に診てもらわないと人に余計な心配をかけるが、病院に出向くのは癪であること、医者に煙草の煙を吹きつけられることが理由であるそうだ。煙草嫌いとしてはひどい迷惑な話だ。それでも人手の足りていないうちでは、患者が望まない限り担当医が変わることはあまりないのだが。
それでも、煙草臭い彼の部屋で飲む珈琲の美味さと、彼の話は決して嫌いではなかった。その死生観をはじめとした諸々の価値観は必ずしも賛同できるものばかりではなかったが、私のような普通の人々が考えることを放棄している当たり前を見直す機会をいつも与えてくれていた。それがなければ、あんなひどい場所には絶対に行かないであろう。
2年近く、あの部屋へ行くことを嫌がりながら楽しみにすることが長く続いていた。どちらかといえば悪い気のしない往診であった。といっても、診察よりも会話で金をもらっている感じではあるのだが。彼が死ぬことを誰よりもわかっているはずだというのに、私はよくそれを忘れてしまっていた。リビングダイニングの椅子に座り、ほぼ必ず煙草を、時には昼から酒を呑んで好き放題語る彼には並みの人間以上の生気があった。これから死ぬ人間だとはとてもじゃないが思えないのだ。声ははっきりとし、背筋が伸びて胸を張っている。ニヒルな笑みが多いが、笑うときは腹から声を出して笑う。そんな人間が余命を宣告されているとは思い難いだろう。
忘れてしまって「いた」というのは、それを数か月前に思い出したからだ。彼が再び運び込まれてきた時、病は明らかに進行していた。あらゆる検査の結果が、彼の最期の近いことを示していた。だからこそ、私は煙草を取り上げた。それは彼の死を先延ばしにしたいという、エゴから生じる無駄な足掻きとされてしまうのだろう。それでも病院から抜け出して、美味い珈琲を飲みながら死にかけの話を聞いている時間が惜しく思えて仕方ないのだ。あの部屋の煙草の臭いがたまらなく嫌なはずなのに、それを嗅ぐ必要がなくなることを、どうしても幸運とは思えないのだ。
それ以降、彼の死が現実味を増していった。それは歩行速度の低下にはじまり、曲がった背筋へ続き、会話の場の寝室への変更につながった。
「ぼちぼちですかね」
咳交じりにはなったが、未だはっきりとした声で彼はさらっと言ってのける。口元には、やはりパイプや葉巻がある。ただ、紙巻はやめたらしい。部屋の一角に決まって1箱置かれていたカートンを、社交用にと突然私にくれたのだ。象徴が徐々に欠けていくのが、幾度もそれを見てきたくせにつらかった。いや、患者の死は確かに慣れたものだが、友人の死は思えば初めてだった。
先輩や上司に相談することも増えた。しかし、答えはいつも同じだった。
「あまり入れ込まないほうがいい。あれは助からんよ。なんだったら、往診の担当も変えようか?」
「患者と親密にならないほうがいいなんてわかってるだろ。今のうちに手を引け」
20年近く医者としてやってきたのだ。そんなことがわからない程愚かではない。それでも感情が勝ってしまい、諦め切れないのだ。このようにならないために無感情に患者と接し続けてきたツケが、いまになってやってきたのだ。
煙草や酒を取り上げてみようと考えたこともあった。多少は見込みがあったのだ。私は腕っ節の強いほうではないが、彼の動きの鈍くなっている今ならできないこともない。しかしその後の彼を考えたとき、どうしても決意が揺らいでしまっていた。人生の楽しみをなくした彼のぼんやりとなにもせずに生きる様が見えた気がして。そんな状況に追い込む残酷な所業をする自分の我儘が見えてしまって。
自分の医者という身分の無意味さが、大学で必死になって身に着けた知識と技能の無力さが苦しかった。誰かを治して病院から事務的に叩き出すたびに、どこかで得意になっていた自分に気づいて自己嫌悪に陥っていた。
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休みに彼の家を訪ねるのは初めてだった。行こうと思って家を出たわけではない。職場に忘れたものを取りに来ると、上司からお土産だとバウムクーヘンを渡されたのだ。中年独身には大きすぎるバウムクーヘンだった。同僚以外の友人の少ない私は、その少ない内の1人に分けてやろうと思い立って車を家とは反対方向に走らせたのだ。
お昼時の世田谷通りは比較的空いていて、CR-Vはその中を堂々と走っていた。見かけるのはセダンや軽トラ、ワンボックス。乗っている人間の顔はわからない。車が走り続けているのだ、ぼんやり別の車の運転手を見ている余裕はない。それに、そこまで気になることはなかった。それらの顔や人格には、これから会いにいく病院ほどの価値を見出せない。自分と同じ普通の人間から得るものなど、この歳になると大してないのだ。
日大商学部を過ぎてしばらく行ってから通りを抜けて、狭く不便な道を走っていく。ここらへんは寺が多い。墓が隣接しているものも多くある。それらが見える度に気が滅入り、引き返して家に帰ろうかとも思った。しかし、結局私は灰色のどこにでもあるようなマンションの前にまで車を導いてしまった。ここまで来て引き返すのも変な話だ。
コインパーキングに車を停めて、はす向かいのマンションへと歩く。彼の部屋は高いところにあって、階段を使う気にはとてもなれない。やや奥まったところにあるエレベーターに入り、四角に囲まれた4を押す。箱が止まってから部屋に向かうまでの、階段を上るよりは大分楽であるはずの道すら遠く、しんどく感じた。なぜここに来る気になったのか、自分でもわからなくなっていた。
隣室2つと違って飾りっ気のない表札に408と書いてある。ひどく無機質で当たり前すぎる扉を前にして、私はインターホンを押すのを躊躇した。往診で来た時にはそんなことは1度もなかったのだが。
「あれ、あなた確か、お医者さんですよね?」
3時の方向から突然声がして、私は無様な顔をそちらへ向けた。音源は、灰色のYシャツを着たいかにも好々爺という感じの男の口だった。手には色も大きさも材質もバラバラの紙の束があった。
「えっと・・・管理人さん・・・ですよね?」
