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強い友人

 金曜日の夜、私は夕食を済まし、パイプを吹かして今夜の酒を考えていた。

 このところ、日本酒が多かった。しばらくスピリッツの強烈な刺激を味わっていない。しかしその一方で、父親が送ってくれたシェリーが気になってもいた。棚の中にはまだまだ酒は豊富にある。

 以前医者に、飲んで死の不安を紛らわしているならやめたほうがいいと言われたことがある。死への不安はないでもないが、それと酒は関係ないからやめなくていいなと私は答えた。無論、医者はそれでもやめろと言ったのだが。酒はただの人生の楽しみだ。それがなければ随分とつまらない余生になっているだろう。もし恐怖を紛らわすためだというのならば、それは人生がつまらなくなることへの恐怖に対するものだ。

 シェリーに決めた。私は台所の棚の1つを開け、麗しい瓶の1つを取り出した。グラスを選び、冷蔵庫からはチーズを取り出した。パイプを自室に戻して、葉巻と交換してきた。もちろん、ロメオ・イ・フリエタだ。シャンソンを流すようなことはしない。音楽は「Pack up your troubles in old kit bag」だ。死ぬのがなんだ、死ぬまでに棚の酒と箱の葉巻を消費しつくすことができれば本望だ。

 飲むから前発生する不思議な酔いを楽しみながら一通りの支度を済まして席に着くと、不粋な携帯がステレオから流れる曲と同じものをかなりずれて流し始めた。それはもうしばらく使われていない、携帯そのものの持つ通話機能がご無沙汰な仕事をしているのを示していた。

 画面には番号だけが出ている。見覚えがないように思えたが、そもそも人の携帯番号など覚えていない。それは知り合いかもしれないし、間違い電話かもしれない。この時間にセールスということはないだろう。出るのを迷っていた。もしかしたらこれは火急のもう向きかもしれない。もちろんかつての勤め先や顔もしれない親戚の臨終ならば知ったことではない。臨終についていえば、2親等までならどのみち逝く先で会えるのだから通夜と告別式で挨拶をすませればいい。しかし、もしかしたらこれは1親等のことかもしれない。あるいは、2親等ながら例外的に見捨てられない姉や姪のことかもしれない。未だに割り切れないのはなんとも嫌なものであった。

 不協和音に我慢できなかったこともあり、電話を取った。シェリーを1口も飲んでいない内のことだった。


「もしもし」

「ああ、俺だ俺」

「さよなら」

「おい待てよ、待てって」

「夜中に突然電話をかけてきて、上機嫌でオレオレ詐欺するやつなんぞ私の知り合いにいない」

「いるだろ1人、陽気でご機嫌な酔っ払いが。それも知り合いじゃなくて大親友が」

「陽気でご機嫌で大迷惑で、畜生で人のことなぞまるで考えないダメ人間なら1人心当たりがある。そしてそいつは知り合いでなく向こうが勝手に絡んでくるだけだ」

「随分とひでえ言いようじゃねえか。くたばる前に楽しい思い出作ってやろうって気のいいやつ相手によ」

「なかったことにしたい苦い思い出の間違いじゃねえのか?」

「相変わらずのツンデレだなあ。まあいいや、お前がどんなに嫌がっても邪魔させてもらうからな」

「不法侵入で通報していいか?」

「葬式でお前のあることないこと騒ぎ立てていいならな」

「つまみだされるぞ?」

「そんときゃ信長よろしく焼香ぶちまけてから出ていくよ」

「相変わらずだな。しかし、なんで急に」

「近くを通ったのが1つ、カクテルを飲みたくなったのが1つ、お前がもうすぐくたばるのを思い出したのが1つ。こんなところだ」

「つまりなんだ?夜中の人の家に相手の都合も考えず酔っぱらって押しかけて、カクテルを作ることを要求するわけだ」

「どうせ暇だろ?」

「私が1人でゆっくり呑んでるとは考えないのか?」

「相変わらず寂しいことしてんなあ。酒は人と騒ぎながら呑むに限るぜ」

「夜中にマンションで騒ごうとするな」

「いいじゃねえか、いままでに苦情がきたわけでもあるまいし」

「お前は覚えてないだろうが、何度か来てるんだよ」

「あー!あー!知らない知らない。とりあえず、今から邪魔するからな」


 電話が無遠慮に切れた。もはや今晩、無給のバーテンバイトをすることからは逃れられそうにない。私は潔く諦めて棚からシェイカーとミキシンググラスと諸々、そして今日飲むつもりのなかったスピリッツやリキュールやらを持ち出した。カクテルを作るのはしばらくぶりだった。一時ずいぶんと熱を上げたものだが、余命宣告のごたごたから作らなくなっていた。

