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二日目

目が覚めたころには空はすでに明るかった。

俺はまず洗面所で顔を洗うと、台所とあのだだっ広い居間の掃除をした。

ちょうどその最中に、老婆は居間に顔を見せて、もうすぐ家から出てもらうとだけ言った。

そして俺は掃除を終えて、支度を整えると、老婆と共に家の外へと出た。

「お世話になりました」

俺は老婆に感謝の意を伝えた。

「次、立ち寄るときにはお土産の一つや二つでも…」

俺はそう言うと

「そうそう何度も来るところじゃないさ」

老婆は俺の声に重ねてそう言ってから、家の鍵をポケットに入れ、四輪電動カートに乗って駅に続く道へと去って行った。

「さて、どうするか」


結局、俺は海に向かったときのように駅まで川沿いに歩いてみることにした。

陽が昇ってから数時間が経過していたが、陽射しは穏やかで心地よかった。

川は相変わらず静寂に包まれていた。

水遊びをしていた子供たちがいない分、静けさはより際立った。

俺はこの町を去る前に一度だけ、水遊びをしてみようと思った。

水遊びとはいっても、ほんの少しだけ、右手半分くらいを川の水に触れてみるだけだ。

そのためにはまず水面へと近づく必要があったので、俺が今歩いている道から、水面とほぼ同じ高さに至るまで、コンクリートの階段で降りることにした。

階段を降りると、一人分がやっと通れるくらいの細いコンクリートの道が続いていた。

もはや今では手の届くところにある川の水を、屈んで、腕を伸ばして指一本だけ浸けてみることにした。

水の感触は奇妙なものだった。

というより水に触れたという感じがしなかった。

本来水の持つべきひんやりとした感触が指先に伝わることもなかったし、大気とは異なる水特有の重量感もまるでなかった。

それは、要するに俺の感覚では空気と水の境界がわからない、ということを意味していた。

ともかくなぜ俺の身にそんな不可解な現象が起こったのかを、少しだけ考えてみることにした。

まず第一に、俺が触れたと思っていたのは水などではなかったということが考えられる。

あるいは、奇妙なのは俺の身体の一部であった、すなわち俺の指先に神経が通っていなかったなんていうということもありうる。

しかしどちらの可能性も、直接検証してみる手段は思いつかなかったし、やってみたところであまり良い気分もしないと思ったので、それよりも今度は手全体をどっぷりと

その川の水と俺が思い込んでいるものへと浸けてみようと試みた。

ところが、その<川の水であろう何か>に触れた感じというのは今までと何ら変わりはなかった。

この時点で、俺の身体に何らかの異常が起きているという可能性は排除してみるのが妥当な気がした。

実際、手全体の感覚が失われるなどという不可解な経験など、今この時を除いてしたことがないし、そんな話を聞いたこともない。

結局不可解な現象の原因は、この川が特殊すぎるが故のものであるということで俺の中で決着がついた。

そんな時だった。

俺は何らかの気配を感じると同時に、何故だか自分が仰向けになっているということに気付いた。

視界には、俺がさっき降りてきたコンクリートの階段、その上にはさっき歩いてきた直線の道、さらにその上には、青い空、白い雲。

いや、それだけではない。

俺はもっと重要な何かを見落としている。

致命的な見落としをしているのだ。

そんな予感があった。

俺はまず目を動かすことにした。

しかし、目はある一点を古ぼけたカメラみたいにずっと見つめているだけで、何故だか動かす事ができない。

今度は首を動かそうと思った。

しかしそれも動かすことは出来なかった。

それどころか手も足も何もかも動かすことが出来ない。

その時、俺の視界に突如、人が現れた。

いるのは少年。

短髪で、陽に焼けた褐色の肌をしていて。

昨日確かにここで遊んでいたうちの一人で。

「犯罪者」

そして、昨日と同じことを言った。

しかし、昨日とは違っていた。

「一体どうした」

俺はそう言うほかなかった。

しかし、声が出せない。

もしかしたら声は出ていたのかもしれないが、その自らの発した声が俺の鼓膜には届いていない。

「犯罪者」

彼はもう一度そう言った。

やはり彼は昨日とは違っていた。

彼は一体、何を。

「人殺しめ」

彼はそう言って俺を睨みつけた。

このとき俺の違和感や不安のようなものは収まるべきところへと収まった。

そう。

彼は怒っているのだ。

でも俺には肝心の彼が怒っている理由がわからなかったし、人殺し呼ばわりされるような心当たりもなかった。

もしかしたら、俺はこのまま彼に殺されてしまうのではないかと思った。

俺はもうどうしていいのかわからなかった。

声が出ないし、動くこともできない。

あるいはもう死んでいるのかもしれない。

実はもうすでに生命の機能を失っていて、辛うじて意識だけが、この奇妙な川に留まっている。

ただ彼の声を聞くために。

そう考えるとさっきまでの違和感が綺麗に拭えることに気付いた。

ある一つの事実から、全ての謎が綺麗にひも解かれていくような感覚を味わった。

それはまるで、散りばめられた数々の伏線が、次々と回収されていく短編推理小説のようだった。

俺はおそらくこのコンクリートの階段を下る途中か、それより前にこの少年に殺されて、全身の感覚を失った。

だから川の水を触れても何も感じないのは当然なのだ。

異常なのは俺の身体であった。

気が付いた時には仰向けになっていて、体を動かすこともできず、声を出すこともできない。

これが死でなくて一体なんなのだ。

「待ってくれ」

俺は階段を駆け上っていく少年に最後にそう言おうとした。

しかし少年は、俺のことなど振り返りもせず消えてしまった。



「ねえねえ」

…。

……。

…………。

…ん?

「ここで寝ているの?」

声。

声が聞こえる。

「ねえねえ聞いていますか?」

俺は何をしていたんだっけ?