「ええ、覚えていていただけましたか。今日は往診ですか?」
「え・・・ええ、まあ」
「昔はあの人が往診なんて、若いのに変な話だなあと思ってましたけど、最近の姿をみるとねえ」
「はあ・・・」
大して仲がいいわけでもない老人は、まるで普段から付き合いのある人間を相手にするかのように話はじめた。こういう場所で管理人をしていると、人への抵抗がなくなってしまうのだろうか。それとも、こういう人間だからマンションの管理人をしているのだろうか。
「少し前まで元気だったのに、何か月か前に救急車で運ばれてからだんだん元気がなくなっちゃって、今なんかもう家から出ることも少なくなってねえ・・・私のような老いぼれならあれですけど、まだ30にもなってないのに・・・」
少し、ショックを受けた。前回の往診時にはまだ外を歩く程度の元気はあったし、煙草を買いに出たという話も聞いていた。急速な容態の変化に吉兆はない。
「外、出てないんですか?」
「ええ。後輩とかいうお若いのがたまに届けに来てますよ。あの子のため息を見ると、なんとなく察しがついてねえ・・・」
「そうですか・・・」
「理不尽ですなあ、神様というのは・・・」
老人は曇り空を見上げた。それは店子のことを思ってか、自分のことを思ってか。
「あ、ごめんなさいね。年取るとつい立ち話が長くなってしまって。さて、起きてるかな」
小さな体を活かして私の前をすり抜けた老人は、迷いなくインターホンを押した。彼は気付かなかったようだが、不思議なことに私はそれを一瞬止めようとしていた。
「あれ、返事がないな。寝てるのかしら」
老人はもう1度インターホンを押しても反応はなかった。3度目を押すには些か早すぎるタイミングで、彼は扉を欠陥の浮き出た手でたたき始めた。
「おーい!いるかーい!お客さんだよー!」
耳の悪い老人にありがちなやかましい声がベランダに響いた。それから数秒置いて、今度は扉の鍵の解除される音が小さく短く響いた。
「爺さん、声がでかい」
「ああ、起きてたのかい。だって出てこないんだもん」
「あのね、今はあんたより動きがとろいんだから時間がかかるの。少し待って」
「悪かった悪かった。どうしても、ほら、ちょっと前までの感覚が抜けなくて」
「空室になった後に同じことするなよ?」
「そんな縁起でもないこと言うんじゃないよ」
2人の会話の蚊帳の外にいる間、私は言葉を失っていた。扉を開けて出てきた人物の姿は、それまでの彼を知る人間が想像だにしなかったものであったからだ。ジャケット、Yシャツ、スラックスが当たり前だった彼の今日服装は、パジャマだったのだ。洒落たものではなかったが、いつも整えられてはいた髪は寝起きだとわかる程度に乱れ、ニヒルな笑みもどこか不穏なものを感じさせた。
「あ、お医者きてるよ。往診」
「往診?今日予約いれてないんだけどな」
「え?先生は往診だって言ってたけどね。ねえ先生」
突然話を振られ、私は動揺した。我を取り戻したのも束の間、患者と目が合うとまたも私は口が動かなくなった。その目が彼の物だとは信じられなかったし、信じたくなかった。それほどまでの死んだ目だったのだ。
「先生?」
一瞬怪訝な顔をしたが、彼は自分の身なりを確かめてすぐにすべてを悟ったらしかった。
「今日、往診じゃありませんよね?」
「え・・・あ、ええ。すいません、管理人にお話するとお引止めしてしまうように思ったので」
「なあんだ。そんなこと気にしないでもよかったのに。私だって長話の悪癖があるんですから」
「爺さん、みんながあんたみたいに無思慮な人間じゃないんだから」
「そんなこと言わんでよ」
老人と会話する言葉は依然として威勢の良いものだった。しかしその声はかつてと比べて明らかに小さくなり、勢いも速度もなくしていた。
「で、爺さんはなにしにきたの?先生私の部屋知ってるから案内はいらないはずだけど」
「え・・・ああ!そうそう、郵便受けに手紙が来てたからね、ほら」
「どうせチラシばかりなんだからいいのに」
「いや、葉書とか手紙もいくつかあるよ」
「ええ?死ぬ直前になって遺産でも集るやろうがぼちぼちでてきたかな?」
「もっと前向きになんなさいよ」
「今更前向きもなにもあったもんじゃないよ・・・まあ、ありがとうね」
「あいよ。まあ、元気出しなさいよ」
「もうないよ」
「なくても出すんだよ」
老人はこちらに一礼して去っていった。その背中を見るに、先ほど曇り空を眺めたのは店子を思ってのことだったのかもしれない。
「話が長かったでしょう、あの爺さん」
「え、ああ、まあ・・・」
「悪い人じゃないですよ。店子の生存確認にくるくらいにね」
「毎日来るんですか?」
「ええ。郵便物がチラシ1枚だろうがね。なかったらなかったで、ハウスクリーニングかなんかのチラシをもって来るなり、菓子持ってくるなり」
「いい管理人さんですね」
「ええ、ここは当たりですよ。少なくとも死体が腐るまで見つからないってことはないでしょ」
礼の笑顔を見せた。やはり不穏なものがあった。
「まあ、上がってくださいよ。往診じゃなくても、なにかしら用があるんでしょ?」
「え?・・・ああ、それじゃ遠慮なく」
玄関に1歩足を踏み入れると、部屋は相変わらず煙草臭かった。それに安心感を覚えたのは初めてだった。
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廊下を超えて部屋リビングダイニングへと進む。以前はここで止まり、椅子に腰かけていた。しかし、今の彼にそれを望むのは酷だろう。重い足取りで、壁に、テーブルに、椅子に手をつきながら患者は寝室へと進んだ。曲がった背筋が、少し大きい呼吸が、震えている手が何度見ても痛々しい。
ベッドに腰をかけ、以前より重く感じているであろう下半身をなんとか持ち上げて半分寝るような姿勢になると、彼はようやく一息ついたようだった。
「ここから玄関にいくのも一苦労ですよ」
ぼやきながらパイプを口に運び、随分と苦戦しながらマッチを擦り火をつけた。
「これだけはやめられない。いや、やめたくないものですな」
