女々しい男
1年前から、死というものを強制的に見つめさせられる生活を続けている。
もはやその名前にすら興味を失った難病を患う前は、洒落た服装に身を包んで色々なところに出歩いたものだし、気の置けない友人たちと一晩中馬鹿馬鹿しい話をしながら幾度も乾杯をしたものだ。人並みに熱い恋をし、同じほどに身を裂くように悲しい別れも経験した。これからも永遠にそういう生活が続いていくのだと、誰しもが内に持つ漠然とした確信が、私にもあった。それが、医者の言葉1つでもはや2度とできないものとなってしまったのだ。
「お前は死ぬ」と医者に言われると不思議なもので、何を意味しているのかまるでわからないデータをいくつか見せられたせいもあるのだろうが、急に死ぬことが怖くなる。それまではいつ死んでも悔いはないなんて大見栄を切っていたくせに、途端に生に縋りつきたくなってしまう。酒も煙草も意地でもやめぬと豪語した私が、血眼になって健康を求めるようになってしまうのだ。そういう生き方をつまらないと感じることこそ変わらなかったが、それでも半年は「健康のためなら死んでもいい」という風な生活を続けていた。
今日という日は、ようやく自分が何をしようがどんなに生きたがろうが、問答無用でくたばることに気づいた日から半年目であり、夜中にウイスキーをダブルで3杯飲み、煙草を1日に1箱空ける生活を再開した日からも半年目であった。ベッドの横の窓からは、実に心地のいい陽光が差し込んできている。棺桶に片足を突っ込んだ人間を生き生きとさせるには、十二分に素晴らしい朝だ。
目覚めにハイライトを1本やってからベッドを出た。外に出るわけでもないのだから、身嗜みを整えたところでどうしようもないのだが、それでも箪笥を開けて黒いタートルネックとタンのズボンを引っ張り出した。クローゼットからは黒のウール地のジャケットを取り出す。私にとってのお洒落の基準は、外に出てこれからくたばる人間と思われないか否かである。
朝食と朝の軽い家事をすましたあとは、再びキッチンを経由して寝室へ身体を戻す。朝食後の一服を済ますまでは、なんとなく行動が決まりきったものになっている。カオスが服を着ているような存在である私の、唯一の秩序ある時間が朝なのだ。
さて、今日はなにをしようか。
考えるまでもなく決まっていた。再読中の本があるのだ。チャンドラーの「長いお別れ」。死ぬ前にもう1度マーロウものを全巻読破するのが、今のところの人生の目標だ。酒も煙草も、自分が精子でも卵子でもなかった頃にくたばったアメリカ人に教え込まれた。とはいえ、死ぬ前に今の自分の原点に立ち返るとか、そういう御大層な動機は特になく、ただもう1度かっこいい文章を読みたい一心で、この計画は進んでいる。
本棚から厚めの文庫本1冊を取り出して、ベッドに放りなげた。続いてもう随分と暇を与えてしまっている机の上に鎮座する箱を開ける。中にはまだ何本かロメオ・イ・フリエタが入っているはずだ。
ぶっとい茶の円筒が姿を現すことを期待して蓋を開けると、かすかな残り香だけが狭苦しい世界からの解放を喜びながら、薄情なほどに一瞬だけふわっと広がった。パンドラの箱よろしく、中に希望が残っているということもない。空っぽだ。神様だか仏様だか知らないが、この世で1番偉い奴は人に不快感を与えて笑う悪ガキのような輩に違いない。
パイプの葉は昨日切らしていた。煙管という気分でもない。あるのは紙巻だけ。10、15分毎に灰皿に手を伸ばすのはちと不便だ。
私はベッドで未だ惰眠を貪る携帯を起こすと、SNSの1つを起動して、わらわらとある画像のなかから1つを選んで電話を掛けた。大抵の我儘が許されるのは、余命いくばくもない人間の特権だ。
「あ、もしもし?私だがね」
「・・・なんです?突然」
訝しみの声が聞こえてくる。雑音がないところから察するに、おそらく家にいるのだろう。
「今日、なんかあるかね?」
「いや、なんもないですけど」
「買い物頼みたいんだ。駄賃、出すぜ」
「また煙草ですか?」
「よくわかってんじゃねえか。いつものやつな。ロメオは20本頼む」
「そんなに吸って、また呼吸つらくなりますよ」
「葉巻とパイプで肺がやられるかよ。それに、ヤニで死ねるならしめたもんだ。迷惑な同居人に殺されるよりはな」
電話が切れると、私はベッドに腰を落として一息ついた。月に2,3度だけ大仕事をする目覚まし時計は10時を刻んでいた。