俺は。

「人殺し」

ザーザーと記憶がよみがえる。

そこにあったのは少年の顔、目。声。

「犯罪者」

それは俺へ向けられた憎しみ。

そして同時に俺への殺意。

俺は。

俺は。

「俺は…。死んでいる!!」

そう言いながら、突然俺の全身が起き上がった。

「きゃ」

すぐ近くにいた子供は俺の反応に大層驚いているようだった。

子供は丸まった顔に、余分な贅肉のついた腕の目立つ少女だった。

体型もやや太っていた。

しかし、決して見ていて不愉快な感じはしなかった。

それは健康的に焼けた肌の色が原因なのかもしれない。

その雰囲気はなんとなく昨日川遊びをしていた子供たちによく似ていた。

「あなたはいったい誰ですか?」

彼女は俺にそう尋ねた。

「俺?」

俺は自分で自分の方を指さして、そう尋ねた。

彼女は頷いた。

俺は手を動かせるという事に気付いた。

それどころか、起き上がることもできたし、足だって自由に動かすことが出来た。

そして俺は声を出して言葉を相手に伝えることができた。

俺はひとまず今この世界においては死んでいないと判断して良さそうだ。

「旅人」

俺はそう答えた。

「たびびと?」

少女はそう返した。

「ああ」

「でもお姉ちゃんと知り合いなんですよね?」

「おねえちゃん?誰?」

俺は彼女の言っていることがわからないというような声でそう言った。

しかし、彼女の言うお姉ちゃんが誰の事を指しているかはなんとなく見当がついていた。

「昨日お姉ちゃんと一緒に海の方に歩いていましたよね」

彼女はそう言った。

「ああ?ああ。君はあの子の妹なんだな」

俺はそう言った。

俺はあの少女と知り合いといえるほどの間柄でもなんでもなかったが、彼女の問いかけに頷いておいても特に問題はないように思った。

「そうですか」

彼女は俺の問いには答えずにため息をついた。

「どうして?」

しかし、彼女は小さい声でそう言った。

「どうして、嘘を付くの?」

そして、そのあと強くそう言った。

彼女は怒りの眼差しと言うより、俺を軽蔑したような目だった。

「なに?」

俺は戸惑いを隠すことが出来ず、思わず疑問の声をあげた。

「おかしいです」

「あなたがお姉ちゃんの知り合いのはずがないんです」

彼女は続けてそう言った。

「あ?ああ。会ったのは昨日が初めてなんだ」

俺は、参ったというような声を出して、正直にそう言った。

俺があの白いワンピースを着た少女と知り合いであるかというのは、彼女にとっては重要な問題らしかった。

俺は軽はずみに彼女の質問に頷いたことを後悔した。

「もういいです」

彼女は少し怒ったようにそう言った。

「ところでお姉ちゃんとやらは元気か?」

俺は話題をそらすようにそう言った。

「え?」

しかし、彼女の反応は俺の予想外のものだった。

「なにを言っているんですか?」

彼女はそう言った。

「あの後、ずっと一緒にいたんじゃないんですか?」

そして、そう続けた。

「わからない」