煙を吹き出しながら、顔と声を生き返らせて患者は言った。それでも目は死んだままだった。
「びっくりしたでしょ?」
「へ?」
「パジャマですよ。病院以外で見せたことなかったわけだし」
「あ、ああ・・・まあ、新鮮でしたよ」
「可能なら、見せたくなかったんですがね。まあ、もう外に出るわけでもないし」
「煙草も、お友達に頼んでいるそうで」
「前からちょくちょく頼んではいたんですが、まあどちらかといえばそいつの様子見が目当てでして。それが今や、彼と姪がいなければなにもできませんよ。宅配も使いますが、選び間違いが多くて」
自信に満ちた発言で知られた彼の弱音は初めて聞いた。こうならなければ、彼もいう気はなかっただろう。
「いつもの自信は見る影もないですね」
「持ちたくても持てやしませんよ。こうも弱ってなにもできなくるとね。珈琲も、欲しかったらご自分でどうぞ。場所はわかります?」
「ええ、まあ」
キッチンへ行ってみると、出しっぱなしのウィスキーの瓶が目についた。まだほとんど飲まれていなかった。その理由が、最近買ったばかりなだけであることを切に願った。あそこまで弱った人間が酒を飲んでいることを祈るとは、医者としては失格なのかもしれないが。
珈琲豆は開封すらされておらず、インスタントが少し減っているだけだった。なにもかもが消費されていない綺麗なキッチンが私の願いを嘲笑しているような気がしたのは、ただ気が滅入っているためにおこる勘違いであってほしい。
「豆もインスタントも、まだ残ってたでしょ」
珈琲を2つもって戻ると、患者が口元だけ笑いながら声をかけた。
「ええ、お酒もね。そうなってまでウイスキーですか?」
「いやあ、最後に飲んだのは1週間以上前ですよ。たまたま調子がよかったんで、1杯だけ」
私の願いはその対象により踏みにじられた。
「あんだけ強がって、終いには飲めなくなるとは情けない」
「早めにやめておけばよかったんですよ」
「いやいや、まだわかりませんよ?」
「そこまで弱ったら、もうわかりきってますよ」
自分で言っていて嫌になった。わからないほうが私だっていいのだ。
「お医者に言われると説得力が生じるんだから、言わんでください」
「私の忠告が正しかったんですから、勝ち誇るくらいいいでしょう」
「無理してでも最期に一杯呑んで、負かしてやりますよ」
彼らしい負け惜しみだった。願わくば、もう少し元気に言って欲しかったが。
「ところで、今日はどうしたんですか。この時間で往診以外で来れるってことは、お休みだったんでしょう?」
「あ、まあ、ちょっとね」
当初の目的を完全に忘れていた。私は自分のかけていた椅子の傍らに置いていたバウムクーヘンを手に取り、彼に見せた。
「上司からもらいまして。バウムクーヘン、嫌いですか?」
「はあ、あれですな?独り身だと食べきれないからもってきたわけだ」
「分けてやるって言ってる人間にそういうことを言うもんじゃありませんよ」
「くれと頼んだわけじゃありませんからね。先生も40になるんですから、女の1人や2人いないんですか」
「この年だと望むべくもありませんよ」
「先生ならいい人がいないわけではないでしょう。お堅いのが玉に瑕ではありますが」
「余計なお世話です」
気分が軽くなった。それは向こうも同じようだった。死んでいた目が、疲れ切っているという状態になるほどには生き返っている。会話とは不思議な薬だ。
「そういえば、そっちこそあの女性とはどうなんですか?」
キッチンから皿と包丁、そしてフォークを運びながら私は尋ねた。寝室に再び入ったとき、彼の顔色が変わったのに気づいた。生き返ったはずの目がまた死んでいる。
「・・・すいません。私の関わることじゃありませんでした」
「いえ、先にその話をしたのは私ですから」
「それでも、気分を悪くしてしまいましたから」
患者は顔色を無理矢理戻そうとして、結局戻しきることはできなかった。そのままで笑って、首を横に振った。自分の発言に強い後悔が生まれ、ただでさえ沈んだいた気分が猶更ひどくなった。
「元より別れていたんです。初めて先生のお世話になった辺りでね。紹介したときからそんなに経っていなかったような。恥ずかしくて言えやしませんよ、紹介した直後に振られたなんてね」
「ああ、それは・・・」
「どうか、お気になさらないで。ただ、言いたかっただけなんですよ」
ただ言いたかっただけ、というのは本当なのだろう。悲しい話だというのに、煙を吐き出す彼の顔は晴れ晴れとしていた。
「気のせいだったら申し訳ありませんが・・・少し、楽になったのでは?」
「ええ、おかげさまで。むしろ、あれの話をしてくれてよかったらしい」
ニヒルな笑みが浮かんだ。不穏さはさきほどより大分マシになっていた。
「もういくらか、あれの話をしていいですかね?」
「ええ、どうぞ」
彼は座ったまま頭を軽く下げると、喋るための力を求めて一服した。今日1番の穏やかな煙が火皿から立ち昇っていく。臭いはやはり気になったが、その光景だけは妙に落ち着くものだった。
「気まぐれを起こしたのか、ここに押しかけてきて復縁を迫られましてね」
火皿を脱した煙が散るのを待ってから、患者は語り始めた。
「ここにきて、飯まで作っていきましたよ」
「・・・それは、良かったといっていいのでしょうか?」
「普通ならそうでしょう。恥になることを承知で白状しますと、私はまだあれを愛していますし」
彼女がどういう気持ちでここを出たのか、大雑把には察しがついた。
「断ったんですね?」
「さすが、よくわかっていらっしゃる。ええ、こんな死に損ないと縁りを戻してもしょうがないでしょうから」
「しかし、彼女はあなたのことを知ってるんでしょう?」
「ええ、だからこそ来たんでしょう」
「それなら、受け入れてもよかったんじゃないですか?」
ニヒルな笑みが、自嘲の意味合いを持った。その通りです。だけどできないんですよ。そうとでも言う代わりだったのだろう。
「これから死ぬ人間、後のない人間はどうやっても臆病になります。残りの人生、後悔なく過ごしたがりますからね。ただ、後のある人間は違う。失敗してももう1度があるんです」