すこしぼーっとしていたが、その内に2時間は客がこないことを思い出して、十数時間ぶりの読書を再開した。
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12時をいくらか過ぎた頃、読書はマーロウがエイモス・ヴァ―リー医師を訪ねたところで中断して、私は1人で食べるには量の多すぎる昼食を皿に盛っていた。彼が家に到着したのはその時だった。
「頼まれたの、持ってきましたよ」
「いつも、悪いね」
煙草缶4つと葉巻20本の入った紙袋が、中性的な様子の青年の白い手から、私の浅黒い手に渡された。青年は灰色のジャンパーに青いジーンズという、恰好をつけたいときの恰好をしていた。煙草屋や私の家に来るのに身なりを整える必要性を私は理解できず、すこしだけ驚いた。
彼と出会ってからもう何年か経つ。大学に入って最初の夏、3年生向けの進路相談会に駆り出され、出身高校を訪ねたことがあった。ほとんどの顔も名前もはじめて知った後輩たちが、馬鹿馬鹿しく現実味がないか、そうでなければ現実的過ぎて面白味のない生来について私に語り、私はそれに適当に相槌を打って心にもない激励の言葉を送ってやっていた。
家に帰ってからなにをするかにしか興味がなくなっていた時、当時の少年にして今の青年は現れた。第1印象はゲイ受けがよさそうだな程度のものだったが、彼の話が進むにつれ、私はそれまでにないほど真剣にそれを聞き、思考していた。彼の紡ぐ言葉だけは、面白味と現実味が同居し、形だけの激励ではなく、真剣な助言をしたくなるものだったのだ。その衝撃的な体験の記憶が未だ印象深く残っている内に春がきて、キャンパスで偶然にも青年になった彼を見かけた。以降、なにかにつけて助言をし、お節介を焼き続けている。
私は彼の顔が好きだった。それもまた、私が彼を気に掛ける理由だった。私の母校に蔓延る有象無象の馬鹿者共とは違う世界に生きながら、私や私の悪友たちと違って老け込んだ風のない、若々しさをしっかり保った彼の知的な顔立ちは、もし私にその気があったのならば惚れていたであろう美しさを備えているのだ。
紙袋と交換に封筒を差し出すため、私は懐に手を入れた。しかし、愛しい顔に浮かぶ表情が私の動作を止めた。魅力が半減している。血色はいいはずなのに、私には顔色がひどく悪いように見える。そして彼の目は、この機会になにかを期待しているようかのように、私の背後、即ちダイニングルームを見つめていた。
「せっかくだから上がってけよ。飯、あるからよ」
もとより言うつもりだった台詞を、なるたけ気さくかつ優しい声で言った。
「え・・・いや、いいですよ」
「そんなこと言ったって、もう作っちまったんだよ。お前好きだろ、トルティージャ」
「この前もごちそうになってるし、今日はさすがに・・・」
「そんなツレないこと言うなって。こちとらすることもなくて退屈してるんだ。話し相手になってくれても罰は当たんねえだろ。むしろ善行だよ善行」
「でも・・・」
この固辞こそが封筒を出さない理由だった。奢りたがりが災いしていつも財布の軽いこの青年は、上げてほしい時ほど家に入ろうとしない。
「そんなこと言うんだったら、こいつは渡さねえ。煙草、どうもな。ありがたくいただくよ」
「ええ!?それは違うでしょ」
「自腹切りたくねえなら上がってけ。30分でいいから」
彼は無駄に少し思案した後、わざとらしさのあるゆっくりとした動作で家の敷居を跨いだ。
「最近、どうだ?」
1時間続いた食後の会話に唐突に空いた1分の間を利用して、オーディオをいじりながら私は尋ねた。彼の言葉より早く、昨日聞いていたシャンソンの続きが聞こえた。
「・・・あんまり、うまくいってないです」
そういった青年は、やけ酒でも煽るように高い豆で淹れたうまい珈琲を飲み干した。それは酒の飲めない男なりの悲鳴だった。
私は箱から葉巻を2本取り出して、1本は自分の口へ、もう1本は青年に差し出した。青年は受け取らなかった。
「あの娘とは、続いてるの」
「・・・それなんですよ」
なんとなく予想していた返答を、彼は吐き捨てるように、あるいは呟くように口に出した。
「先々週、別れました」
「きっかけは?」
「・・・僕から、言いました」
それは事情の分かっているやつだけがわかる答えだった。私は彼の彼女のことは知っていた。サークルの後輩であった彼の元彼女は、なにかと私に相談事を持ち込んでくるやつであり、青年はその1つであったのだ。