俺はそう言った。

「わからない?」

彼女はそう返した。

「彼女と防波堤に行った後、俺だけ寝てしまったんだ」

俺はそう言った。

「起きたらそこには誰もいなかった」

俺はそう続けた。

それは事実だ。

ついでに言えば、俺はその後通った道をそのまま引き返して川沿いに進んでいった。

しかし、彼女はどこにも見当たらなかった。

「そうですか」

彼女は落ち着きを取り戻したような声でそう言った。

「とりあえずあなたの言った事を信じてみます」

「助かる。それはそうとお姉ちゃんとやらは?」

俺はそう尋ねたが、返事は無かった。

「ちょっとだけついてきてください」

彼女は俺にそう言った。

「うん?まあいいけど」

俺はそう答えた。

この時、今朝俺が乗るべき列車のことなどすっかり忘れてしまっていたことに気が付いた。


彼女が連れてきたのは、階段のすぐ上だった。

そしてそこには思いがけない人物がいた。

それはさっきの少年だった。

「あんたが悪いわ」

彼女は少年に向かってそう言った。

態度を見るに、この少年は彼女の弟であると判断できた。

「犯罪者に犯罪者って言ってなにが悪いんだ」

少年は俺の目を睨みながらそう言った。

彼女は少年の頭を叩いた。

「やったな」

少年は彼女のふくらはぎを軽く蹴った。

しかし、彼女は少年の反撃には微動だにせず、少年の顔を叩いた。

「喧嘩はやめてくれ」

俺は勘弁してほしいというような声でそう言った。

「人殺しはだまってろ」

少年は俺にそう言うと、彼女に再び攻撃を仕掛けた。

「どうして俺が人殺しなんだ?」

「人殺しは人殺しだい」

少年はそう返した。

もはや少年は俺には一切の興味を示さず、目の前の姉との喧嘩に夢中だった。

それどころか姉の方ももはや本題を忘れて、弟との喧嘩に熱中していた。

俺は、まるで先の見えないお笑いコントを延々と見させられているような気分になった。

単なるコントならチャンネルを変えればいいが、コントの話題の中心が自分である以上そういうわけにもいかない。

俺は、自分に向けられた理不尽な怒りに憤るというよりも、あの川で、こんな幼い少年に対して、恐れを抱いていたということになんだか妙なむなしさを覚えた。

しかし、彼が俺に対して憎しみのようなものを抱いているというのはあながち間違いでもなかったので、誤解を解いてやりたいと思った。

「この人はお姉ちゃんのこと知らないって言ってた」

彼女は一旦弟への攻撃をとめて、そう言った。

「嘘だ」

少年はそう言った。

「お姉ちゃんと海の方に行っていたのを見たんだ」

少年はそう続けた。

「それはあんたの言ったとおりだったよ」

姉がそういうと、少年はしばらく黙った。

「さっきから一体何の話をしているんだ?」

俺は二人の沈黙の間にそう言った。

「だって今までずっとずっと元気だったじゃないか」

彼は俺の問いを無視して姉に向けてそう言った。

「こいつがきてから具合が悪くなったんだ」

弟はさらにそう続けた。

…!!