 冷蔵庫からレモン、ライム、グレープフルーツ、そしてパイナップルのジュースを出したとき、テーブルの上で所在なさげにしているシェリーとグラスを見つけた。酔っ払いの奇襲がたまらなく嫌になった私は、ジュース類を台所に放ってから、本来呑むはずであった美酒を一杯だけ注ぎ、急いで片づけた。他人のことなど考えない、自分勝手でむかつく酔っ払いには1口でもやるつもりはなかった。


--------------------------------------


 彼と知り合ったのは大学だった。最初から仲が良かったわけではない。きっかけははじめてのレポート作成とそれに伴う調査報告だった。少し変わったやつ程度に思っていた彼が、フランス革命における下級ブルジョワジーについて詳細かつ大胆な発表をしたとき、私は彼という人間に呑まれた。大して自慢にもならない中堅大学にも大したやつはいるもんだと随分と驚かされた記憶は今でも鮮明に残っている。

 発表後に誰も質問を挙げない中で、私だけが手を上げた。ブルジョワに対する下層階級の思想について疑問が残っていた。そこから我々の腐れ縁がはじまった。1月後にはそいつが酒呑みであるとしり、それから半月でろくでなしであることを知った。素面である内はこの上なく素晴らしい学業の徒である彼は、アルコールを摂取した途端愚痴と学術的な管を巻き始めるどうしようないやつであると発覚したのだ。初めて飲んだ時以来、毎度彼に飲み代を貸し、そして私より少し高くて大分重い体を抱えて家まで連れて行った。

 しかしこのろくでなしは不思議なもので、誘われると後で後悔するとわかっていながら断れないのだ。断れない雰囲気を作るとか、無理やり引っ張っていくわけではない。なんだかんだ言いながら自発的に受けてしまうのだ。それは彼の巻く管のためかもしれないし、酔った時に出てくる本音を聞きたいためかもしれない。いずれにしても、飲んでる最中はこれほど楽しい男はいなかった。繰り返すが、飲んだ後がなにかと面倒なのだが。




 腕試しに1杯作ってみた。酔っ払いには遠慮がない。前のほうが美味かったやら、腕が落ちただの言われるのは癪に障る。ラム、ライム、コーラを注いで、およそ半年ぶりのビルドをした。1口飲んでみると、それはクバ・リブレ以外のなにものでもなかった。上質なや、低級なといった形容詞の一切つかない、ただのクバ・リブレだった。どうやら勘は失っていないらしい。

 葉巻を追加でもってきた。箱ごとではなく、2本だけ。奴さんにやる分はないし、必要でなかった。中々に稼げる仕事をしている奴は、おそらくうまいハバノスをいつもどおり懐に忍ばせているだろう。私と奴はキャンパスでもパイプと葉巻の紫煙を共に吹かしていたため、喫煙所の主と呼ばれていた。あの頃は煙草を分け合うこともあったが、今はその必要がない。

 クバ・リブレを半分ほど飲み、葉巻を吸いつくしたころ、遂に酔っ払いは現れた。ドアチャイムが連続で5回鳴らされ、2秒後にさらに連続3回、私が玄関にたどり着いた時には、真っ赤になっているであろう拳が数えるのもうんざりするほど扉に叩きつけられていた。


「そんなにチャイムを鳴らすな、そして戸を叩くな。1回鳴らせばわかる」

「でも、お前ずいぶん遅かったじゃないか」

「お前の感覚が酒でおかしくなってるだけだ。それと、せっかく思い出したことを忘れてるようだからいっておくが、私はもうすぐくたばる病人なんだ」

「病人の住む部屋にしては、ずいぶん煙草くせえがな」

「文句をいうなら入ってくるな」

「文句なって誰も言ってないだろ。素敵な臭いのするお部屋ですねって、褒めたんだよ」


 洒落たジャケットと帽子が嫌らしく見えるほど肥えた酔っ払いは、ハリウッド黄金時代の作品に出てくるような太い指を備えた分厚い手で私の肩をつかみ、それを支えに部屋の中へと入ってきた。巨体には力が入っておらず、平衡感覚も失いかけていたため、床に頭から倒れないようにするためには多少の苦労が必要だった。奴とすれ違う時、強烈な酒と煙草、そしてきつい香水の匂いが私の鼻を襲った。女のところにいった後にわざわざ男のところに来るような奴だとは知らなかった。

