癪に障る女
霊柩車の親戚である白い奴に乗るのは、初めて倒れて以来のことだった。清潔感過剰な車両に担ぎ込まれ、停車したかと思えば慌ただしく薄暗い外から同じくらい薄暗い屋内へ運ばれていき、なにやら周りで人ががちゃがちゃやっている内に気を失った。
煙草が切れそうだったため、近くのコンビニまで買いに出ていた時に胸部の痛みで倒れこんだ。昼間こそ大分暖かくなってきたが、夜は未だ冷える。暑いのはなんとも思わないが、寒いのはそれを恐ろしいと思うほど嫌いだった。特に夜の寒さは。
煙草を出そうとした。最期の一服はイタリアのビリヤードと決めていたのだが、何もないよりはマシに思えた。喫煙という行為とその快楽も重要だったが、それ以上に明かりが欲しかった。白や黄色でない、赤い明かりが恋しかったのだ。しかし情けないことに、ビニール包装を開けることすらできなかった。震えている手は私の意志に従わず暴走し続けていた。
こんなものか、と覚悟を決めた。医者の言うことも親の頼みも友人の忠言も無視して生きてきたツケが回ってきたのだ。自業自得ならば、甘んじて受け入れる以外に選択肢はない。それでも必要以上に苦しむ必要もないだろう。私は目を閉じ、全ての力を抜いて時を待った。
しかし捨てる神あれば拾う神ありというやつで、通りすがりが私を見つけて119番を押してくれたらしく、私は死に損なったというわけである。
「まあ、いい機会です。これを期にまた禁酒・禁煙なさい」
搬送先の病院の1室にて、私より一回り上の医師は顔をしかめながら言った。悪くない男なのだが、煙草嫌い酒嫌いという点で私とは絶対に相容れない存在だった。結婚しているわけでも女がいるわけでもないようで、趣味についても特に話を聞かないため、何を楽しみに生きているのか本当にわからない男だった。
「嫌ですよ」
「そう意固地になることないでしょ。辛いのはわかったはずです」
「ええ、よくわかりましたよ。やっぱり酒と煙草をやれないほうが辛いですね」
「まだそんなことを言いますか。本当に近々死んじゃいますよ」
「それなんですが、改めて思ったんですよ。死ぬの、怖くないですわ」
「そういうことを言うもんじゃありませんよ」
「じゃあ健康に生きたらせめて40までは生きられるんですか?」
「それは高望みですよ。ただ、30までなら生きられるかもしれない」
「それ、私の齢を知ってて言ってるんですよね?その程度健康に退屈に生きてなんになるんですか」
「人生なにがあるかわからないもんですよ」
「仰る通り。だからこそこれ以上不快な思いをしないように、好きなことをしてとっととおさらばするんです」
「案外楽しいことが待ってるかもしれない」
「あるいは、嫌なことが待ってるかもしれない。精神的に病んだままくたばるのは御免です」
医者はなにか言おうとして、それに対する私の答えが予想できたらしく諦めた。我々が初めて会ったときに比べれば、この問答も随分と短くなった。
「いずれにしても、ここでは許しませんからね。1週間は嫌でも健康に生きてください」
「ここにいる間に逝ったら祟りますよ?」
「なら、なおさらです」
落胆しながら医者が出ていってから、私は倒れたときにもっていた荷物などが入っているであろう収納を検めた。ハイライトのカートンはどこにもなかった。いまごろは彼の同僚や先輩の手や鞄の中に離れ離れになってあるんだろう。財布を確かめると、ほんの少し膨らんでいた。
10分待ってから部屋を出ていった。廊下には嫌煙嫌酒家はいなかった。ここで2月生活したのは1年以上前のことだが、思った以上にその中のことははっきりと覚えていた。病棟を出てすぐ右に曲がり、エレベーターに乗って1階まで降りる。その後右へ左へと進めば、死に損ないのお仲間や心配性やメンヘラで溢れたエントランスにたどり着く。全員、自分に関係のない人間のことなど気にも留めない。受付にいる連中や腰の曲がった警備員さえそうだ。パジャマを着ていれば別だが、ワイシャツ男が病院から出て行こうが行くまいが彼らにはどうでもいいことなのだ。
煙草を買って戻ってきても、誰も私を気には掛けない。念のため腰ポケットに入れて見えないようにはしたが、おそらく胸ポケットでも問題なかっただろう。エントランスの顔触れは脱走したときと大して変わっていなかった。
余裕綽々でいられたのは病棟に入るまでだった。病室の前で医者がスマホをいじりながら私を待っていた。彼は手洗いに向かうことで回避しようとした私を目ざとく見つけ、名前を呼んだ。
「どこいってたんですか?」
「ちょっと散歩に」
「出してください」
「日本語には目的語というものがあって・・・」
「早く」
私はソフトパックを彼に渡さざるを得なかった。つくづく、運がない。おそらくこのパックも彼の社交ツールとして用いられてしまうのだろう。
「それから、お客さん来てますよ。荷物とか、色々持って」
「母ですかね?」
「いえ。でも、もしかしたらお母さまより嬉しい人かもしれませんよ?」
意味深なニヤけ面を見せてから、医者は去っていった。ハイライトは早速通りすがりの看護師に渡された。