言い終わってから、彼はやや芝居ぶって首を横に振った。
「いや、もう1度があると思いがちなんです。実際は、それが最後の機会だったり後戻りできない分岐点だったりする。それに気づかずに軽はずみな選択肢をして、あとで後悔するんです」
「それが、復縁を迫った時の彼女だと?」
「そうです。察しがよくて助かる。確かに彼女にはもう1度があるように思える。しかし彼女にはその時、というより今も別に男がいますから、私のところに来るには彼を捨てねばならない。職場が同じだそうですから、彼を捨ててほかの男の下へいったことが広まるでしょう。そういう女がどういう扱いを受けるか、お分かりになるでしょう?」
間違いなく、避けられるだろう。同性からは相当に嫌われるかもしれない。
「しかし、職場だけが出会いじゃないでしょう。それに、恋愛的な話なら1人でも生きていくことはできる」
「あれは無理ですよ。しばらく見ない間に、誰かが側にいないとダメな女になってた。まあ、私が気付いていなかっただけかもしれませんが。一緒にいてやれるのが私なら、お互いにめでたしめでたしなんですが・・・まあ、御覧の通りなわけで」
「・・・しかし、他に出会いがあるかもしれない。今の言葉のあとに言うのは気が引けますが」
「ええ、悲劇的な感情に任せてろくでもないのとくっつくかもしれない」
「・・・失礼だが、幾分あの方のことを自分勝手に考えすぎでは?」
私の言葉は予想外だったのだろう。彼は珍しくかなり驚いた顔を私に見せた。そのまま1秒固まってから、何かに気づいたようで頭を抱えながら自嘲の笑みをまた見せた。
「なるほど。確かにその通りです」
「もう少し信じてあげてもよかったのでは?」
笑みが真剣な顔と10秒だけ交代した。10秒経ってから、またもとに戻った。
「いえ、やはり断ってよかったらしい」
「なぜ?」
「女を信じられない男に、女を愛する資格はありませんよ」
「とことん自分に厳しいようで」
「ある意味では、甘いですがね」
彼の言うところの甘いとはどういうことか、私にはわからなかった。しかし、妙に納得した顔を見ると突っ込んで聞く気は起きなかった。
「しかし、最期まで1人でいるのは辛くないですか?愛してもらえたんでしょう」
「恋愛的な話なら、と言ったのは先生ですよ?」
「それが辛くないとは言ってません」
「なら、先生はどうなんです?」
「恥を忍んで言うなら、自分が辛いから言ってるんです」
患者は今日はじめて吹き出し、声を上げて笑った。その笑いは彼が咽るまで続いた。
「そんなに笑うことないでしょう。失礼な」
「いや、先生がそんなこと言うなんて思ってもみなかったものですから」
「色々正直に話してもらってますから、私もね」
「光栄ですな」
患者はパイプを灰皿についたコルクで軽く叩き、火皿の中の灰を落とした。その後に飲んだ珈琲はさぞ美味かったのか、恍惚と言っていいであろう表情を顔に浮かべた。
「おかげさまで、随分とすっきりしましたよ」
「それはなによりです。普段、碌な治療させてもらえませんからね」
「医者に診せないと周りが心配しますが、てめえは診られるのがあまり好きじゃないんでね」
「こういった処置でも?」
2秒顔を真剣にしてから、彼はニヒルではなく、穏やかな笑みと共に言った。
「むしろ、大歓迎です」
「それは良かった」
珈琲をもう1口飲んでから、彼はフォークを手に取り、会話の間に切り分けたバウムクーヘンに向けた。
「いただいても?」
「もちろん」
彼の幸せそうな顔を見て、私も自分の分に手を付けた。会話だけでなく、甘い物も薬の1種らしい。
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バウムクーヘン2切れと珈琲3杯の後、患者はまたも不健康に勤しんだ。
「葉巻を吸う元気はあるんですね」
「逆に、これから元気をもらってるんですよ。医学的にどうとか知らないし、みんなこれをやめれば長生きできるといいますが、私にしてみればこれがあったから今日まで生きてこれたんです」
「医者としては、認めるわけにいきませんな」
「認めていただかなくて結構。愛煙家だけがわかることです」
職業上の見地はともかく、彼の言っていることが正しいような気がしてきた。人間にとって最も健康に悪いのはストレスだ。病は気からという言葉は馬鹿にはできない。健康に健康にと気を使って好きなことを我慢するよりも、多少不健康でも好きに生きたほうが案外長生きできるのかもしれない。もしそうでなかったとしても、そのほうがいい人生だと言えるだろう。
「先生も、如何ですか?案外合うかもしれない」
「いえ、やめておきます」
「せっかくの機会なのに」
「私の場合、味とか煙の感触よりも、臭いがダメなんです」
「・・・ま、それならしゃあなし」
少し残念そうではあったが、納得はしているらしい。彼はそれ以上勧めることはなかった。
「ところで先生」
「はい?」
葉巻を咥えたまま器用に彼は言った。
「お休みのところ恐縮ですが・・・治療を続けていただいても?」
それは私ではなく、おそらく精神科医に頼むべきことなのだろう。私がその治療をするのはよろしくない。
「お断りします。私は精神科の人間ではないので」
意外だったらしく大分驚いていた。うまく隠していたが、狼狽に近かったのかもしれない。
「病院のお仕事として頼んでいるわけじゃないんだから、お願いしますよ」
「いえ、医者としてそういうことを安請け合いするわけにはいきません」
「これは参ったな」
本当に参ったというような顔だった。彼がこういう顔をすることがあるとは知らなかった。
「そこをなんとか、曲げて」
「いえ、お断りします」
「先生と私の仲じゃないですか、頼みますよ」
もう少し揶揄ってやりたい気持ちになったが、段々と狼狽が隠し切れなくなっているようだったため、この辺りで許してやることにした。初めて彼が年下であることを感じれただけで充分な成果だろう。
「いえ。やはり医者としての治療はお断りします」
「ひどいなあ。そこまで拒否されるとは・・・」