 壁に手をつきながら廊下を進む奴に手を貸すこともなく、千鳥足のせいで乱れた玄関を簡単に整えたあとは靴箱に寄りかかったまま酔っ払いを観察していた。

 最後に会った時から1年か2年経っているが、それからさらに太ったようだった。身なりには前より金がかかっている。その代わりに上品さは失われた。頑なな懐中時計派だったというのに、えらく派手な腕時計を身に着けている。散財が好きな奴であったのは間違いないが、買うもののセンスがいいという面がかつてはあった。声、口調、吐き出される言葉、そういったものに変化がないのに外面だけえらく変わっている彼を少し警戒した。ついでに言うならば、短時間だけにしてもかなり嫌悪もした。

 巨体は私が先ほどまで座っていた椅子に全体重を以てのしかかった。それが実際にしたのか、あるいはただ単にそういう風に思えただけなのか、木の悲鳴が聞こえた気がした。椅子にとっては、今までで1番重い荷物だろう。気の毒に。


「チェイサーを用意しとくなんて気が利くじゃねえか」


 そういいながら、巨体はクバ・リブレを一息に飲み干した。


「それは酒だ」

「これがあ?ただのコーラじゃねえか」

「ラムとコーラ、それと少しのライムだ。ほら」


 私は奴にソーダのペットボトルを投げつけた。それは赤ら顔に命中し、若干のダメージを与えた。


「こんなに接客態度の悪いバーはねえな」

「ここはバーじゃない。ホスピスだよ」

「ホスピスで煙草が吸えるかよ」


 奴は苦戦の末にペットボトルの蓋を取ると、そのままラッパ飲みした。必死ではあったが、自分の意志でそうしているというよりも脳の命令に従っているというような感じだった。

 3分の1まで飲んだところで、強炭酸に耐えられなくなった喉が口にペットボトルから離れるよう求めた。酷使されている肺は必死に、突然訪れた繁忙期を乗り切ろうと躍起になった。

 

「これ、炭酸きつくねえか?」

「一気飲みしようとするお前が悪い」

「体が水分を求めてるんだ、仕方ねえだろ」


 悪態をついたあと、奴は再びペットボトルに口をつけた。今度ははっきりとした意思があった。自分の意思を以て、一気飲みを試みた。そして案の定失敗し、前よりも飲めぬうちに咽た。咽たついでに、少量反吐をついた。それはやつのズボンと今日ハウスクリーニングに綺麗にしてもらったばかりの床にへばりついた。


「やりやがったな」

「酔っ払いのしたことだ。許せ」

「謝る気はないのか?」

「ふひひサーセン」


 棒読みの謝罪の後、奴は床をすぐ手元にあるティッシュで拭くこともせずによろよろと立ち上がり、ペットボトル片手に手洗いへと向かった。私は反吐をよけてオーディオに進み、エラ・フィッツジェラルドの声で「明るくなれよ」とそいつを黙らせた。無機物なりの配慮を素直に受け取るほど優しい気分にはなれそうもない。

 反吐の所有者は戻ってくると、幾分かマシになった足取りで自分の所有物を回避し、元の場所へ戻った。その時気付いたのだが、椅子もほんの少しだけ汚れていた。とことん運のない日であるらしい。


「後始末くらいしろ」


 モップ、洗剤、ボロ切れ、バケツを奴に押し出しながら言った。


「俺は客だぞ?」

「無理矢理かけてきた上に反吐で私の家を汚したやつを客として扱うわけないだろ」

「酔ってるんだ、体がうまく動かん」

「少しはマシになったはずだ。早くやれ」


 台所に下がった私の後ろ姿を見たためか、奴は観念して掃除をはじめた。動くまでが長いだけで、動けばかなり手際がいいため、私が新しい葉巻に火をつけ、2杯のギムレットを作る間に床はとりあえず外面については元に戻っていた。


「ほらよ」


 「お疲れ」と反射的に言いかけて、私は口を閉ざした。自業自得なのだから相応しくない言葉だ。バケツの中のものの処理から戻ってきた奴は、今度は先ほどまで汚れていた場所を思いっきり踏んでギムレットに飛びついた。