私にとって母より嬉しい人物。心当たりがないでもないが、人数はそう多くない。それに、大体はやや遠方に住んでいるためここに来ること自体そもそも不可能だ。医者の背中へ目を向けながら5秒ほどぼんやりと考えたが、答えを見てしまうのが早いことに気づき部屋へと視線を向けた。
答えは簡単だった。医者は私について、身体のこと以外はあまり知らないだけなのだった。
「なんで、君?」
「だめ?」
目の前には女がいた。背丈は私とどっこいどっこいで、髪が短い。名前のわからない落ち着いた色の長いワンピースを着ている。傍らには私の自宅にあるはずのスーツケースがあった。都会を歩く優しいお姉さんという雰囲気を醸し出しているが、実態を知っているとあまりにも不似合いに思える。
「お袋か・・・」
「うん。なんか、いまご実家にいるらしくて」
「話してたと思うんだがな・・・」
「だから、すごい謝られた」
「姉貴でいいじゃないか・・・」
「お姉さんもお仕事みたい」
「ああ、これは本当にここにいる間にくたばっちまうかもしれないな・・・」
「どういう意味?」
「不運の連続って意味」
部屋の隅にあった椅子を1つ持ってきて、彼女の側に置いた。
「ううん、すぐ帰るから」
「その方がありがたいね」
「冷たいね」
「当たり前だろ」
「・・・そうだね」
私は椅子を戻すと、ベッドに上がった。女はしばらく黙ってこちらを見ていた。何が面白いのかはわからないが、不快だった。私の思いを察したのか、少ししてからスーツケースを収納棚の側に移し、手に持っていたビニール袋を私の膝の上に置くと後ろを向いた。
「また、会いたいな」
「こっちはそうでもない」という暇も与えず、彼女は部屋を出て行った。ビニール袋の中には煙草が2つとメモが1枚。
「できれば、吸ってほしくないな」
メモを袋の中にしまった。破り捨てようと思ったが、なんとなく気が進まなかった。煙草だけは棚にしまった。
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結局病院で人生を終えることはなく、私は自宅に帰ってくることができた。玄関を開けると、1週間空けたはずだというのに、私が出ていった時以上に掃除の行き届いた部屋が眼前に広がっていた。不気味だったが、自分の右手にあるスーツケースのことを思い出して合点がいった。管理人も私とあの女については古い情報しか知らないのだ。
奥へ進むと、テーブルの上にA4の紙が1枚置いてあり、随分と文字が書いてあった。内容は、私がいない1週間の間にこの家がどうなっていたからしい。どこを掃除し、なにを買い、なにを捨てたか。購入物に関しては代金は不要である旨がはじめのほうに書いてあった。私はその紙に一通り目を通した後、丸めて屑籠に放り込んだ。
以前にも、こんなことがあった。どれくらい前かといえば、私が病院で2月至極健康に過ごしていた時期と同じ程前だ。当時と今とで違うのは、私とあの女が男女の仲にないことだろうか。
知り合ったのは入試試験会場だった。席が近かったのだ。シャーペンを忘れた彼女が方々へ当たっていって、4人目に泣きつかれたのが私だった。予備を持つ習慣があったためそれを貸した。そしてその時は、返してもらう時を最後に会うこともないと思っていた。それが間違いであったと知ったのは1年の前期。学級ごとに行われる最初で最後のグループワーク授業において、私と彼女とは同じグループとなったのだ。
いい女だ、というのが第1印象だった。小便臭さもなく、落ち着きがある。しかし周りのJK気分の抜けない連中を見下した風もなく、無難な付き合いをしていた。それだけならば、頭のいい女だったんだなと意外に思う程度に終わっていただろう。だが彼女はそれだけではなかった。驚くほどに男のあしらいかたがうまかったのだ。媚を売る風もなく、露骨な拒絶でもない。教養を感じさせる言葉で脳が下半身についている男共を唖然とさせて去っていく。煙に巻くというのはああいうことを言うのだろうと感心させられた。それを見たとき、私は彼女に惚れたのだった。
人に偉そうなこと言う割には奥手である私は、彼女になにかアピールをするだとかは終ぞしなかった。ただ、友人として振る舞い続けていたのだ。劇的な言い方をするのならば、彼女を傍で支え続け、自身の想いが叶わずとも彼女が幸せでさえあればいいと考える、ストーカー気質の友人として。告白は彼女からであった。引く手数多の中でなぜ私が選ばれたのかはわからない。居心地の良い関係を恋と勘違いしたのか、その時は心から私に惚れていたのか。確かなことは、私がそれを断るわけがなかったということだけだ。
昔を思い出したことで生じた陰鬱な気分を変えようと、荷物を片付け始めた。スーツケースを開けると、衣類、洗面具、本などに交じってビニール袋に包まれたハイライトのカートンが見えた。袋から出してテーブルへ一先ずおくと、メモが1枚落ちてきた。内容は読まずとも覚えている。無理に変わったことにした気分が戻っていく。
衣類だけ洗濯機に突っ込んで、片付けをやめた。寝室兼書斎でパイプを手に取り、葉を詰めて着火した。1週間ほとんど動いていないのだから疲れもなにもないはずなのだが、やけに癒された気がした。