お膳立てをしたのは私だった。患っていると知る前のことだ。完全に善意によるもので、少なくとも私は不純な動機は全くなかったと自負している。2人ならうまくやっていけると思ったのだが、見当違いであったことはそう長く経たずに明らかになった。恋愛についての性質のまるで違う2人が互いのことの進め方の違いに戸惑い、共通の話題に乏しく、イチャつくこともままならないことに気づいたことで、カップルの会話と接触は減っていった。
「まあ、あの娘からは言わんだろうな」
男好きで、メンヘラが過ぎることを除けば、彼女は中々にいい女だった。基本的に責任感が強く、こうした言葉を知っているかはともかくして、物事の道理というものを非常に気にする娘であった。故に交際中は他の人物と関係を持つことだけはしないのだが、同時に浮気な気持ちを抑えることは毎回できないのであった。
「少しほっとしてました、あの娘」
青年の口調には、それを非難するような風があった。この男も大概メンヘラだった。
「まあ、あれはあれで悩んでたからな」
「やっぱり、相談受けてました?」
「当たり前だろ」
「・・・そりゃそうですよね」
彼になにか言いたいことがあるのはわかっていたし、なにを言いたいのかもわかっていた。
「言っておくが、私に変なつもりはなかったからな」
「わかってますよ。じゃなきゃ、今こうして話してません」
「ならいいんだが」
重苦しい沈黙が発生した。私にも申し訳ないという気持ちがないといえば、嘘になるのだ。
「俺はあの娘に必要なかったってことなんすかね?」
ハイライトの消えた目で、青年は呟いた。涙ももう枯れましたと言いたげだった。
「あの娘から好きって言ってもらえたの、ほとんど最初だけでしたよ・・・」
青年は、古き良き時代を思い出して幸せになろうとしているとも、現在との対比に苦しんでいるともとれる調子で呟いた。
「最初のころは楽しかったんです。こんな僕のことを好きって言ってくれる女の人がいるんだって。なんの取り柄もない僕ですよ?それが、あんないい娘に好かれたんです。知ってるでしょ?あの娘には他にいくらでも選択肢があったはずなんです。それでも僕を選んでくれた。もうずっと、何年も暗かった僕の人生が、急に明るくなった気がしたんです」
青年は少しの間、楽しかった日々に遊んだ。
「2人で色んな話をして、色んなところに行って、一緒にお酒も飲んで・・・どっちもあんまり飲めないのに、そんなにお酒の席も好きじゃないはずなのに、2人だとなぜか楽しくて。お互いに好きって言って、抱き締めあって、キスして・・・とにかく幸せで楽しくて・・・」
「楽しくて」まで彼の顔は、それがまるで抜け殻のようであったとはいえ、笑顔であった。しかしそれ以降の顔は、もはやただ単に抜け殻であった。
「でも、結局違ったんですよね」
その先を言い出すのを躊躇う彼に、私は顎を動かして許可を与えた。
「結局、彼女は優しい人なら誰でもよかったんですよね。僕が偶々あの時優しくしてたから、彼女は僕を見てくれただけなんですよね。それなのに、僕は馬鹿みたいに舞い上がって・・・」
涙はまだ出ていなかったものの、顔を抑えるその手は震えていた。
「でも、期待するじゃないですか。ずっと、ずっと誰にも見向きもされなかった僕が、あんな綺麗な娘にキスされたんですよ?最初はそんなに続かないって覚悟してたけど、あんなに楽しかったら、永遠がいいって思っちゃうじゃないですか」
彼にとっては枯れたつもりだった涙が、少しずつ漏れ出ているのが見えた。涙が枯れるなんてことはあり得ないというのが、私の考えだ。
「でも、いつの間にか・・・いつの間にか好きも愛してるも、僕が言うばかりになって、彼女は言ってくれなくなって・・・彼女は相変わらず他の奴とも話してて・・・話さなくなって、出かけなくなって、飲まなくなって・・・」
私は、女のほうからも同じようなことを言われたのを思い出していた。それが示しているのは、2人が実は深く愛し合っていたという小説的な真実ではなく、2人とも実のところは大して愛などなく、片や承認欲求のために、片や一時の寂しさを紛らわすために恋愛をしていたというありがちな現実であった。そしてそれが終わった後、2人揃って自分は精一杯愛していたと主張するのだ。
私の好きな顔が、嫌いな表情へと崩れていくのが痛々しく、腹立たしかった。それは私の顔に現れてはいなかったように思うが、おそらく葉巻の先には出ていただろう。