「なんだかんだで優しいツンデレさんなんだからなあ。いやあ、ありがてえありがてえ。お前のそういうとこ、好きだよ」

「お前に好かれても大して嬉しくないがな」

「ツンツンするねえ」


 多めの1口を体にいれると、奴の顔はまた酔っ払いのそれに変わった。酒に恍惚な笑みを見せる危ない顔だ。


「ギムレットか、わかってるじゃねえか」

「それ飲んでとっとと寝ろ」

「そういうわけにはいかねえなあ。腕が鈍ってるなんてこともねえようだし、もっと飲まねえと」

「頼むからもう吐くなよ?」

「わかってる、わかってるよ」

「そういうときのお前が1番信用ならん」


 心からの言葉だった。


「大丈夫だって。それに、もしもの時はバケツもあるしな」

「もしもが起きないように今すぐ寝てくれないか?」

「いや、大分醒めちまってるから、飲みなおさねえととてもじゃないが眠れん」


 グラスをあっという間に空にすると、奴はバラライカを注文した。私のギムレットはまだ大分残っていた。


-----------------------------------------

 ギムレット、バラライカ、アメリカーノ、マンハッタン、・・・次々と酒を作った。いくらかは私も飲んだが、ほとんど作るのは1杯だけだった。「少し」酔いの醒めたことで調子に乗ったのか、奴が注文するペースはかなり早かった。そしてそれは徐々に加速していったのだから恐ろしい。ロングドリンクをやってみもしたが、「軽い軽い」と言いながらショートドリンクと大差ないかあるいはそれ以上の速さで飲み干してしまった。自分の酒を作る余裕こそあっても、私にはそれを飲む時間がなかったのだ。

 いくら酒につよいやつとは言え、スピリッツを使うカクテルを何杯も飲めば泥酔する。それに、奴は一度酔った身なのだ。とっとと寝てくれれば楽なのだが、やつは陽気に騒ぎ続けるばかりで眠る気配すらなかった。


「おーい!次はまだかあ!」

「もうねえよ」

「ケチくせえこと言ってねえでえ・・・もっと寄越せよお!」

「また反吐つかれても困るんだよ」

「俺を誰だと思ってんだあ、俺はあなあ!天下のなあ!」

「わかってるよ。そんな天下なんて名乗れるやつじゃねえってな」


 突然、奴は静かになった。それは明らかに私の言葉に反応してのことであった。どうやら、まずいことを言ったらしい。手にあるグラスが細かく震えているのが、瞳から輝きが消えたのが、大きく開いていた口が堅く結ばれたのが見えた。動揺というのは、奴に全く似合わない言葉であるはずなのだが。


「んな・・・わか・・・」


 小声で何かをつぶやいた。しかしその声はあまりにも小さく、聞き取ることはできなかった。


「んなこたあわかってんだよ!」


 突然テーブルに巨大な握り拳をぶつけて奴は吠えた。それはあまりにも大きく、聞き逃しようない声だった。やつの怒号を聞くのは初めてだったため、私は思わず葉巻を口から落とした。


「俺だってわかってるんだよ!てめえが大した人間じゃないってことくらい!俺の書くもんなんて、所詮は需要で売れてるんだってことくらいよ!」

「おい、落ち着け。近所迷惑になるだろ」

「んあことしるかよ!」


 制止にいった私を払いのけ、やつはこれまでに1度も見せたことのない恐ろしい顔を向けた。私の体は暴力を恐れて硬直した。奴は今にもこちらに飛びかかり、その拳で私の顔が粉々になるまで殴ったとしても全く不思議でない状況の中にあり、そしてそんな顔をしていたのだ。

 しかしそうはならなかった。その代わりに恐ろしい形相の顔のなかでもとりわけて恐ろしい目から涙が溢れ出し、それをすぐに伏せてしまった。怒号が続くことはなく、哀れな嗚咽が太い腕の間から聞こえてくるばかりだった。


「俺だって・・・俺だってもっと書きたいもんがあるんだよお・・・俺だって・・・俺だって・・・」


 その嘆きは、まるで洪水のようだった。堪えて、堪えて、堪え続けてきたものが限界に達したときにダムを突き破って溢れてきた洪水を連想させた。ダムの決壊しなかった部分が、未だ水流を食い止めているのもらしさを増していた。そのダムとはプライドなのか、信念なのか、諦めなのかはわからないが、強固だが致命的な弱点を持ったものであると想像するのは容易だった。

 奴はしばらく声を抑えて泣いた。悲鳴が口から飛び出るのを必死に防ぎながら泣いた。そして私が道具やグラスを片付けている間に眠りに落ちた。




「はい、もしもし?」


 それはすぐ近くで眠っている酔っ払いのもの以上に、そして覚えているのも不思議なほど懐かしい声だった。


「あ、夜分遅くにすいません。あのー・・・」


 私は自分の名を名乗った。電話越しの女は少し時間をかけて記憶を手繰り、なんとか私を思い出した。


「・・・ああ!主人のお友達の」

「あ、そうですそうです。覚えていてくださったんですね」


 奴のかみさんとは何度か会ったことがあった。といっても、奴の「かみさん」としてあったのは結婚式が最初で最後なのだが。大学時代、即ち未だ彼女であった頃に奴に紹介されて知り合い、それから何度か話す機会があった。落ち着きと教養のある今時珍しい女だったように記憶している。そして電話から聞こえてくる声と言葉は、私の記憶が正しいことの証明となっていた。