「友人として、お話を聞かせていただきます」
今日の彼は随分と色々な顔を見せてくれる。今度はキョトンとした間の抜けた顔だった。こういう顔についてはできないとすら思っていたのだが。
やがてすべてを悟ったらしく、ハッとした後に彼は2年の付き合いの中で最大の笑い声をあげた
「やってくれましたね?」
咳が落ち着いてから、彼は言った。例の笑顔を構成するすべてが生き返っていた。
「なんとなく、年下を揶揄いたくなりまして」
「先生が年上だと、初めて思い知らされましたよ」
私の顔にも、彼と同じ笑みがあったのだろう。おそらく、そういう笑みが私にもできるのだと彼も発見を得たはずだ。
「ここまでやってくれたんですから、とことん付き合ってもらいますよ?」
「どうぞ、ご満足いくまで」
仕返しとばかりに、友人は私の顔にたまらなく臭い煙を吹きかけてきた。
「ここ1年程、色々と人に助言をしたりすることがありまして。まあちょっと違いはしましたが、あの女が今のところその締め括りになってます」
彼は葉巻を時々口に運んで話すための力を補充しながら、生気ある落ち着いた声で話し始めた。
「めそめそと女々しく情けない後輩、聞き分けの悪い疑心暗鬼持ちの姪、吹きたい笛の吹けない豪快な友人、そして癪に障るが愛してしまう女・・・彼ら彼女らはその面を不幸で一杯にしてやってきました。それいつらを、傍からみたら1番不幸なわたしが慰め、励まし、この部屋から送り出していったわけです」
確実にこちらに語りながら、それでも顔はどこか遠くを見ていた。その遠くには4人の顔が映っているのかもしれない。
「人によって、なんでてめえの最期の時間を使ってまで人の世話を焼くんだと思うかもしれない。人のことなど放っておいて、自分のことだけ考えて生きていればいいと。そんな面倒なやつらは家に上げることなく、玄関で追い払ってしまえばいいってね。まあ確かに、そうすれば人の言うところの自分の思い通りって風に生きられるかもしれませんね」
「人の言うところ、とは?」
「旅行に行くとか、愚痴を言わないやつらを家に呼ぶとか、1人で音楽を聴きながら他人という存在すら忘れて引きこもるとか・・・ですかね。まあ、それも悪くはないでしょう。3番目についてはたまにやりましたし」
そういう生活をしている自分を思い浮かべているらしい。話している最中はパーティーでもしていたのかリビングダイニングを、今はどこかへ旅行しているのか、ベッド横の窓から遥か彼方を見ている。その横顔は楽しそうだが、最後には「違うな」という風にクスリと笑っていた。
「しかし、人様にはそう見えていないらしいけれど、私はこれで随分と自分思い通りに、自分の好き勝手にやってきたんですよ。それはもう、自分のことだけを考えてね」
窓からこちらへ視線を戻した彼は、「わかります?」と言葉を用いず言っていた。わかっていないわけではなかったが、肩をすくめて続きを促した。
「随分と我儘だと思いませんか?人の辛いことや触れられたくないことをそいつの心から引きずり出して、頼まれてもいないのにあーだこーだ指図をするんです。ひどい迷惑だ。おまけに、女には随分と手前勝手な献身を見せたわけだし」
「しかしそれは、彼らを思ってのことでしょう?」
「ええ、そうです。彼らのことを勝手に思ってやったんですよ。私に干渉する権利があるのかないのかわからないことをね。私は彼ら彼女らが自分に語りだすのを待つべきだった。それを無理に引き出すべきではない。それは過干渉というものです。そう思いませんか?」
葉巻を口に運び、その先端を赤くする。それが終わると、彼は大きく煙を吐き出した。煙が機械の排気に見えた。
「まあ確かに、少しリスキーな行動ではあるかもしれません。引き出し方や、その後の扱いに失敗すれば思わぬ結果につながるかもしれない」
「その通りです。そんな危険なことを私はやってきたんですよ」
排出されているのは自己嫌悪なのかもしれない。他人からみれば、それほど彼に似合わない感情がない。しかしそれはただの偏見だったのだろう。彼もまた、誰しもが持つ負の感情と戦いながら生きてきた人間だったのだろう。他人に助けを求める器用さを持たなかったゆえに、その代わりに傷を隠すことに長けてしまったために、彼にしかその戦いの存在がわからなかったのだ。
その戦いを少しだけみることができた。しかし、このままならば全てを見ることはできないだろう。彼は恐らく、全てを見せぬまま死ぬことを随分前から決めている。しかし私にはそれがひどく淋しいものに思えた。自分にとっても彼にとっても。そして私には、彼から全てを引き出す大義名分を手にしたばかりだった。
「危険なことと知りながら、なぜそれを続けてきたんですか?」
弱く組んだ手から黒目を移した彼は、その黒を小さくして私を睨んだ。それが悪意からのものでなく、反射的な防衛行動であることを切に願った。私は仕事と関係ないリスキーな行動には彼ほど慣れていない。
「いま話題に出た危険なことをしているのは承知してます。ですから、話すかどうかはお任せしますよ。どのみち、私に強制などできない」
好ましくない目は私を尚も見続けた。犬猫がこちらを警戒する時にする目だと解釈して気を紛らわそうとしたが、この年下はそんな可愛いものではなかった。
「まあ、散々それをやってきた人間がここで拒否するのは、道理に適いませんね」
その言葉と彼に極めてよく似合う表情は私を安心させた。どうやらヘマはやらなかったらしい。
「それに、私も話したくないわけではないんです。むしろ、話したいのかもしれない」
「それなら、なぜあんな怖い目を?」
「誰しも自分の恥をそう簡単には見せたくはないでしょう?私が言うなという話かもしれませんが」
葉巻は大分小さくなっていた。彼はそれを潰すと、流れるように木箱に手を伸ばした。元より特に咎める気もなかったし、この部屋ではやめるよう言わなくなってもう随分と経つのだが、彼は私に承認を求めるように急にこちらを向いた。初めてのことに一瞬戸惑ったが、特に迷いなく許した。
「私が煙草をはじめた理由ですが・・・」