口から吐き出す煙と共に嫌な気分も頭から出て行ってほしかったのだが、そううまくはいかなかった。むしろ、煙草で頭がしっかりとしてきたために余計なことを考えてしまっていた。今更どうにかなる関係でないのは痛いほどわかっているというのに、どこかで期待をしてしまうのは自分の青臭さが見えていい気分ではなかった。所詮は私も20数年しか生きたことのない若造なのだ。
パイプの中が灰だけになるころには、陰鬱さはともかく行動する気にはなることはできた。片付けをして、お茶を飲みながら本を読む。本に集中さえできれば、夕飯時には気分も回復するだろう。私は椅子から立ち上がって、スーツケースへと向かった。
紺の長方形は中途半端な片付け方をされたまま玄関からの廊下に鎮座していた。私は中身をすべて出し、軽くなった長方形をクローゼットの下段に押し込んだ。これだけで片付けの6割が終わったことに気づき、なぜこの程度のことにやる気が出なかったのか自分でも不思議になった。その疑問が、私の心が本調子に戻りつつあることを示していることにも気づくのに時間は必要なかった。この勢いを逃せば、あと3日は小物がテーブルに残り続けるだろう。私はそれを防ぐべく、全てを両手の内に1度で抱えて所定の場所に戻して回った。
日常が返ってきた。部屋が少し片付いただけだというのに、そんな感想が強く頭に浮かんだ。その感想から芽が生え、その芽は急速に成長して多数の枝葉をつけた大樹となった。葉には私の思考が書かれている。「葉巻が吸える」、「パイプが吸える」、「ワインが飲める」、「ウィスキーが飲める」、「揚げ物が食える」、「肉が食える」。小躍りしたい気分を何とか抑えたが、鼻歌が漏れ出るのは防げなかった。
出前を取ろう。そう思い立った私は、カタログの束を取り出して眺めた。寿司、ピザ、蕎麦、拉麺、様々な選択肢が私にはあった。それらの中にある写真は、SNS上のものほどにないにしても加工されていることを知っているはずであるのに、妙に美味そうに見えて食欲を誘った。
寿司にしよう。倒れた日は日本酒にしていたことを思い出したのが決定の要因だった。携帯をつかみ、カタログに書かれた数字を押した。2コールの後で、アルバイトだとすぐにわかる声が耳に届いた。
「お電話ありがとうございます。岩寿司です」
「あ、すいません出前お願いしたいんですが」
「はいありがとうございます。ご注文お願いします」
「竹を1つお願いします」
「竹1つ、かしこまりました。ご住所お願いします」
「えー、世田谷の・・・」
住所を言い切ろうとしたところで、インターホンが鳴った。ただでさえ聞こえることの多くない音を1週間以上ぶりに聞き、私は情けなくもかなり慌てた。
「すいません、あの、えっと、ちょっと来客があるようで、はい、ちょっと、ええ、お待ちいただけますか?」
「え?あ、はい」
住所だけとっとと言ってから出ればよかったのだ。それが当たり前の対応だろうし、今回の場合特にそうするべきだったのだ。
「ちょっとお待ちをー」
2度目のインターホンにさらに慌てながら、チェーンをかけて扉の向こうのいるのが誰であるかも確かめることもなく鍵を開けた。それは、ここ最近した行動の中で最も愚かなものだった。
「あ、やっぱり帰ってた。おかえり」
家の外に立つ女におかえりと言われたのはこれが初めてだった。
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「あ、すいませんさっきの注文なんですけど・・・ええ、キャンセルでお願いします・・・ええ、すいませんどうも・・・」
バイトにそう告げて電話を切った。灰皿でスタンバイしていた葉巻を拾い上げて口に運ぶと、横からライターが現れた。私はそれを無視して、自分のマッチで火をつけた。
「そんなに、嫌?」
「昔の女の火に喜ぶやつはそんないないと思うが」
「そうかな?」
「少なくとも、私は嬉しくない」
私はカタログをやや乱暴に元あった場所に押し込んだ。普段からすることではないが、そうしたかったのだ。
「やめたのに、ライターなんか持ってるのかね?」
「え・・・ああ・・・普段は持ち歩いてない。使わないから」
「でもそれを捨てはしないわけだ」
「・・・だって、せっかくもらったんだもん」
「煙草をやめた理由は、煙草嫌いの誰かさんのためだったはずだがね」
黙して俯いた女の持つライターを私は知っていた。十字とラテン語のかなり恥ずかしい言葉が彫られたそれは、私がどう思おうと死ぬまで忘れることはできないだろう。それは購入後のほんの短い間だけではあったが、私の所有物であったこともあった。その短い期間は、私が彼女への初めての贈り物としてこのライターを手渡したときに終わったのだ。当時は洒落た文句だと得意になっていたものが、いまではよくもそんなものを注文したと恥ずかしくなる。
「それでも、君にもらったものだから」
「私ならともかく、君が言うと随分と滑稽に聞こえるがね」
「・・・そうだね」
「なんだったらそれ、返してくれないか?葉巻用の・・・」
「やだ」
強い意志を感じさせる目だった。その目を一瞬だけ嬉しく思ったが、過去を思い出してその感情はすぐに失せた。
「君がそんなこといっていいのかね?」
「・・・ごめんなさい・・・でも、やだ」
ライターを握りしめる白い手の力が強くなるのが憎たらしかった。細い体が震えるのが、瞳に涙が浮かぶのが許せなかった。