「ええ。それに、主人がよくあなたの話をするものですから」

「それはそれは・・・果たしてどんなことを言われているのやら」

「いえ、いつも褒めてるんですよ。それで、今晩はどうしたんですか?」

「ああ、そのご主人についてなんですが・・・」


 私は彼女に状況を説明した。奴がここにくることになったきっかけと来てからの経緯を、妻として知っておくべきことについてはすべて話した。妻として夫を恥に思うであろうことをあえて話すようなことはしなかった。


「それは大変なご迷惑を・・・」

「いえいえ、僕もどこかで止めて差し上げられればよかったんですが・・・」

「でも、主人はお酒が入ると箍が外れてしまいますから、それは中々難しいでしょう。主人に代わりまして、謝罪いたします」

「いえ、どうかお気になさらず・・・ところでなのですが」

「はい?」

「こういったことに立ち入るのが失礼であるとは承知しているのですが・・・ご主人、お仕事についてなにか奥様にお話ししていませんかね?」


 図星の一息が漏れるのが聞こえた。どうやら、奴の怒号と涙はやはり仕事に関係しているらしい。

 奴は作家をしている。それも、そこそこに売れている作家だ。大学時代にライトノベルで一旗上げて、今では普通の小説を何本か書くようにもなっていた。この家の寝室の本棚にも何冊かいくらか前の奴の本がある。

 いつだったか、一緒に飲んでいた時に、奴が作家なんかになるんじゃなかったと漏らしたのを聞いたことがある。今までそれを酔った勢いの戯言と解釈してきたが、改めて考えてみると奴の作品に違和感を感じ始めて買わなくなったのもその頃だった。

 奴は元々、現代的な価値観に疑問を投げかけ、大衆の望むストーリーやキャラクターを全否定するアウトローな作家だった。私はそのアウトローさがたまらなく好きだったし、デビュー当初は珍しさもあったかなり受けていた。常識を覆す異色の作家として脚光を浴びたやつはかなりの名声を得ていた。

 祇園精舎のなんとやらではないが、一時こそ人気絶頂だったものの、そうした作品は徐々に書店から姿を消していった。奴の作品を書店で見なかったこと時期も短いながら存在した。その間も連絡は取り続けていたおり、時折酒を共に飲むこともあったのが、だからこそ私は奴に起きていた変化に気付かなかったのかもしれない。いつ出会っても奴には変化がないように見えていたのだ。

 突然やつの人気は回復した。しばらくの休養期間を挟んで出した作品が大受けしたのだ。どこの本屋にいっても、目立つところにやつの作品があった。しかしそれは、私にとって忌々しいものあった。作風が変わったのだ。大好きだったアウトローさは完全に消えたわけではなかったが、小悪党程度のものに成り下がっていた。ストーリーもキャラクターもありきたりに手を加えた形になり、売れるために需要に媚を売っているのがわかってしまったのだ。それ以降、奴の本は買っていない。

 私はそれでもやつとの交際は続けた。作風は変わったが、奴という人間は相変わらずであるように思っていたのだ。それはどうやら、わたしの見当違いであったらしい。


「やはり、なにかありますか?」


 私はかみさんに尋ねた。


「・・・作家をやめたいというようになりました」

「やはり、作風についてですか?」

「詳しいことはわかりません。あまり、仕事の話をしたがらない人ですから・・・ただ、休養が終わった後くらいから、自分の本を家に置かないようになりました。連作を書かないから必要ないんだとは言っていましたが、それまでは出版社さんからもらって1冊置いておくのが普通だったのに・・・」


 置きたくないに決まっている。書きたくないものを、ずっと嫌悪していたものを書かざるを得なかったのだ。その存在すら否定したいだろう。


「そうですか・・・すいません、余計な詮索をいたしまして」

「いえ、主人とご友人ですから」

「そういっていただけると幸いです」

「あの、いまからそちらにタクシーをお送りいたしましょうか?主人体が大きいですから、お邪魔でしょう」

「いえいえ、ご心配には及びません。独り者ですから、家に余分なスペースはいくらでもありますので。それに自分の非力を認めるようで恥ずかしいのですが、私ではご主人をタクシーまで連れていけませんので」

「ああ・・・しかし・・・」

「どうかお気になさらないでください。とりあえず今晩はご主人をこちらでお預かりいたします。目が覚めましたらお帰りになるようお伝えいたしますから」

「何から何まで、本当に申し訳ございません」

「とんでもございません。こちらこそ夜中に失礼いたしました。それでは」


 電話が切れた。落ち着いた声の代わりに無機質で単調な音が響いている。不快さに耐え兼ねてそれを消すと、私は歯だけ磨いてから自分のベッドに潜った。酔っ払いをソファかどこかに移動させる気はなかったし、いずれにしろできなかった。