シガーカッターで葉巻の後尾を切り、マッチを擦りながら彼は徐に言った。
「辛さを押し殺すためだったんですよ。一緒にすると失礼かもしれませんが、兵隊が煙草を吸うのと同じ理屈です。普段はただ美味いから吸っているだけですが」
葉巻を吸ったことがないわけではない。それに火をつけるのは少しコツがいることを私は知っている。彼の手はそれを完全に習得しているようだった。
「いまから弾幕の中に突っ込んでいくわけですから、これがないとね」
排気を終えてから、彼は再び話を始めた。
「人間には必ず存在する価値が必要であるとか、人間すべてに果たすべき使命があるとか、そんな陳腐なことをいうつもりはありません。しかし、私には必要だったんです。自分という存在に自信を持ち、自分が・・・まあ有り体にいうのならばその他の有象無象とかは違う人間だと確信しなければ、私の自我が壊れてしまうような気がしていたんです。実態の伴わないプライドは厄介ですな」
彼はまたも新しい表情を身に着けていた。自嘲でも、真剣でもない。その性質が真面目なものであるのは間違いないのだが、どこか疲れたような、肩に力の入っていない表情だった。
「御覧の通りの男です。身体的に人に優れているところは何1つありません。面は疲れた老け顔、体躯は小さく、運動ができるわけでもない。渋谷辺りを歩いているような、面のいいお兄さん方のような自己の確立の仕方はできない。誰かから自信をもらえる点はないんです。ならば、自分自身で自信を得なければならない。私をそれを、ここに求めたんです」
彼は頭を細い人差し指で2回叩いた。そこには大量の言葉や思想、あらゆる事物に対する彼の解釈が詰まっているのだろう。
「渋谷のお兄さんに勝っているのはここくらいなものです。逆を言えば、ここならまず負けることはない。私はあらゆる知識を得て、それをもとにあらゆることを考えました。まあその結果、面も合わさって20になる前から30と勘違いされるようになってはしまいましたが」
おそらくそれも彼にとって自信につながったのだろう。基本年上とは、年下よりも優れたものとして認識される。一般的に老けて見られるというのは、それが外見のみに起因するものでなければ、同年代の他者と比べて優れていると評価されていることを意味する。
「自惚れと言っていただいて結構ですが、私も同世代の大多数に比べておつむの方は多少はいいと自負しています。少なくとも、彼らの知らないことを知っていて、逆立ちしても考えつかないような物事の解釈ができる。ここまで言ってしまったら信じていただけないかもしれないけれど、これでも高校までは謙虚でしたよ。しかし、それは自分しか自分に自信を与えることができなかったからです」
「大学で何かが変わったので?」
「ええ、大分ね。人からそれまでにないほど頼りにされるようになりました。まあキャンパスにいるのはほとんど同世代なわけですし、上の世代を頻繁に頼ることのできない環境ですから、必然といえばそうだったのでしょうがね。人との付き合い方についてもある程度理解がありましたし、人生における苦難への対処も他人よりは知っていました。それを知っているのは基本と年上ですが、まあ先ほど言った通りです」
彼に助言を求めてくる人間は、彼が私の患者となる前から多くいたのであろう。それも納得できる話だ。年上の私ですら時に彼から学ぶことがある。
ここから話の調子が少し変わるらしい。彼はそれまでに比べて比較的長く葉巻を咥えた。排気も葉巻経由ではなく、口から直接行われた。
「助言を与える人間というのは、相対的にみれば与えられる人間より立場は上になることが多いでしょう。元の立場が同等ならという話ですが。人より優位に立っているというのが、大多数より優れているというのが、私だけの認識ではなくなりました。他人からもそのように見られるようになったのです。当然、これは大きな自信になりましたよ。渋谷のお兄さんとは全く違う方法で、同じものを手に入れたわけですからね。随分と心地よかったですよ。万人に認められるものではありませんでしたが、友人からの尊敬を得ることはできましたからね。それに、私は友人が多いほうなので。大学を卒業して勤めに出てからも、大学時代の友人後輩が私を頼ってくれましたし、そのうち勤め先の人間にも助言を与えるようになりました。立場も上がっていきましたしね」
他人からの評価がすべてではないと最近は声高に言われるが、結局最も強力な自信となるのはそれなのだ。それを得るのができない人間が増えたがゆえに、そういう理が唱えられがちなだけなのだ。彼がそれについて述べないのは、なにも理解がないからではないのだろう。それを知っていながら、問題にもしていないのである。彼はそれほどに人というものを理解していた。
喋り続けようとした口が止まった。元々あった手の震えがやや大きくなったのが見えた。それを押さえつけるように、彼はまた葉巻を咥えた。しかしその顔に恍惚と表現できるものはない。何より愛しい物を味わいながら、彼の顔は忌々しさに満ちていた。
「まあ、それが良かったのかどうか・・・あるいは、もう少し馬鹿だったら問題なかったのか」
口での排気を終えて、俯いたまま彼は言った。
「ものを考えられるというのはいいことばかりではないようで。どうしても悪い面が見えてくる。もちろんそれを好意的に解釈することもできなくはありませんが、やはり負の評価のほうが強く印象に残ってしまう。幸運よりも不幸のほうが強く感じられるのと同じなんでしょうな」
婉曲的な言い方だった。それは彼の躊躇いを示していた。
「・・・いけませんね。ここまできてすべて話すのを臆している自分がいる」
「ゆっくりでいいんです。なんだったら、ここでやめにしておいても・・・」
私の言葉を、彼は左手で制した。
「いえ、話さねばなりません。今を逃せば、私は2度人生の総括ができなくなる。それだけは避けなければ」
それは私ではなく自身に言っているようであった。「少し時間をください」というと、彼は力を補充した。煙がやや荒々しく立ち上る。喫煙者の心理状態は、煙と煙草の先端をみれば理解できることを私は今知った。