彼女に手を上げなかったのは、ハイライトのおかげかもしれない。ニコチンが私の理性を強くしていたのかもしれない。いずれにしても、私が女に手を上げる自身が最も嫌悪する人種の1種になることは防がれた。
「まあ、無理に取り返そうとは思わないよ。あまり気分のいいものではないが」
「ごめんなさい・・・」
「気が向いたら、棺桶の中に入れておいてくれ。まあ、葬式に来てくれるかも私は知らんが」
「・・・行きたくない」
「そりゃあ昔の男の葬式には来づらいだろうなあ」
「違う。君のお葬式なんて開いてほしくない」
「人はいつか死ぬんだよ」
「でも早すぎるよ」
「早死する男では養ってもらえないから、他の男のところにいったのかね?」
「!?」
彼女の顔が絶望の色に染まるのを見た。青ざめた唇が震えながら否定する前に、私は言葉を発した。
「まあ、早いだ遅いだ言ったところで長生きができるわけでもない」
機先を制した私の言葉は、彼女の二の太刀を封じた。膠着ともいえる沈黙が生じた。その膠着は、私が彼女の喉元に剣をあて、彼女はそれに対しなにもできないという一方的なものであったのだが。
「・・・ご飯、まだだよね?」
「君のおかげでね」
思わぬ奇襲を仕掛けたつもりだったのだろうが、それは私にさらりと躱された。
「もしかして、訪問の要件はそれかね?」
「・・・うん。退院祝い、しようと思って」
「君にしてもらわなくとも、1人で寿司と八海山で祝ったがね」
「そんな寂しいこと、言わないでよ」
「そんな迷惑なこと、言わないでおくれよ」
「・・・そんなに嫌なんだ」
彼女の小声を聞き逃したことは、彼女と恋人になったあの日から1度だってない。彼女も意識的か無意識かは別として、聞こえるように言っているのだ。
「材料かなにか、用意してしまったんだろ?」
「え・・・あ、うん・・・2人分」
「2人分」は小声だった。
「彼は?」
「・・・出張中」
「いつまで?」
「2週間後。昨日成田を出たから」
「・・・メニューにもよるのだろうが、食の細い君が食い切れるとは思えんね」
久しぶりに彼女の明るい顔を見た。見たくなかったため、私は彼女から視線を逸らした。
「ご飯前に煙草吸ったら、食欲なくなっちゃうよ?」
「なくそうとしてるとは考えないのかね?」
「なら、なんで食べてくれるの?」
「残して、絶望のどん底に叩き落す算段かもしれない」
「君、そんなこと絶対できない人じゃん」
「相手が相手だから、わからんよ?」
一応ジョークとしてとっておくことにしたのだろう。彼女の横顔は寂しい笑顔になった。それを見て、私は葉巻の先端を赤くした。
そのエプロン姿はおばさんのナース服に萌えそうなほど、台所から漂う匂いは病院食を食べたくなるほど懐かしかった。昔は無上にうれしく、最上の幸せを感じた空間がひどく不快だった。かつては永遠に続いてほしいと願った時間が、今では一刻も早く終わってほしかった。
「ていうか、メニューはなんだね?まさかとは思うが健康に気を使ったとかそういう飯じゃないだろうね?」
「そんないじわるしないよ」
「じゃあなんだい」
「さあ?なんだろうね」
「ああ、わかったからもういい」
「ふふっ」
「どうして笑った?」
「なんか、このやり取り久しぶりだなあって」
「・・・まあ、そうだな」
向こうとは正反対に、私にはやはりうれしく思えなかった。懐かしい会話に近づかないよう努力していても、かつてお互いに本質を以て接していた2人の会話はどうしても同じになってしまう。正確には、本質の7割程度ではあったのだが。他人に自分の本質を曝け出すことができる人間がいるだろうか。いるとしたら、それはよほど危機感のない奴だろう。
「ねえ、覚えてる?」
こちらの気分などお構いなしに、楽しげな調子のまま彼女は尋ねてきた。
「日本語には目的語というものがあってだな」
「それ久しぶりにきいた」
「で、なにをだね?」
「私がここに住んでた時さ、君料理できなかったよね」
「果たしてそうだったかな」
「覚えてるでしょ?全然だったもんね」
レシピ本に書かれた「適量」や「お好み」といった文言が大嫌いだった私は、自炊については自分も母親も完全に諦めていた。そもそも家を出たきっかけが、自炊をしなくても生活できる定期収入を得たからだった。そんな私の料理の師匠がこの女なのだ。呆れられるのを覚悟で料理ができないと告白した時、彼女はむしろ嬉しそうですらあった。それから随分とみっちり仕込まれた結果、今はとりあえず一通りのものは作れるようになっている。
「いいキッチン持ってるのに料理できないっていうんだもん、びっくりしたなあ」
「使う予定がなかったから、特にこだわらずに人任せにしたんだがね」
「でも、私のおかげで無駄にならずに済んだでしょ?」
「別に今でも毎日使ってるわけじゃない」
「もったいないなあ。ちゃんとしたもの食べてる?」
「食べてるからこうやって生きてるんだろ?」
「心配だなあ・・・ていうか、ちゃんと料理覚えてるの?」
「週に何回かはするからな?」
「じゃあ、今度御馳走してよ」
「断る」
「なんでー?」
「そもそも、今度君に会うのが御免だ」