--------------------------------------


 揺り動かされたことで、私はバスジャックが突然赤ん坊に変化し、我儘を散々言ったかと思えば急にぐずりだす悪夢から脱出することができた。ひどく汗をかいていた。


「おう、起きたか」

「・・・今何時だ?」

「午前10時。なにか予定でもあんのか?」

「そういうわけじゃない。ただ、気になっただけだ」


 極太の腕を掴に支えられて起き上がった。少しだけ頭が痛かったが、隣に現れた顔の青さを見てまだマシなのだと認識した。顔が赤くなったり青くなったり、うるさくなったかと思えば泣き出したりと忙しい奴だ。


「珈琲、飲むか?」

「もう飲んだ」

「人の家を勝手に漁って?」

「漁るまでもねえ。場所を知ってるからな」


 舌打ちだけ返して、台所へ向かった。豆ではなくインスタントの珈琲にした。とにかく頭をはっきりさせたかった。

 1口啜ると、味は大したことなかったが頭は大分すっきりとした。ニコチンがほしくなって台所に放置されていたハイライトを掴んで1本取り出し、火をつけた。口から吐き出した煙と共に、雑念が体外へ排出されたような心地よさがあった。


「飯は食ったのか?」

「そこまで図々しくはねえよ」

「やりそうだけどな、お前なら」

「いつもならな・・・」


 元酔っ払い、現二日酔いは一応自分のしでかしたことは覚えているらしい。私はやかんに水を足してもう1度火にかけ、冷蔵庫のタッパに入った残り米をレンジに突っ込んだ。目覚めを珈琲にしたことを少しだけ後悔しはじめた。珈琲ではなく、緑茶を淹れるべきだったのだ。

 レンジとやかんが2度目の仕事を終えるのはほぼ同時だった。2つめの残り米を茶碗に移してからコンロを止め、インスタント味噌汁の諸々が入った椀に注いだ。特に考えもなしに適当につかんだ味噌汁の具はあさりであったようで、うれしくなった。


「お前、朝食はそんな食わないほうだったよな?」

「ああ・・・」

「ほらよ」


 卵かけご飯とあさりの味噌汁が2揃いテーブルの上に置かれた。二日酔いにはそこそこありがたいメニューのはずだ。


「いただきます」


 味噌汁1口すすると、死んでいた体が温まり活力が戻ってきた。朝食の神秘だ。


「・・・いただきます」


 やがて奴も箸をつかんだ。2人とも黙って飯を食らった。話すことがなかったわけではないが、今は黙るときだと互いにわかっていた。




 食器を片付けたのち、2人で葉巻をやった。私が葉巻を噛むと、奴も懐から葉巻を出して噛んだ。私がマッチで火をつけたならば、奴は昔と同じよく似合うロンソンの洒落たライターで火をつけた。よく見ると、葉巻も昔と同じモンテ・クリストだった。


「奥さんから、何があったか聞いた」

「余計なことしやがって。相変わらずだな」


 余計なことをしなければ、こいつは永遠に話さない。そういうやつなのだ。鉄の信念と強さを持っている男は、自ら自分の弱さを見せようとしない。そしてそれを思わず見せたときも、全てを見せはしないし、声を上げて泣くこともない。しかしその強さは鉄であり、チタンではない。耐えられるものにも限界がある。そしてその限界が来た時すら、こいつは1人で辛さを抱えようとする。強さこそが弱点な不器用なやつなのだ。


「おかげで、売れ行き好調だよ。このジャケットもロレックスも買えたし、キャバでもモテる」

「それでも、ライターや葉巻は変えないわけだ」

「変えてほしいか?」

「どうでもいい。もうじきくたばる私にしてみれば、お前のこの先なんぞ興味もない」

「冷てえこというじゃねえか」


 ため息が吐き出されたのが、白くはっきりと見えた。


「俺が大嫌いだった連中を書いてるうちに、なんだか自分もどんどんそうなっていくような気がしてな。抗ってるうちに、また別の大嫌いだった連中になってた。でも、前の俺より受けはいいんだわ」

「前のお前の受けはどうだったんだ?」

「最初は悪くなかった。今でも嫌われたわけじゃない。ただ、元々理解されちゃいなかったのが顕著になったな」

「お前を理解できる人間ばかりなら、世の中こんなどうしようもなくなってねえよ」

「それ、褒め言葉か?」

「一応な」

「お前に褒められると、自信が湧くよ」


 今の世の中に、こいつの鉄の強さを理解できるやつはほとんどいない。その脆さを理解できるやつはさらに少ないだろう。昨日の大酒も、今の葉巻も、奴の強さの源であり弱さの証明なのだ。いや、弱さについていえば誰しもが持っているものだ。この男の場合は、この2つがあれば再起することができる。そういう意味においては強さの証明であるかもしれない。この強さは、現代人の多くが有していないし理解すらできない。奴の書いた本が売れなくなったのがそれを明らかにしている。