「気付いてしまったんです。自分の優位を保つために、自信を持つ続けるために、友人の不幸を望んでいる自分に。友人が私に助けを求め続けることを願っている卑しい本質に。危険な手段を使っているのをわかっていながらね」
煙が落ち着きを取り戻してから、彼は再び語り始めた。
「ここからがまたひどく醜い。自分を正当化しようとしたんですからね。まるで私の嫌いなインテリ連中みたいで、思い返すとうんざりしますよ。人間なんてこんなもんだ。人間に利他的行動はできない。人間の起こすあらゆる行動の動機は利己的なものである。だから仕方ないってな具合でね。でも、自分というのは誤魔化し切れない。まあそりゃそうですよね、自分の考えてることというのは全部わかってしまうんですから。嘘をついても、それが嘘だとわかってしまえば意味がない」
彼の言うことは少し間違っている。嘘を真実にしたり、嘘を真ということにしてしまうことが人間にはできるのだ。彼がそれをやるのは、高すぎるプライドのために不可能であろうが。
「どんなによくできた理論を立てても、私の根っこが納得しない。結局自分の汚い部分が見えてしまうんです。そうなるともう堪らない。自分を保ってきた自尊心が欠点に変わっていく。そして自分そのものすら崩れていくような気がしてくる。いままでの自己認識がどんどん否定されていく。辛くて辛くて仕方がない」
声の調子をおどけさせているのは、涙を流さないようにするためなのだろう。自分の欠点をジョークにしなければ、欠点を真剣に捉えないようにしなければ、彼を彼たらしめ、その存在を支えているプライドがまさにこの場で崩壊してしまうのだろう。だが同時に彼の治世が、それをさらなる自己嫌悪へと導いているのが手と声の震えからわかった。
「それでもね、やめられないんですよ。きっと依存症になったんでしょう。また自己嫌悪に苦しむとわかっていながら、助言を、助けを求められると断れないんですよ。段々優越感も得られなくなってきました。ただただ辛いだけになってきました。でももうその時には大分信頼と実績ができてしまいまして。向こうも私が断ると思わなくなってますから、断ったら友人を失うような気がして助けないわけにはいかない。そして感謝されると辛い。自己嫌悪が襲ってきて逃げ出したくなるけれどそういうわけにはいかない。友人からの、友人からだけの尊敬もここにきて仇となりました。随分と参ったものですよ」
ここまで言うと、彼はようやく一息つけたようだった。長い補充から1度も口にしていなかった葉巻を咥えて深く吸うと、今度は恍惚の表情を浮かべることができていた。
「先生からお前は死ぬと言われたとき、死の恐怖を感じながら少し安心したんです。もちろん、あの女や友人と別れるのは耐え難く思いましたがね。でも、長生きを試みたのはそれが理由じゃないんですよ」
声が穏やかになっていた。震えも落ち着いていた。
「自己嫌悪から解放される、優越感を貪る必要もない。どのみち死ぬんだから。先の人生が短い奴に面倒を持ちかける、図々しいやつはそう多くありませんしね。最期くらい楽に生きよう。それもできるだけ長く。それが健康生活の動機でした」
2年前を思い出した。今の彼からは考えられないほど健康に気を使っていた。当時は彼のことをさして理解していなかったため、そこまで気にならなかったが、今にして思えば並みの努力ではなかっただろう。急に往診を頼んできて、行ってみたら部屋に煙が満ちていた時は随分と驚いたものだ。
「でも、なんかしっくり来なかったんですよ。自分らしくないってね。それでまあ、久しぶりに色々と考えたんです。思い返すとどうも半年間楽しくない。求めていた楽さもない。で、健康生活をやめてしまったわけです」
「本当に余計なことを考えてくれましたね」
「お医者には都合が悪くても、私としては大正解でしたがね」
感情がV字回復を成し遂げたらしい。笑顔が浮かんでいた。
「そしてまた転機が訪れたのが1年前。先ほどお話ししたように思いますが、性懲りもなく人にまた助言をしましてね。相手は、物資配達人の後輩です」
再度沈んでしまうかと危惧したが、その様子はなさそうだった。
「余命宣告を期に退職していましたし、娑婆との関りもしばらく経っていましたから、そのせいでしょうか。特に悪い気はしませんでした。また優越感でも感じたのか、感謝も素直に受け取れましたよ。もちろん、自分勝手な行いだとは認識しながらね。それから何人か、この前までまた世話を焼いてきたわけです。いやはや、人間とは学ばないものですね。結局最期には同じことをしてしまっている」
いつの間にか半分以下になっていた葉巻を1口味わうと、彼はそれを潰した。
「我儘に我儘を重ねて申し訳ありませんが、珈琲、お願いできますか?」
私は頼みを快諾した。どうせ、私のカップも空だったのだ。
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「長いだけの下らない話に付き合わせて、すいませんね」
「いえ、とんでもない」
相変わらず背筋は曲がっているし、おそらくここから立って歩くとなれば歩行速度も遅いままなのだろうが、ベッドに座る男の顔色だけはかつての明るさを完全に取り戻し、維持していた。
「楽になりましたか?」
「ええ、大分。人にこうして話を聞いてもらったのは初めてかもしれない」
「我慢が体によくないことは、よくご存じだと思ってましたが?」
「自分でもそのつもりでしたが、そうでもなかったようです」
珈琲を2人同時に啜ると、17時を告げる聞きなれたチャイムが聞こえた。外の景色は目の前にあったのに、日が暮れ始めていることに初めて気づいた。
「お時間、大丈夫ですか?」
「そうですね、そろそろお暇しなければ」
「長々とお引止めしましたね」
「友人のためになったのなら、時間など惜しくはありませんよ」
「中々嬉しいことをいってくれますね」
彼らしい笑みをまた見ることができた。それが非常に嬉しく思えた。