俺は急に脈拍が上がって、呼吸が苦しくなる感覚を覚えた。

「君はいったい何を言っている???」

俺はもう一度、彼らに問いかけることにした。

これらの彼らの会話の全てが机上のドラマ。

俺をただ不快にさせるだけの彼らの余興でもいい。

彼らの口からそんなことが発せられるのを俺は望んでいる。

「ほら、知らないんだよ」

しかし、彼女は弟にそう言った。

あくまで、彼らは俺に事実を打ち明けようとしない。

俺はそんな彼らに対して、感情を抑え込むことが出来ない。

俺はそれほどまでに出来上がった人間ではない。

「さっきから君たちは何を言っているんだ!!」

俺は気が付くと子供相手に大声で怒鳴っていた。

再び沈黙が訪れる。

しかし彼らは驚いているわけでも、俺に恐れを抱いているような感じでもなかった。

弟の方は変わらず俺を睨んでみていたし、彼女はさっきと変わらず少しばかり悲しそうな顔をしていた。

「すまない」

俺はそれでも、突然大声を出したことを詫びておいた。

「お姉ちゃんはですね」

そんな俺に重ねて彼女はとぎれとぎれに、そう言う。

「お姉ちゃんは昨日の夕方、病院へと運ばれたんです」

「!!?」

それを聞くなり景色がぐにゃりと曲がって、地面が揺らめく。

まるで幻覚を見ているかのように。

しかし、それもほんの一瞬の出来事。

俺の中にあるいくらかの意識は、再び俺を現実へと引き戻す。

「いったい、なにがあった?あの子はどうなった!?」

俺はあくまでも現実を知ろうとする。

そこに救いを求めて。

そこに救いがないことを知っていながら。

「実は…。ここ数年止んでいた発作が突然起きたんです」

彼女はおそるおそるそう言った。

「やっぱりこいつのせいなんだよ」

弟は姉の話に割って入ってそう言った。

「いつ、どこで彼女を見つけた?」

俺は少年の罵倒など気にもせず彼女にそう尋ねた。

「最初に見つけたのはあばあちゃんです」

「防波堤で倒れていた、と言っていました」

彼女は低い声でそう言った。

「こいつがきてからなんだ」

弟はそう呟いた。

「ああ。君の言うとおりかもしれない」

俺は少年に向けてそう言った。

「え?」

彼女は俺のほうを見て驚いたような声をあげた。

「君の言っていることも決して間違ってはいないという事だ。今まで数年間止んでいた発作が突然起こるわけもないだろう。

でも困ったことに俺には一切心当たりがないんだ」

彼らは黙って俺の話を聞いていた。

「信じてほしい」

そして俺はそう加えた。

「ところでそのおばあちゃんとやらは、どこにいるんだい?」

さらに俺はそう続けた。

「お姉ちゃんに会うために病院に行くと言っていました」

彼女はそう言った。

「こんなやつ。病院に行かせちゃだめだ」

弟はそう言った。

「あんたは黙ってて」

彼女は弟を叱った。

「場所はわかるか?」

俺はそう尋ねた。

「はい」

「でも、その前に気になることがあります」

彼女はそう言った。

「何だい?」

俺はそう返した。

「あなたは一体どうして海音にやってきたんですか?」

彼女は力強くそう言った。

「さあね。それは俺にもわからないんだよ」


船浦へは海音から十五分ほど列車に揺られてたどり着いた。

列車は海音駅を出発するとゆっくりと橋梁を渡って、警笛を鳴らしながら穏やかにトンネルに入った。

それからは幾度とトンネルが続き、森林に囲まれた山間部を走り抜けた。

船浦へ着くまでの、最後のトンネルを抜けると間もなくして、越えてきた山の海側の遠方に二三の風力発電所のタービンを見ることが出来た。

タービンはいずれも稼働しているようで、このまましばらくは回り続けるのだろうと思った。

山を越えてからしばらくの間、田園風景が続いた。

目立った構造物といえば、海の方へと連なる鉄塔ぐらいであった。

その連なる鉄塔を見ると、俺はたまらず冒険心のようなものに駆り立てられた。

俺はいっそのこと運転手にでも頼んで、このあたりで降ろしてもらって、ここから送電線に沿って海の方へと歩いてみたくなった。

そして、一つの鉄塔に着くたびに、休憩して飲み物と一緒にサンドイッチをつまむのだ。

しかし今の俺はサンドイッチは勿論、飲み物さえも持ち歩いていないので、ここから降りて海へ歩くには全くの準備不足と言わざるを得なかった。

線路沿いに家々や工場が点在するようになると、列車は緩やかに徐行を始めた。

すると、窓からほのかに海の切れ端を見ることができた。

俺と海との距離は、気が付けばそれほど遠くないように思えた。

遠方には(海とかなり近い所に)製錬所に聳え立つ赤と白の縞模様の煙突を見ることが出来た。

煙突から煙が吹いているかは俺の視力ではわからなかったが、煙は吹いていないだろうと思うことにした。