「そんなこと言わないでよ」とでも言おうとしたのだろうが、それを言える立場にないことを思い出したらしく、彼女は途中で口を動かすのをやめた。代わりに、手がより手際よく動くようになった。
「でーきた」
私の脳が満腹感を得る前に料理は完成した。随分と昔に収納場所を教えた気のする皿に盛られていたのは、オムライスだった。そして2山のうちの1つはかなりでかい。
「すごく大人っぽいのに、これが1番好きなんだもんね」
「意外性があって面白いだろ?」
「だから好きになったんだよ」
「そして、結局まるで違う男のところにいったわけだ」
いい雰囲気にしたかったのはわかっていた。しかし、それにノるつもりはさらさらなかった。何が目的なのかはわからないが、いまから昔に戻ろうとしてもうまくいかないに決まっているのだ。
「いただきます」
「召し上がれ」
ケチャップで書かれた諦めの悪いハートを容赦なく崩し、1口食べた。悔しいが美味い。スプーンを口に運ぶたびにこの女に未だ胃袋を掴まれているのを実感させられる。自炊をするのは気が向いた時だけで、昼食以外は大抵他所に食べに行くか弁当で済ませてしまっていたのも原因だろうが。
「どう?」
「私には黙秘権がある」
「それでわかったから、いいや」
「その笑顔が無性にむかつくね」
「だって、うれしいんだもん。君とまたこうやってご飯食べられて」
「他の奴と食べることを選んだのは君だったと思うがね」
「そんなことばっかり言わなくていいじゃん」
「言われてもしょうがない立場だということを自覚してもいいんじゃないか?」
頭のいい女の顔の動きというのは表現が難しい。彼女は拗ねた顔に分類される表情をして、そっぽを向き押し黙った。そこに占める割合は自責の念が大きいのかもしれないし、私を責めるところが大きいかもしれない。
「・・・美味いっていえば、慰めになるか?」
「!?・・・ほんと?」
「私のパーソナリティから判断してくれ」
自分の甘さにうんざりした。結局放っておけないし、自分が責められることに我慢できないのだ。それはなにも、理不尽さだけが理由ではない。
「しかし、ずいぶんでかいのを作ったな」
「覚えてない?初めて作った時足りないって言われたから、それからずっとその大きさだったんだよ?」
「そうだったかな」
余談であるが、私はどちらが自分の分であるかについて迷わなかった。それは彼女の食の細さを知っていたのもあるのだが。
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女が洗い物をしている間、私はベランダで夜風にあたっていた。とっととご帰宅願い、片付けの後1人で退院祝いの1杯をやろうと思っていたのだが、彼女の高度な家事スキルがそれを許さなかった。
ふと、母親のことを思い出した。もとはといえば、あれが余計なことさえしなければ彼女が家にいることもなかったはずなのだ。ポケットから携帯を取り出して、私は久々に見る番号に発信した。退院の報告も目的の1つとしてあるが、それ以上に1言文句を言わなければ気が済まなかった。
「はい、もしもし?」
「ああお母さん?私だよ」
「詐欺?」
「相変わらず用心深いようでなにより」
「どうしたの急に」
「退院したから報告をと」
「ああ、病院出れたの。よかったよかった。あの娘にちゃんと感謝しなさいよ?」
「ああ、それについて話がある」
「なによ」
「お母さん、私とあいつのことは知ってるでしょうが。なんでよりによってあいつに頼んだのさ。着替えなんて1日2日なくてもいいんだから、姉さんかその家族に頼めばいいでしょうに。なんだったら、お父さんや義兄さんでも」
「いやだって、あの娘が行きたいっていうんだもの。私だって悪いと思ったから断ったのよ?あんたとのことも聞いてたし。でも、どうしてもって言うから」
「・・・え?」
母親の言葉はあまりにも想定外であった。「1日2日っていうけど、それだけ着替えなかったら臭くなるでしょ?どうせあんた隠れて煙草吸うんだから」などと言われるのは想定していたが、そもそも前提から私と母は噛み合っていないらしかった。
「ちょっと待って。お母さんが頼んだんじゃないの?」
「ええ?・・・頼まないわよ。あんた達がどういう関係か知ってるのに。あんたあたしのことなんだと思ってるの?」
「いや、あいつはお母さんが仕事があるから頼まれたって」
「仕事があっても頼まないわよ。あんたの言う通り、お姉ちゃんもお父さんもいるのに。ていうか、あんた忘れたの?」
「なにをさ」
「あたしもう退職してるわよ」
「・・・あ」
あまりにも長く当たり前であったことが離れたところで変わると、それは失念しやすくなる。私にとって、母がオフィスカジュアルに身を包み、高校までは朝共に家を出て最寄りに分かれるのが、大学からは私より数時間早く家をでていくのが当たり前の光景だった。しかしそれは、昨年母が長く務めた会社を退職したことで過去のものとなっていたのだ。しかし平日昼間に家にいる母を私は1度も見ていない。故にそのことを完全に忘れていたのだ。
「忘れてたの?」
「いや、働いてるのがあまりにも当たり前だったから」
「まあ、お祝いもお父さんの時と一緒にやろうって言って、特にしなかったしねえ」