「止めてくれると思ったんです・・・行かないでって言ってくれると思ったんです。でも言ってくれなかった・・・ごめんねなんて聞きたくなかったのに、そんなの求めてなかったのに・・・」
発する言葉の後半は、もはや本物の悲鳴となっていた。顔の筋肉は、もはや涙を押しとめる努力の一切を放棄していた。
「ごめんねじゃないんだよ・・・行かないでが欲しかったんだよ・・・」
目の前にいるのはもはや、知的な顔立ちの、社会学科にはめずらしく真面目に社会学を学んでいる、ロマン主義文学の好きな青年ではなくなっていた。ただただ女に振られたことを、自身を否定されたことを女々しく嘆き、必死に自己正当化を試みる、女を愛することも女に愛されることもさして知らない情けない大学生がいるだけであった。
私は彼を待っていた。彼が再び立ち直るのを待っていた。彼が自身を鼓舞し、涙の残る顔で無理にでも作り笑いをするのを待っていた。彼はそれができるはずであったし、そういう男になるべき青年であった。
葉巻を吸い終わるころになっても、彼が顔を上げることはなかった。
私はキッチンへと立っていた。やかんを火にかけ、湯が沸くのを待つ間に新しい葉巻に火をつけた。私が青年に与える最後の猶予は煙となり、レンジフードの中へと消えていく。しかし彼はそれに注意を向けず、この部屋にあるありとあらゆる物に注意を向けず、未だ悲劇の主人公を気取っているようだった。その仕草の裏側には、確かに深い悲しみがあるのだが、私からの憐憫を期待している彼が微かに見えて、心の底からの同情はとてもではないができなかった。
やかんが時間切れのアラームを鳴らすと、青年はそれに少しだけ反応した。その反応が、彼のあざとさの証明となっていた。
「いい加減、泣き止んだかね?」
「・・・すいません」
珈琲のお替りを入れながら、私は彼を牽制した。彼はその意図を多少は察したようだった。
「そうやって項垂れてたら、彼女が心配してくれる時期は終わったんだぞ」
目立った反応こそなかったが、彼に反抗心が芽生えたであろうことは容易に想像できた。
「とりあえずその珈琲を飲め。それから話そう」
小さな反乱が起きた。彼はカップを手に取らず、そのまま動かずにいたのだ。容姿の都合で可愛く見えなくもなかったが、20の男がしていいことではない。
「男がそういう態度をとるのは、あまり関心出来ることじゃないな」
動揺は、小さな嗚咽となって現れた。その後口が小さく動いたが、音はこちらまで伝わらなかった。それでも、青年がなにを言っていたかはわかっていた。彼だって、今の自分の姿に嫌悪を覚えているのだ。さらに言うならば、嫌悪を覚えながらも、そのままでいることを1番楽だと感じている自分にも。私の言うことに従うことが気に入らないと思っている自分にも。
「・・・すいません」
それが彼にとっては、精一杯のつもりなのだろう。これが今の限界なんです。だから許してください。僕をもう追い詰めないでください。あなたの言うことは全部わかってるんです。だからもういいでしょう?だが、私は彼が思っているよりもずっと冷酷で、ずっと自分勝手な人間だった。彼が項垂れ続けるのを認めるつもりはなかったし、このまま情けない男でいることを許す気もなかった。私は自分勝手にも、彼に強くなってほしいと思っている。だからこそ多少強引な手段を用いて家に上げたのである。そして彼にとっては実に迷惑なことに、彼につらい気持ちを吐き出させ、3,40分涙を流させ、そうした上で今度は「泣くな男だろ」とほざいているのである。こうしたわがままへの言い訳ができるのも、長く生きれない人間の特権だ。
私は彼に冷たい視線を向けていた。葉巻のために歪んだ口が、それに恐ろしさを与えていることは承知していた。青年がそれに気づいていたかはわからない。
「でも、僕だって・・・」
突然間違った勇ましさをみせようとして、彼は失敗した。怒りの顔を私に見せることも、声を張り上げて自己主張することもできず、ただ弱虫だけが残った。
睨み合いが続いた。泣きっ面と厳めし面の滑稽で悲しい睨み合いが続いていた。お互いになにも言わず、できる範囲で空気読んだオーディオのイヴ・モンタン似の声だけが部屋に響いていた。意図していなかったとはいえ、我ながら演出が臭すぎる。