至る所に点在していた建物は、景色が進むにつれてほとんど隙間なく、辺りを敷き詰めるようになった。

その連続性は線路沿いだけでなく、線路から遠くの海に至るまでも同様だった。

それらは一つの町を形成していた。

この町そのものが船浦なのだろう。

こうした妙なまとまりの良さは、海音とはまた一味違った雰囲気を醸し出していた。

車掌は船浦駅へと到着することを車内スピーカー越しに告げた。

車掌の声は何やら少しあわてているように聞こえた。


駅前だけで判断すれば、船浦は海音と比べて、すこぶる発展しているというわけでもなかった。

駅前だからといって高層マンションが建っているわけでもなかったし、大型スーパーやパチンコ店もなかった。

しかし駅を降りるとすぐそこには県道が通っていて、右から左へと絶え間なく自動車や大型トラックが走っていた。

県道沿いに並んでいるのは小さなコンビニエンスストアと民宿をはじめとした家々だった。

昨日駅員が言っていたように、この程度の町なら泊まる場所には困らないだろうという気がした。

俺は、青信号になって自動車やトラックが止まったのを確認すると、県道に設けられた横断歩道を渡った。

そして、今度は家々の隙間に入り込むように、小道をひたすら歩き続けた。

道幅があまりにも狭かったので自動車が接近する音が聞こえてくるたびに、ほとんどブロック塀にへばりつくみたいに脇へと逸れる必要があり、心底煩わしかった。

そんな毛細血管のような道のりが幾度となく続き、曲がっては別れてを繰り返していくうちに、大通りへとぶつかった。

大通りを越えると、いよいよ潮の香りが漂ってきた。

海はもう近い所にあるようだ。

大通りから直角に伸びた真っ直ぐな道はしばらくすると、つきあたりに到達した。

この先は木が生い茂っていて、ここからだと海へと進むことが出来ないようだ。

俺はつきあたりから左に曲がり、<船浦シーサイドホテル>と書かれた看板のある建物を通り過ぎて、すぐ隣の建物へと入った。


建物を出ると、大きく伸びをしながら深呼吸をした。

無意識の内に何故だか大分血流が滞っていたようで、ゆっくり呼吸をすると全身に血液が行き渡るような感覚をおぼえた。

俺は看護師に白いワンピースの少女の事を説明して、彼女の病室を訊ねた。

しかし看護師は俺が探している白いワンピースの少女の事を知らないと言った。

子供たちは確かにここで入院していると言ったのだ。

彼女が嘘をついているようには思えない。

そして弟の反応をみてもそれは明らかだと思った。

彼は俺が病院へ向かうことを心底嫌がっているように思えたからだ。

あの時、本当に俺を騙していたなら、あのタイミングで露骨な嫌悪感を示すことはない。

勿論二人で一芝居を打っていた可能性もある。

しかし、そんなことにいったい何の意味があるかはわからなかったし、第一二人で協力して俺を欺くほどにお互いに機転が効かせられるような間柄には思えなかったのだ。

嘘を付く人間というのは、日頃からそれ相応の訓練をしているのだと俺は考えている。

複数人で嘘を付くのなら尚更である。

確かにそれは嘘の程度にもよるのだが、相手を本気で騙すにあたって一切の違和感を抱かせてはならないというのは同じなのだ。

勿論、そういった感情を隠すことに対して、一切の動揺を示さない人間というのも山ほどいる。

しかしあの子供たちがそういった部類の人間に属するとは思えなかった。

とにかく俺はやるべきことを失って、行き場のない気持ちになって少しため息をついた。

一方で俺が次に何をするべきかは自分の中で決まってもいた。


俺は気分転換に人気のない砂浜をただ無心に歩いていた。

「おーい。そこの兄ちゃん」

その時、背後からそんな声を聞いた。

俺は、それが自分に対して発せられた声であると認識できてないというような態度をとった。

しかし、声の主は再び構わず話しかけた。

「そこでなにをしとるんだ」

声の主はそう言った。

声の主は六十代ぐらいの老人だった。

顔は全体的に前の方に突き出ていて、肌は焼けていて、赤みを帯びていた。

「色々なことを考えていました」

俺はそう答えた。

「え?」

彼はそう言った。

「女かあ?」

彼は口をガバッと開けて笑いながらそう続けた。

それはまるで巨大なワニのようだった。

そして彼は、釣りの道具を持ちながら俺に手招きした。

「釣りはあまり得意じゃないです」

俺はそう言った。

「兄ちゃん、釣り出来るのか?」

彼はギョッと目を見開いて、声を大きくしてそう言った。

「今は出来ません」

俺はそう言った。

「少し見ときな」

彼はそう言うと、準備を始めた。

「ここらはよく釣れるんですか?」

俺はそう尋ねた。