「えっと・・・確認だけど、お母さんが頼んだわけじゃないんだね?」
「頼まないわよ。頼む理由もないし」
「そうか・・・ありがとう。そのうちまた帰ります」
「?なんかよくわかんないけど、ちゃんとありがとうは言いなさいよ」
「気が向いたらね」
母はまだなにか言っていたが、無視して電話を切った。同時に、自分の中のなにかも千切れた気がした。
後ろを振り向くと、窓ガラスを介してエプロン姿の女が楽しそうに台所を片付けているのが見えた。その弾むような体の動きが、ひどく哀しいものに見えた。
「話がある」
食後の酒まで共に飲む気満々で、テーブルにグラスやつまみを並べていた女に私は言った。不思議なことに、彼女はなにかを期待する眼差しでそれに答えた。
「なに?」
「ちょっと、座ってくれ?」
「そんなに改まって話すことなの?」
「そういうことだ」
どんな話をされるものと想定しているのか知らないが、やけに楽しそうだった。
「で、なに?」
「なぜ私のところにきた」
「?だから退院祝いしに」
「そうじゃない。なぜ1週間前に私の病室にきた」
「言わなかった?お母さんに頼まれたの。なんか、お仕事があったみたいで。それで・・・」
「なるほど・・・退職した人間が仕事を理由に君に面倒を頼んだわけだ」
「・・・!?」
「すっかり忘れてたよ、お袋がもう働いてないの。私が知ってるあの婆さんがTHEお局だったからな」
「・・・なんか、理由があったんじゃない?私はお仕事だって聞いたよ?」
嘘の上手い奴だ。記憶違いなどのすぐばれる嘘は言わない。如何にもありそうな作り話を拵えてくる。今回の場合、無駄なのだが。
「嘘の上手さは変わってないみたいだな」
「嘘じゃない」
「お袋に確かめた上で言ってるとは思わんのか?」
「・・・」
「言っておくが、疑ったわけじゃない。恨み言の1つでもいってやろうと思ったら、偶々ね」
「・・・」
「なぜ、私のところに来た?」
彼女はなにも言わなかった。ただ無言で俯き、小さく振動する以外の動きもなかった。
「君が言わないなら、私が言ってやろうか?」
腹が立っているのを隠すつもりはなかった。
「振られたんだろ」
明らかに動揺していた。
「私を捨ててまで選んだ男に、君は振られたんだ。献身的で、盲目的に君を愛した男を時期に死ぬから将来性がないとみて捨てた君は、将来性のあるやつから結局捨てられたんだ。そして慰めが欲しくなってこの死に損ないのところに来たんだ。この馬鹿ならばまだ自分を愛してると思ったんだろう。そう思うのも無理はないくらい、私は君に熱を上げてたしな」
意識していなくとも、むしろ抑えようとしているのに、声は強く早くなっていった。理性が失われていく。
忘れていたわけではないが、触れないように脳の奥にしまっていた記憶が収納から這い出して来る。私が初めて倒れた時のことを。自らの死が近いと知った日からのことを。死への恐怖を思い出したのではない。その後に訪れた裏切りを思い出したのだ。初めの1週間は不自然なほどに頻繁に私のもとを訪れた彼女が、徐々に、遂には全く私に顔を見せなくなったことを。その理由を知った時のことを。私が少しでも長い時間を彼女と過ごすべく、それまでの自分を否定して健康になろうとした日々のことを。そしてそれに対する彼女の行いを。彼女が突然私に明かした裏切りを思い出していたのだ。
病院に拘束され会えなくなった寂しさと、私がこの世から消える恐怖。それが裏切りを起こしたと彼女は言った。職場の先輩だとかいうどこの馬の骨とも知れない男に体を許し、心までも渡したことを告げられた時のことだ。その時の彼女には、もはやあの日の面影はなかった。目の前に立っていたのは下らない男を袖にする美しい女ではなく、寂しさを男で紛らわそうとする醜い雌だった。
這い出る記憶が憎悪へと変わっていく。普段の自分が消滅していくような不思議な感覚があった。
「それに、私が死んだら多少の金が遺る。それを自分の取り分にするにはちょうどいい頃合いと思ったんだろう?私が倒れたところにやってくれば、死を前に怯えた私が君に泣きつくと思ったんだろう?あとは適当に優しくしてやれば、遺言書に君の名前が書きこまれるってわけだ。その金でパア―っとやるもよし、新しい男を釣るもよし。色々できるしな」
涙を暴言に変換するのに精一杯で、自分でも何を言っているのか半分は理解していなかった。
「悪いが、それなりに頭のいいほうだという自負が私にもある。君がここに来た理由に気づかずとも、君と寄りを戻す気はない。君がどう思っているかは知らないし興味もないが、私はそこまで馬鹿ではない」
「そんなこと・・・思ってない・・・」
「泣きたいのはこっちなんだがね。惚れた女に2度も騙されたわけなんだから」
「そんなこと・・・言わないでよ・・・」
「なんで言ってるかを理解してくれないか?」
この女の泣き顔を見たいと思ったことは1度もない。それは今だって変わらない。違うのはその動機だ。動機だけは正反対だった。
「泣くのは君の自由だ。私にそれをやめさせる権利はない。ただ、私の家で泣くことを許さない権利はもっているはずだ」
「泣いて・・・ない」
「泣いているだろう」
「泣いてない・・・だから、追い出さないで」