「生まれる時代を間違えたかな。ネットがない時代なら、もう少し受け入れられたかもしれねえ」

「ネットで名を上げた人間がそれを言うかね」

「雑誌にだって送ってたし、賞もとったぜ?」

「そうだったか?まあいずれにしても、生まれちまったもんはしょうがない」

「わかってる・・・わかってるよ」


 あえて言わずともよかったと、自省した。私が言うことなどこいつは大体わかっているのだ。ただ、言ってもしょうがないことを言いたくなっただけなのだ。


「作家をやめたくなるときが度々ある。まあ、今更他の仕事ができるわけもないんだが」

「心底嫌いなものを書き続けるとしてもか?」

「ああ。嫁さんに迷惑はかけられねえ・・・それに、嫁さんだけじゃなくなった」

「そいつは知らなかった。いつ出てくるんだ?」

「夏頃だな。たぶん、おめえはもうくたばってるだろ」

「私の名前でもつけるか?」

「絶対に嫌だね」

「冷たいこと、いうじゃねえか」


 ため息に似たものが奴の口から吐き出された。それがため息と違うのは、下ではなく上に吐き出されたことだった。それは非常に大きな違いだった。


「それでも、辛いことには変わりない。作家が所帯をもっちゃあいけねえな。やりにくくて仕方ない」

「でも、結婚に後悔はないんだろ」

「まあな。だからこそ、くだらねえもんを書き続けてるんだ」


 己のかけがえのないものを守るために、別のかけがえのないものを捨てる。それは、私には決してできない選択だった。奴はそれを決断し、その決断と戦い続けているのだ。その戦いは終わりがないのかもしれない。大部分の人間は自分が理解できるものしか理解しようとすらしない。モノの価値は見えにくい真価ではなくわかりやすい表面的なものでしか評価されない。奴の作品は、大衆が理解できるどころかむしろ狂気沙汰と誤解する生き方を描いている。その価値はただ文字を追っているだけでは見えず、表紙にも描かれていない。奴は作家としての人生を終えるまで、家族のために自分の信念を捨て続けなけばならないのかもしれない。

 しかし、私はそうは思いたくなかった。鉄の男が愚かで脆い大衆に勝つ術は存在しないとは考えたくなかった。鉄の男が最後には勝利すると信じていたかった。どのみち私は戦いの結果をみることはない。ただ私がこの世にいる間は、負け戦だと認めたくはなかった。


「いま、作家としてどこらへんの地位にいるんだ」

「ラノベはもうやめた。それだけ今はマシだ。1度まともな本の映画化の話があったが、流れてる」

「もう1度チャンスはあると思うか?」

「誰もがとはいかねえが、まあ多少本を読むようなやつにゃ名前も大分知られてるからな。このままならいずれってとこだろ」

「そうかい」


 私も、煙を上に吐き出した。


「お前、あんまり悲観することないんじゃないか?」

「どうしてだ?」

「そのうち、お前の名前がでかい価値になる。いや、もうなりかけてるだろ」

「なにが言いたい?」

「だから、お前の名前が購入の動機になるだろうってことだよ」

「・・・続けろや」

「まあ、お前の書きたい本の内容に惹かれてってのは無理だったわけだ。だが、あの頃のお前は名前が動機になるほど偉い物書きじゃなかった。だが同じ内容でも、書いたものが映画化された奴の本なら馬鹿でも、いや馬鹿だからこそ気になるだろう。確認なんだが、どうせお前の本を読むやつ全員がそれを理解できるとは思ってないだろ?」

「そりゃそうだ。現に売れてる頃に買った連中も理解できてねえだろ」

「なら、要は売れてお前が家族を養えればいいわけだ。それなら、名前の価値さえもっと上がればどうとでもなる。名の高い作家の本だからって買われて、馬鹿は書いてることの意味もわからずありがたがってくれるだろうよ」


 私の話を聞いた奴は、意思がありながらもどこかぼんやりとした顔をしていた。そしてそれを突然崩して大笑いを始めた。それは昨晩の笑いより大きく、そして愉快なものだった。