段々と馬鹿馬鹿しく思えてきた。この男に構ってなにになるのだろうか。あと1年生きるか2年生きるか、それとも半年後には目を閉じて般若心経を聞いているかわからないのだから、人の世話なぞ、ましてやこんな面倒くさい奴の世話なぞ焼かずに、自由に生きるべきではないのだろうか。実のところなぞ気付いていない振りをして、「今日はさすがに」と言われたならば「そうかい、ならまたの機会に」とでもいって、そう言ったことすら永遠に忘れて面白おかしくやっても罰は当たるまい。閻魔の裁きか最後の審判か知らないが、それで地獄行きということもないだろう。
「すいません、ご迷惑おかけして・・・今日はここらへんで、お暇します」
ようやく出てきた青年の言葉は、私を多少にしても驚かせた。そしてその驚きの隙を利用して、彼は素早く立ち上がり、顔を伏せたまま玄関へと向かった。走っているわけではないのに、脱兎のごとくの言葉が似合う器用な退出の仕方だった。
「おい」
呼びかけと同時にわたしも立ち上がった。ジャケットの中に未だ残る封筒が胸に触れた。
「オムレツ、おいしかったです。今日はありがとうございました」
急いで出ていく彼の腕を掴めないわけではなかった。まだ体を機敏に動かせなくなるほど弱ってはいないのだ。月の中日も近い。どうせ私の買い物で彼の財布は空っぽなのだから、私はこの金を彼に渡すべきだろう。でなければ彼は、ここに集金に戻らざるを得なくなる。あるいは別の友人から借りるという手もある。彼が人から金を借りれるような人間であればの話だが。
「お邪魔しました」
青年は出ていき、私は1人になった。しばらく意味もなく立ち尽くしていたが、そのうち最後に煙草屋に行った日の記憶を手繰りはじめ、それを元に代金を計算した。1万は軽く超える金額だった。
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1週間と経たずに、青年は再び私の家を訪れた。彼の買ってきたパイプ煙草を燻らせながら、マーロウとリンダ・ローリングの会話を眺めている午後がその時だった。
「先日は、ご迷惑をお掛けしました」
実際にそうなったわけではないのだろうが、彼の顔は少しやつれているように見えた。服装も、恰好をつける意図のない時に着る、当たり前の服になっていた。
「いや、いいんだよ」
「こっちこそ悪かったね」というつもりはなかった。
「少し上がっていかないか?本に飽きてきたところなんだ」
「いや、この前お騒がせした後ですし・・・」
「だったら、その詫びってことでさ」
今日は本当に遠慮している風だったが、私は気づかない振りをした。
わざとらしさこそないものの、嫌々なのがなるべくわからないよう努めた結果ぎこちなくなった動きで、青年は私の部屋へ入ってきた。私は彼を通してからキッチンに立ち、珈琲の支度にかかった。遠出して買った値の張る豆か、近所のスーパーで1番安い豆か悩み、結局後者を棚から取り出した。
「で、その後どうだい」
あまりにも無神経な私の言葉に、彼は一瞬だけ驚いた顔を見せた。その次にひどく困った顔を見せ、最終的には先日の顔の続きになった。
「特に、なにも」
「復縁要請も、お友達申請もなしか」
「・・・連絡、とってないので」
「なるほどね」
聞いてみただけで、実際に気になっていたわけではなかった。双方を知っている人間からしたら、答えは考えるまでもない。
青年は静かなため息をついた。やつれた顔の悲壮感が増して、慰めの言葉をかけてやりたくなったが、私の忍耐が勝利した。
「他に、なんかいいことあったか?」
「友人と飲みに行きました。奢りで。それから3日間京都に行きました。楽しかったです、どっちも」
「それだけではなさそうだな」
「・・・楽しかったけど、いいこととは思えませんでした。彼女の顔がちらついて、彼女とここにいれたらって思えて」
おそらく、今この瞬間もそう思っているのだろう。ここは2人のデートスポットの1つだったのだ。
湯が沸いた。私が珈琲を淹れている間、会話は一切なかった。気分的な問題なのだろうが、いい加減うんざりしている重い静けさがより一層ひどくなった気がした。下手な比喩をするなら、午後の穏やかな日差しを後ろ前かなにかで着ている感すらあり、垂れ流しのシャンソンをぎこちなく踊っているような沈黙だった。
黒い液体をカップに移し、それを悩める青年の前に置いた。3つあるカップなのだが、置かれたのは2つだけだった。
「ほら、お前珈琲好きだろ」
手を付けるのを待ったが、礼の言葉すらなかった。ただただ彼は沈んでいた。
私は自分の珈琲を1口で飲み干した。酸味が強く、人に提供できるものではなかったが、それでよかった。
「早くしろ、冷めるぞ」