「私の意図がわかってるなら、我儘はやめてくれないかね」
「お願い・・・」
「生憎、今は男に捨てられた哀れな女に優しくしてやる余裕はない」
もしこの女でなければ、話を聞いてやったのだろう。慰めと励ましの言葉をかけ、必要ならば抱き締めて頭を撫でてやったかもしれない。しかし、目の前にいるのは因縁の女なのだ。病に倒れた私を置いて、他の男の下へといった女なのだ。
「泣きつくならほかの男にしてくれ。とりあえず、ここからは出て行っていくれ」
「ちがうの・・・」
彼女が何を言ったかなど聞いていなかった。言い訳も嘘も聞きたくなかった。
「わかった、頼むのはやめよう。出ていけ」
「お願い聞いて・・・!」
「断る。出ていけ」
「なんで!?」
「出ていけ!」
私は自身が最も嫌悪する人種の仲間入りをした。彼女の腕を掴み、強引に立たせて玄関へと引っ張った。もし起きているなら、お隣はさぞ驚いているだろう。私の部屋から女の泣き叫ぶ声が聞こえてくることなど、頭に浮かんだことすらないはずだ。
「嫌!嫌だ!離して!」
死に損ないにも細身の女を引きずるくらいの力はある。私は彼女を玄関まで連れて行った。
「違うの!お願い聞いて!」
聞きたくもない。
「君が考えてるようなのじゃないの!」
嘘はもういらない。
「振られたんじゃないの!逆!逆なの!」
今日聞いた中で1番出来の悪い嘘だった。だというのに、私の身体は止まった。
「逆?嘘にしては・・・」
「プロポーズされたの!」
私の思考も止まった。
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「煙草、くれない?」
「やめたんじゃなかったのか?」
「うん・・・でも、君の前だから」
正面に座る女にハイライトを差し出した。煙草をしばらく味わっていない体にはきついかとも思ったが、それ以外になかった。
「きついよ、ハイライトは」
「わかってるが、他にない」
「軽い煙草吸わないもんね、君」
パックから1本取り出して、彼女はライダーで火をつけた。身に染みついたものは多少のブランクで拭えるものではない。手の動きは一切のぎこちなさを持たず、滑らかかつ艶やかだった。
「結構、いけるね」
「はじめてだったか?」
「8mmまでしか吸ったことない」
先ほどまでのやり取りが嘘のように、我々の会話は落ち着いていた。それは必ずしもお互いの感情の変化を表してはいなかったが、ともかく興奮はなかった。
「それで、プロポーズというのは?」
本題を切り出すと、女の顔にやや感情が現れた。彼女は質問に答えることを拒むはずはないのだが、顔は答えが好ましいものではないことを示していた。
「君が入院する、1週間くらい前だったかな・・・結婚しようって言われて」
「結構なことじゃないか」
「それ、本気で言ってる?」
「どうだろうな」
「そう・・・でも、なんか決心がつかなくて、待ってもらってたの」
勢いで結婚をするタイプでないことは、彼女の今の男よりは知っているつもりだ。
「それでずっと保留してたら、昨日遂に言われちゃって・・・」
「帰ってきたら答えを聞かせて、か?」
「・・・そう」
「それが、今日ここにきた理由と関りがあるとは思えんがね」
ハイライトの先が赤くなり、色気のある唇から煙が漏れた。久しぶりに懐かしいものを不快感なしに見ることができた。
「まず、入院したときに荷物を届けにきたのはね・・・君への未練を断ち切りたかったから」
「・・・未練があるのかね?」
「だって、相手が君だもん」
「誉め言葉として受け取っておくよ」
「誉め言葉だもん」
「・・・それで、断ち切れたかね?」
女は2秒苦しい顔のまま硬直してから、急に力なく自嘲気味に笑った。
「だめ。さっきの君じゃないけどさ、その時は今更元には戻れないってわかってたよ?でも、やっぱり君が好きだった。なんであんな馬鹿なことしたのか、わからなくなった」
頭を抱えるくらいには複雑な気分だった。相反する2つの感想が無理矢理頭の中で混ざり合っていた。
「でもやっぱり、わかってたの。もう君とは過ごせないって。君がそんなこと許してくれるはずないって・・・昨日までは」
「再プロポーズがきっかけか?」
「・・・うん。先輩はいい人だよ。こんな私のことすごい愛してくれてる・・・でも、やっぱり君が忘れられなくて。成田で答えを聞かせてって言われたとき、君の顔が浮かんじゃって・・・ひどい女だよね」
「ひどい女なのは否定しないが、まあよく聞く話だよ」
「やっぱり、否定してくれないかあ」
「寂しいだなんだで私を捨てて置きながら、今更になってだからね。彼氏殿にも同情するよ」
「・・・そうだよね」
「それで昨日まではということは、いまはわかってないわけだ」
「うん・・・もちろん、あわよくばーとは思ってるけど・・・でもせめて、最後に1度だけでも君と恋人に戻れないかなって・・・結局、失敗しちゃったけど」
「本当にひどい女だ」
絵画にするならば、いい顔だった。憂いを帯びた美しい顔がさぞ評価されたであろう。ただしその憂いは多分に自分勝手だ。
「ねえ、ほんとにだめかな?」
「なにがだ?」
「わかるでしょ?」
「わかりたくないんだ」
「・・・もう1度だけ、私を愛してくれない?」