「なるほど、どうやら俺も頭が鈍っていたらしい。おめえのバーテンの腕を心配するような身分じゃなかったなあ」

「全くだ。学生時代ならそこまで計算しててもおかしくなかったろうに」

「言ってくれるなよ。どうも天狗になってた時期に勘を失ったらしいな」

「感謝しやがれ、そいつを見つけてやったんだからな」


 奴の姿が昔と違って見えたのは、服のせいでも増えた脂肪のせいでも、時計のせいでもなかったらしい。身なりは全く変わらないというのに、今の奴は昔の、私が一緒に飲んでいて心から楽しいと思っていた強い男だった。倒れても必ず再起を果たす、鉄の男であった。

 葉巻が小さくなるまでの間、我々は語り合った。いつか世に出る奴の新作について。私が見ることはないであろう、奴が本当に書きたい作品について。それは2人の煙草好き、酒好きの話だった。大柄で豪快な強い男と、小柄でお喋りなお節介の話だった。


--------------------------------------


 葉巻の火が消えた。そして奴は立ち上がり、「さて」と1言だけ言って玄関へと歩いていった。


「あ、そうだ」

「どうした?」

「ガキにつける名前の件だがな、やっぱりお前のをもらうわ」

「私がやらんと言ったら?」

「産まれる頃にお前が生きてるってこたあねえだろ。知ったこっちゃねえよ」

「化けて出てやろうか?」

「そんときは、またカクテルでも作らせるかね」


 私は、彼に重要な言葉を言われていないのを思い出した。


「そういやお前、私にまだ謝ってないだろう」

「ええ?器の小せえやろうだな。ダチの無礼くらい笑って許せ」

「誰がお前を友達といった」

「俺が友達だと思ってるからいいんだよ」

「勝手なやろうだ。ガキの将来が心配だよ」

「安心しろ、勝手なのはお前相手だけだ」

「ふざけんじゃねえよ」


 会話が終わっても、奴は家を出なかった。私も彼に帰るよう促さなかったし、奥へ下がることもなかった。我々は、お互いの姿を目に焼き付けていた。私はもう彼を見ることはないだろうし、彼は血の通う私を2度と拝めないだろう。これが今生の別れなのだ。


「「・・・やめた」」


 それは同時に発せられた言葉だった。考えていることは同じだったらしい。


「こういう劇的なのは、やっぱ書くだけにしとくべきだな」

「私たちでやっても、ホモかなんかに見えるだけだしな」

「お前なんか御免だよ」

「こっちこそ」


 一通り笑ってから、奴は「あばよ」とだけ言って去っていった。結局謝罪はなかったし、助言への感謝もなかった。ただ酒を飲んで、飯を食って、話しておさらば。それだけだった。今生の別れにしては、あまりにもいつも通り過ぎる別れだった。




 その晩、改めて洋楽を流し、ロメオを吸って、シェリーを飲もうとした。厄介な酔っ払いはいない。昨日随分な仕事をした椅子も、今日はいつも通りの軽い仕事を文句を吐くことなくこなしていた。嵐は完全に過ぎ去っていた。

 音楽が流れ、葉巻が香っている。あとはシェリーが美しい音と共にグラスに注がれれば完璧だった。

 グラスを食器棚から取り出したとき、急に胸部に痛みが走った。別にめずらしいことではない。あまりにも無視されて面白くない病が、構ってほしさに自己主張をはじめただけなのだ。そしてこれは、痛みの度合いによって自分の命の長さを図る定期健診でもあった。今回は、反射的にグラスから手を離して胸部を抑え、即座に膝をつく程度の痛みだった。夏まで生きることはやはりできないらしい。

 痛みが収まると、周りを見ることができようになった。お気に入りのグラスは粉々になっていた。酒を飲まずに、とっとと寝ろと言われている気がしてくる。

 寝る?酒も飲まずに、葉巻もまだ残っているのに?音楽もまだ、心配事など気にするなと言っている。

 私はグラスをさっさと片づけると、再び食器棚を開けた。カクテルグラスがある。小さなグラスのはずなのに、どこかの誰かのように大きく目立って見えた。そして同時に、その誰かの言葉を思い出した。奴に子供の名前について文句を言うには、カクテルが作れねばならない。

 シェリーで作れるカクテルを思い出してみた。アーティスツ・スペシャル、ナインティ―ンス・ホール、ロック・ア・コー、アンダルシア、シェリー・フリップ・・・いくらでも思いついた。

 シェイカー、ミキシンググラス、マドラーといった器具、ジン、ラム、ウイスキーといった酒、ジュースとソーダ、台所は大分賑やかになった。腕が落ちぬように、これからも修練を怠らないようにしなければならない。

 その晩、ペースこそ適度なものではあったが、量だけならば友人と張り合うかのように私は酒を飲んだ。しかし私が友人に勝利できたのは、翌日の顔の青さだけであったのだが。

 



 









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