青年は首を横に振った。生意気な野郎だな思ったし、たぶんそれは私の顔に出た。
「ちょっと片づけしてくるから、その間に飲んで落ち着いとけよ」
煙を吹かしながら、台所の片づけを進めていく。綺麗になっているかどうかはあまり気にしなかった。器具の1つ1つを始末するたびに落ち着きのない男の方をみてみるが、カップを取った様子はない。彼は私が見ていない隙をついた行動が普段からできるほど強かな男ではなかった。この前鮮やかな動きは、彼がある種の極限状態にあり、その上私が手を出さなかった結果に過ぎない。
戻った時、私はパイプをルール違反なほどに強く吸い込み、その煙を青年の顔に向けて吐き出した。
「なにするんですか!?」
煙が目に沁みたのか、無神経な態度に憤りを感じたのか、あるいは両方なのか。彼は急に真っ赤な顔を上げて私に抗議した。先ほどのまでの態度を鑑みれば、そんな元気があったとは信じがたい。
「お、やっと顔あげやがったか。久しぶりに男らしい顔を見れてうれしいよ」
今にも殴りかかってきそうな血相を一瞬見せたが、彼は取り柄とする中途半端な冷静さを以てして、激情を抑えた。なんだかんだで余裕があるのだろう。
「まずは珈琲を飲め。それから話そう」
「・・・そんな気分になれません」
「その気分を変えるために、飲むんだよ」
彼はさらに10数秒抵抗したが、大恩ある年上に眼力で勝てるほどの度胸はなかった。だからこそ、ここにいるのだが。
「!?なんですかこれ?」
作戦は大成功だった。
「気分、変わっただろ?」
「なんでこんな酸っぱいんですか?よく飲めましたね」
「男ならこれくらい我慢してしかるべきだよ」
私は青年に葉巻を差し出した。顔は威勢よかったが、彼の手と口は素直に降伏した。ぎこちない動作で吸い口をつくり、何度か失敗しながら火をつけて一服すると、彼はようやく普段の落ち着きの半分は取り戻したようだった。
「すいません、色々と」
「もう慣れたよ」
「いつも、こうですもんね。なんか、ほんとすいません」
彼の飲みかけの珈琲を奪って飲み干してから、私はパイプを灰皿に置いた。
「悲劇に遭遇した時にすることその1、泣けるだけ泣く。まずこれはクリア」
「・・・」
「悲劇に遭遇した時にすることその2、嘆くだけ嘆く。これもクリア」
「・・・」
「悲劇に云々かんぬんその3、面を上げる。こいつもよし」
「・・・はい」
「悲劇なんたらその4、煙草を吹かす。吹かしてるな?」
「・・・はい」
「その5、忘れる」
「・・・」
「さて、その5に取り組むとしようか」
私は彼の隣の席に腰かけ、その丸まった背中をありったけの力で引っ叩いた。彼は驚き、一瞬痛みに顔を歪めたが、なにも言わなかった。
「忘れるには気持ちを変えなきゃいかん。気分を明るくするんだ。どうしたらいいと思う?」
「・・・楽しいことを考えるとか、ですか?」
「ちがう」
「メリットを見出す?」
「ちがう」
「えーっと・・・今回の場合は彼女を貶すとか?」
「お前そんな嫌な奴だっけ?」
彼はめんどくさそうな顔をした。私は正面を向いていたが、ぼんやりとした横目の景色の内にそれが見えた。こういった問答において、私が彼の答えに丸を付けたことはない。
「じゃあ、正解はなんなんですか?」
「もう少し考えてみたらどうだ?」
「考えたって、いつも間違うじゃないですか」
「それでもやってみるのが大事なんだよ」
青年はなおも10分程思考したが、答えは出てこないようだった。元々わかるような問題を出していないから、当然なのだ。もしこれですぐに答えを出せるなら、今日彼はここに来ていないのだ。
「ダメです。やっぱりわかりません。どうせ、僕が絶対わからない問題なんでしょ?」
この青年のすぐ拗ねるところと、諦めの早いところを私はあまり好んでいない。その一方で、多少は察しがいい点は気に入っていた。
「・・・まあ、もういいでしょう」
わざとらしく彼の目を見つめてから、私は解答を与える準備をした。頭を掻き、椅子の背もたれに寄りかかり、足を組む。できるだけくつろいだ姿勢になるのが、こういった時の私の癖だった。
「なんなんですか?正解は」
「やせ我慢する、だよ」
実にあっさりと、青年の思考にその欠片も現れなかったであろう言葉を私は吐き出した。彼はしばらくぽかんとしていたが、やがて何かを悟り、呆れたとでも言いたげな表情を見せた。
「それ、気分的に明るくなるんですか?」
「ならねえな」
「ダメじゃないですか!」
「わかってねえなあ」