荷物を手に取り、長く腰かけていた席を立った。友人は私を見送ろうとベッドから立とうとしたが、気持ちだけ受け取って遠慮した。
「あ、そうだ」
私は話を散々聞いておきながら、自分が何も言っていないのを思い出した。彼の話を聞いて思ったことを伝えるのは、やはり私の慣れていない危険な行いであったが、それでも伝えておきたかった。
「お話を聞いて色々思ったのですが・・・あなたの悩みは、思っている以上に単純なように見えます」
「・・・と、いうと?」
単純と言われたことにムッときたのか、彼は少し怪訝な顔をした。こういうところに、彼の若さがたまに現れていた。
「思うに、あなたは考えすぎです。あなたもお気づきだとは思いますが、それ以上に単純に考えすぎが原因でしょう。それはあなたのいいところでもありますがね。しかしあなたの悩みは、誇張抜きにすべて考えすぎが原因とみていいでしょう」
「そんなに、でしょうか?」
「ええ、そんなにです」
「それは恰好が尽きませんな・・・実は、人に考えすぎるなとよく説教をしたもので」
「人に説教したことができていないなんて、よくあることですよ」
「・・・やはり恰好がつきませんな」
「そんなもんですよ。人生そんなに考えてばかりではやっていけません。必要な時だけ考えればいいんです。とはいえ、これからはそんなに心配いらないと思いますがね。あなたが言うところの娑婆から離れたのがよかったんでしょう」
「これからってのがいつまでかはわからんもんですがね」
「せっかく楽になれたんです。また長生きに努めてもいいのでは?」
「検討しておきます」
実に彼らしい返事だった。検討時間は1秒か、それ以下か。
「それから・・・」
「まだなにか?」
「ええ。あなたの話に比べれば格段に短いでしょう?」
「痛いところをついてきますね・・・」
顔が非常によく動く男だったという記憶が間違いでなかったのを、改めて確かめることができていた。ややわざとらしい苦虫を噛み潰したような顔が私の目に映っていた。
「あなたはご自分を卑しいと考えているみたいですが、私は十分にいい奴だと思います」
「私の愚痴を聞いておいてですか?」
「というより、聞いたからこそですね」
奇妙なものを見る目を向けられていた。それこそが、なんだかんだで彼がいい奴で謙虚な証なのだ。
「仰る通り、人間に利他的な行動はできません。それで納得してしまっても誰も文句を言わないのに、そこから自己嫌悪だなんだで悩むのは、あなたが純粋に誰かを助けられたらと望んだ結果では?」
「違いますよ。自分が汚いのが嫌だっただけです」
「それを汚いと認識できたら、人間としては上々ですよ。それに、辛いと分かっていながら相談に乗り続けてもいた」
「友人を失いたくなかっただけです」
「あなたなら失っても作れるでしょう。でも、失おうとしなかった」
「そんなに大したことですかね?」
「十分大したことですよ。あとなによりも、あなたの動機がなんであれ、ご友人方があなたに救われたのは間違いないと思います。それをあなたは死を前にしてもやり遂げた。断言します。あなたはいい奴です」
照れているのか困っているのか、あるいは両方なのかどちらにしていいのかわからないのか。とにかくはっきりとしない様子が彼に会った。頼られたり感謝するのには慣れていても、褒められるのは慣れていないのかもしれない。
「お友達のあなたへの尊敬も、きっとそう簡単に消えないものになっているはずです」
「はあ・・・褒めていただけるのは嬉しいですがね、しかしそこまで思う根拠は?」
「ありません。勘です」
「勘って・・・」
困り顔が一瞬見えた気がしたが、すぐに大笑いに変わったため本当に見たのかはわからない。しわくちゃの笑顔だけが確かだった。何を笑っているのか、私にはすぐわかった。
「なるほど。まあ、先生が勘でそう仰るならそうなんでしょう」
「ええ、そうです」
「それに、そのほうが私としては都合がいい」
「そういうことです」
私は玄関に向かって歩き出した。入った来たときはひどく暗く思えた部屋が、時間的にはより暗くなっているはずなのに随分と明るいように見えた。
「待った、もう1つだけ」
「ボケがはじまってるんじゃないですか?」
「あなたと違って年相応なので、それはないかと」
「言ってくれますね」
後ろを振り向き、いつもの通りの友人と向かい合った。今更ながら、その心地よさに改めて気がついた。
「今日のお話しは人生の総括だったんですよね?それはできましたか?」
特に意識せずに出た言葉だったのだろう。一瞬目を見開いて何のことかわからないといった風を見せた。やがて自分の言ったことを思い出すと、例の笑顔で答えた。
「ええ、十二分に」
「して、その結論は?」
答えまでに間があったが、それは考えるための間ではなかった。彼お気に入りの、芝居がかった間だった。
「そうですね・・・まあ、案外悪くない人生を・・・案外悪くない生き方でやっていけた・・・ってところですかね」
「それは、なによりで」
それで終わりだった。数秒、彼の最も彼らしい顔を見つめた。それが脳にしっかりと記憶されたと感じてから、私は部屋を出た。演出でもあったかのように曇りから晴れになっている空を見ると、不思議な満足感が湧いてきた。
1階へ降りるとき、私は階段を使ってみた。疲れもなにもなかったのは、下りだったせいだろうか。
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彼の訃報が届いたのは、それから1月もしない日のことだった。
管理人があのやかましい声で呼んでも遂に反応がなかったある日、鍵を開けて入ってみる彼が眠っていたらしい。その眠りに呼吸はなく、身体も冷たくなっていたそうだが。
ベッド横のサイドテーブルにはロックグラスとウイスキーの瓶、灰皿があったという。グラスの中には黄金色の滴のいくつかを除いて、何も入っていなかったらしい。
そしてベッドの上には、彼ご自慢のイタリア製のパイプとそこから漏れ出た灰が幾らか散らばり、掛け布団を焦がしていたという。
部屋の中には未だ、あの耐えがたい臭いが残っていたとのことだ。