女は縋りつき、懇願していた。その姿は儚く可憐で、後にも先にもこんなに美しいものは見ないだろうと確信できるものだった。
受け容れようとしている自分がいた。彼女を抱き締め、キスをし、「おかえり」と言いたくなっている私がいた。彼女がいかなる理由で私を思い出したのかは知らない。もしかしたらそれは愛ではなく、出張に出て行った男の稼ぎと私の遺産を比べた結果なのかもしれない。あるいは、死に行くかつての恋人の下に戻る悲恋に憧れただけなのかもしれない。それでも、彼女は私が焼かれるまではこの部屋にいてくれるであろう。私と共に生きてくれるだろう。私を看取ってくれるだろう。そしてその後のことは、この世の者ではない私には関係のないことなのだ。それに彼女が本当に私への愛を取り戻した可能性も0ではないのだ。
私の倫理に、それまでの生き方に反することだった。最後の最後で、私という人間を否定する決断だった。それでも、少なくとも幸せになれるだろう。愛されていると感じることができるだろう。私が私のままでいる限り、もう手に入ることのないものを得ることができるだろう。
「ねえ、どう?」
彼女が近寄ってくる。
「お願い、答えて」
私の胸に手を置いた。温かい手だった。
「あなたを愛してる」
胸元の手を取った。その途端目に光が、口元に歓喜が生じるのが見えた。彼女が、すべてが叶ったことを確信したのがわかった。その頭には、私が死ぬまで如何にしてともに過ごすかがものすごい速度で設計されているのだろう。それはどう私をあしらうかであるかもしれないし、遺言書を書かせるまでであるかもしれない。それとも、多分に希望的観測ではあるが、幸せな短い人生設計かもしれない。
私は彼女の手を胸から離し、それを取った手からも離した。
「出て行ってくれ」
「・・・え?」
「部屋の手入れ、面倒をかけたね」
「・・・やっぱり、駄目なの?」
「オムライス、ありがとう。美味かった」
「どうしても許してくれないの?」
「最後に会えて良かった」
「もう愛してくれないの・・・?」
「葬式にもこなくていい。金がかかるし、手間になるだけだ」
「そんな話したくない。ねえ、私じゃもうだめなの?」
「お幸せにな」
「やだ・・・やだやだやだ!」
女は私に飛びつこうとした。強引にでもしがみつき、私のものになろうとした。それを受け止める正直さがあれば、どれだけよかっただろうか。
女に手を上げるのは人生2度目だった。私の胸を目指した彼女は反対方向へと飛び、バランスを崩してしりもちをついた。目からは光が消え、口元には恐怖と絶望があった。全てが終わったことを確信したのがわかった。頭の中は思い描いていたものがすべて崩れ去り、ただただ真っ白になっているのだろう。
光を失った目から涙が溢れ出る。その涙を見せまいとするかのように、女は部屋を飛び出していった。声を上げて泣くようなことはなかった。去り際には、ただ足音と乾いたドアの開閉音がするだけだった。
その場にへたり込み、自分の目が死んでいることになんとなく気付いたのは少し経ってからのことだった。
ひどく疲れていた。意識的に、あるいは全くの無意識のうちに感情に纏わせていた鎧が剥がれていくのを感じていた。
私は彼女を憎いと思っていたのか?彼女の明るい顔を見たくなかったのか?度々感じた懐かしさの中にあったのは不快感だけあったのか?
確かに憎かった。確かに顔を見たくなかった。確かに不快だった。しかしそれは、彼女を未だに愛している私の青さ故のことであった。彼女は私を思い出したのかもしれない。しかし私は、彼女を忘れたことはなかった。
もう1度愛されたかった。もう1度共に過ごしたかった。最期を看取ってほしかった。しかしそれが叶った時、いままでの私は否定され、「私」は彼女に愛されていなかったと認めることになる。あるいは、彼女を失望させる結果となっただろう。不器用な私には、一時的な人間性の切り替えなどできない。
いや、私のことなど最悪どうでもいいことだ。私がどうなろうと、彼女が幸せでありさえすればいい。彼女が他の男の下へいったことも、今はそこまで気にしてない。彼女を嫌っている振りも、うんざりしている振りも、全ては彼女が私を嫌悪するため。彼女が私の下を離れたことを後悔しないため。近いうちに死ぬことの決まった人間の近くで過ごし、長い時間を1人で悲しむことがないように、死ぬ時を同じにできる人間との時間を心からよかったと思えるようにするため。
彼女が心変わりを起こした理由がなんであろうと、今から私と過ごした先には碌なことがない。金が目当てならば、それが彼女を堕落させるだろう。より多くの富欲しさに不幸の沼へと沈んでいくことになるだろう。悲恋に憧れたのならば、中毒となり多くの男に悲劇を求めるだろう。そして本当に愛していたのならば・・・これは自意識過剰かもしれない。いずれにしても、死に損ないは忘れられるか思い出として残るに留まるべきだ。
体を動かせる気がせず、床にへたったまま一切の筋肉を動かさずにいた。なにも望んでいなかった。ほとんど考えてすらいなかった。人間に電源スイッチがあるならそれを切ってしまいたかった。
望みが叶ったのはしばらく経ってからだった。再び電源が入った時、私の時計は30時間ほどずれていた。