「わかってないもなにも、明るくなろうとしてるときに明るくならない方法使ったら意味ないでしょう!」
彼の相変わらずの不機嫌そうな顔に、私はおどけて笑顔を見せた。
「やっぱり、わかってねえよ」
もはや彼は、諦めるしかないのだ。
「悲劇に遭遇したら、人間はそう簡単には立ち直れないんだよ。明るくなんてのは時間がかかる。だが、かといって沈んだままだったらどんどん暗くなって、終いには可愛そうな自分を愛でることに夢中になっちまう。だから無理やりにでも明るく振舞って、時間が経つのを待つしかねえんだよ」
「それ、辛くないですか?」
「辛いぞ。だが、悲劇に遭遇した時点でどのみち辛いんだ。後で治るかひどくなるかくらいの差しかありゃしない」
「・・・なんか、いやですね」
「耐えるしかないんだよ」
「耐えられそうにないです」
「できるかできないかじゃない。やる以外に選択肢はないんだよ」
「できないことはやれませんよ?」
「人の言ってることにケチつけられるなら、できるよ」
私は冷めたパイプを手に取った。強引に居眠りからたたき起こされたL字は、口から灰を私の手に吐いて抗議した。それを無視してマッチを擦り、火皿に入れて葉っぱに火を移した。息を少し強めに吸って、そのために発生したやわらかい煙と、思考の纏まりを阻害していた雑念と、空気による若干の疲労を一緒くたにして口と火皿から吹き出した。
しばらくの間、お互いに煙を吹かすだけだった。今度の沈黙はえらく軽かった。差し込む日差しを上手く着こなし、水に流してのリズムに見事に乗っていた。それは青年も同じだった。太陽の暖かさと、何を言っているのかわからないフランス語を楽しんでいるようだった。隣に座る私は、彼の楽しむものに加えて、彼の表情の変化を楽しんでいた。徐々に穏やかに、美しくなっていく彼の表情を。
ペティ・コロナとカナディアンパイプの根比べは、パイプに軍配が上がった。葉巻をつぶす動作を確認してから、私はほとんど灰しか入っていないパイプに遂に暇をやり、青年の肩を叩いた。
「耐えられそうか?」
「わかりません。でも、絶対無理とは思えなくなりました」
「不安になるねえ。まあでも、メンヘラにしちゃ上出来か」
「みんな先輩程強くないんですよ」
「冗談言うんじゃねえよ。私が強いなんてことあるか」
「自分がもうすぐ死んじゃうかもしれない状況で、僕みたいなやつの世話焼ける人は十分強いですよ」
私は前回の会見の時に一瞬頭を過ったことを思い出して、過大評価であることを確認した。
「誰かのためになってると思えねえと、生きていく気になれないだけだよ」
「それはそれですごいと思いますよ」
「おだてたらこれ以上の説教がなくなると思ってるなら、大間違いだからな」
「そんなこと考えてませんって」
もう1度ありったけの力で青年の肩を叩いた。マゾヒストでないはずの男が、笑みを浮かべた。
「お前、私といくつ離れてたっけ?」
「3つです」
「なら、お前は私より3年分ものを知らないんだよ。もしそれを知ってたなら、私は3年無駄にしたってことだ」
「3年ってそんな違いますか?」
「1年あればかなり色々なこと学べるもんだぞ?それが3つ分だ、全然違う。私だって昔は悩んだ。昔は苦しんだし、嘆くこともあった。だけど、そっから学んでいったんだよ。お前も同じだ。今日悩んだし、苦しんだし、嘆いた。そして今日そこから学ぶんだよ。これからもそうやって生きていくんだ」
「苦しみたくないなあ」
「じゃあ死んじまえ。同時に苦しんだからこそ、学んだからこそ得れる楽しみも全部なしだけどな。それでもいいと思えるほど苦しいなら、死んじまえ。だが、少しでも躊躇ったなら生きとけ。躊躇ったってことは、まだ耐えられるってことだ」
「耐えられそうにありませんよ、僕なんか」
「悲観論と自虐に浸りたいなら好きにしろ。だが、そんなことしても誰も助けてくれんぞ。助言をくれるやつや、背中を押してくれるやつ、肩を抱いてくれるやつはいるだろう。だがそれだけだ。結局てめえのことはてめえで始末をつけるしかねえ」
「男は強くなきゃだめ、ですか?」
「強くある必要はない。だから私はお前が泣くのを許したし、嘆きも聞いた。強くなきゃいけないならそれもだめだ。だがそんな風に生きれるやつはもう精神的にくたばった奴だけだ。生きてる間は泣きたくなるし、死にたいといいたくなる。それでいい。それが自然だ」
青年は少しだけ安心したようだった。まだ話が終わっていないのに気付いているのかどうかはわからない。
「だが、どっかで立ち上がらなきゃならない。なんで可愛そうな自分を可愛がっちゃだめかわかるか?永遠にそうありたくなるからだ。可愛そうだと思うためには悲劇の中になくちゃいけない。次第に小さなことが、なんでもないことが悲劇になっていく。麻薬が禁止されてる理由と、要は同じだ。それは確かに一時的には楽だろう。夜中に泣いている間は、愚痴を言ってる間は、誰かと傷の舐め合いをしてる間はこの上なく心地いいだろう。だが、お天道様が昇った途端に地獄がやってくる。ガキでもわかる話だが、太陽のシフトは月のシフトより長いんだ。どっちの人生がマシかは考えるまでもねえ」
「・・・確かに、考えるまでもないですね」
青年は笑みを浮かべていた。ひどく悲し気で頼りなかったが、それは笑みに変わりなかった。
「やせ我慢してたら、いつか楽しいって思えるときがくるんでしょうか?」
笑みのままで彼は尋ねてきた。あまり期待しているようには見えなかった。
「人生これからが長いんだ。楽しいことなんていくらでもあるだろ」
「そうですかね・・・そうだといいんですけど」
「きっとあるよ」
「・・・そうですよね、きっとありますよね」
心から希望を抱いたわけではないことは容易にわかった。私が言っているがゆえに、彼は希望を抱いたふりをしたのだ。私としては、気を使われなくともなにも思わない。むしろ、死に行く立場にもいい点はあることの確認となって気分がよかった。
「ま、悲観的にならないことだ。人生なんてだめな時はどうやっても駄目だし、それ以外は案外なるようになっちまうもんだ。気楽に構えるのが1番だよ」
努力して納得のいった振りをしている青年を後目に、わたしはオーディオに向かった。フランス語を英語と似非スペイン語の混ぜ物に切り替えた。それはドリス・デイによく似た声による、私の主張への支持だった。
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1曲聞き終わってから、青年は私の家を辞去した。
「あと1本くらい吹かしていけばいいのに」
「遠慮しときます。先輩みたいに、早死にしたくないんで」
「なに言ってやがる」
「人生太く短く」と言おうと思ったが、目の前の男に言うと意味を履き違えそうだったためやめておいた。
玄関まで彼が進む間に、私はキッチンから瓶を1本出してきた。そのまま渡そうと思ったが、割れては縁起が悪い上にもったいないと思い、しっかりと包装してやった。
「おい、これもってけ」
「なんです、それ」
「安酒だよ。度数が高いから、酔うにはちょうどいい」
「僕、また泣きますよ?」
「だったら、今度は自力で立ち直れ。それができりゃあ、私がくたばっても問題なしだ」
「いまからお酒と煙草やめて、延命するのはどうです?」
「お前の世話焼くためにか?ごめんだよ」
「ひどいなあ」
青年が笑った。微笑み返すだけに留めて恰好をつけるつもりが、釣られて私も笑った。2人して笑った。なんだか、無性にうれしかった。
「やっぱり先輩、長生きしてくださいよ」
「だからなあ」
「俺の世話なんていいですよ。ていうか、世話焼かれないように頑張ります。でも、先輩とこうして笑えないの、嫌なんで」
「私はもう飽きたよ」
「こういう時くらい、素直になりましょうよ」
「黙ってろ餓鬼が」
こんなジョークを言い合うこともできれば遠慮したいのだが、これが望める限りだった。
「それじゃあ、もう行きます。ありがとうございました」
「おう、もう煙草配達以外でくんなよ」
「先輩が上げてくれたんですよ?」
「そんな昔のことは忘れたよ」
青年は美しい顔で去っていった。扉が半分まで閉じたところでそれに気づいたことを惜しく思ったが、体裁を気にして引き留めるのはやめておいた。
その晩、今晩の酒を決めるために再びキッチンの棚の1つを開いた。最期に飲むために取っておいた山崎の12年は、確かに姿を消していた。今頃、美しい顔を赤く染め、可憐な涙を流させているのかもしれない。数時間前にはそれを多少にしても惜しいと思ったはずなのだが、いまは妙な満足感すらあった。
ほとんど手を付けていないブラックニッカを取り出して、グラスにダブル注いだ。もっといい酒は何本かあるというのに、迷うことすらなかった。手を付けていないのには理由があるはずなのだが、やけにうまく感じた。
その晩私は久しぶりに泥酔した。翌日やってきた医者にも、随分と叱られる羽目になった。