「いいや釣れねえな」

彼はそう答えた。

「釣れないのに釣りを?」

「ああ。そうだ」

彼は、釣竿に一通りの仕掛けを施し終えると、俺の方を向いてきっぱりとそう言った。

「で?どんな女なんだ」

彼はそう尋ねた。

「どこかに消えてしまったんです」

俺はそう言った。

「消えただあ?」

彼は驚いたような声を上げた。

「なんとも情けねえ話だな。兄ちゃん」

そして笑うようにそう言った。

すると、彼の大きな腹から自然に発せられたような甲高い声をあげながら素早く竿を振りあげると、

魚を引き寄せる針を勢いよく遠くのほうに投げた。

彼は満足げに海の方を見ていた。

「そうですね」

俺は、彼が針を投げ終わったのを確認すると、その通りだという風な口調でそう言った。

「きっと兄ちゃんから逃げたんだろうさ」

彼はそう言うと、ずるずるとゆっくり糸を巻いた。

「そういうことではないと思います」

俺ははっきりとそう答えた。

「おお。そうか」

彼は変わらず、糸を巻き続けるながらそう言った。

「発作が起きたようです」

俺はそう言った。

「発作?」

彼は巻くのを止めて、俺の顔をみてそう言った。

「はい」

俺はそう答えた。

「何の発作だ?」

彼はそう尋ねた。

「わかりません」

「けれど、そのことと俺が関係しているような気がします」

「いやそりゃきっと、喘息ではないかな」

しかし彼は俺の言葉を遮るようにはっきりそう言った。

「喘息?」

俺はそう聞き返した。

「あんたどっからきた?」

彼はそう尋ねた。

「大坂です」

俺はそう答えた。

「それじゃあわからんね」

彼はぶつぶつと残念そうな調子でそう言った。

「一時期、ここらで喘息が流行ってね」

「どうしてかわかる?」

彼はそう問いかけた。

「工場が原因でしょう」

俺はそう答えた。

「そうそう。十年前くらいになるかな。コンビナートがじゃんじゃか建ってね」

「ちょうどこっから津島にかけてだ」

「なるほど」

俺はそう言った。

「海音は知っているか?」

「はい、昨日は海音にいました」

「そうか。あそこは酷い寂れようだったろう?」

俺は黙って頷いた。

「ずっと前はね、あそこはここらではよく釣れるとこで有名だったんだよ。昔はよく釣りにいったものだった」

「信じられないか?」

彼は俺の顔をみながらそう言った。

「あそこは潮の流れが良い場所なんだ。養分も豊富だしなにより魚が集まりやすい」

「だから工場が建って、汚染物も流れたわけですね」

俺は相槌を打つようにそう言った。

「そうだ。特に海音はひどかったな。海水の汚染も、大気汚染も」

「それで喘息を発症する人も増えたと」

「ああ」

彼は頷いた。

「建設の反対はしなかったんですか?」

「反対したさ。俺も反対していた」

「でも俺のようなやつは珍しい。本来俺のように船浦の住民は反対したりはしない。

もともとここは漁場じゃないんだ。それに、工場建設で景気が良くなることを考えれば反対する理由はまったくない」

「なるほど」

「反対していたのほとんどは海音の住民だ」

彼がそういうと、俺はゆっくりと頷いた。

「でもまあ反対派があまりにも少なすぎた。それにいくら海音がよく釣れるとはいっても海音みたいなところは少し遠くに行けばやまほどあったからな。

海音の住民でさえ大部分は建設に反対しなかった」

「しかし海音は廃れてしまっていますね」

「ああ。そうなのだ」

彼はここからが本題とばかりにゆっくりとそう言った。

「海音がこうなったのも、工場が建てられたから結構後の話だ」

「というと?」

「工場による大気汚染が思った以上に深刻化していた」

「それで喘息を発症したと?」

「ああ」

「しかしそれは事前に想定できたことでしょう」

「今ならそう言えるだろう。連中も想定はしていたようだ。しかしあの汚染レベルは連中の予想を遥かに超えていたんだとよ。信用ならないがな」

「そうですね」

「しかし住民が公害病を引き起こしたとなれば連中からしても大問題だ。原因はわかっていないが、やつらも肝を冷やして、急いで対応策を講じた」

「近隣への移住ですね」

「ああ。海音の港町地域に限っては、ここやら津島への移住ができた」

「しかし、話がまた戻りますが、海音だけ汚染が深刻化しているというのも妙ですね」

「ああ。そうなんだ。しかしはっきりした原因はわからん」

「でもおそらく空気の流れが関係しているようにおもうね」

「なるほど。つまり隣町の工場の大気中の汚染物質までもが全て海音に流れていたと?」

「おそらくな。それも異常なほどだ。ともかくまあ喘息の初期症状が見られた住民は早々に移住した」

「しかし移住を拒んで中期、末期症状まで進行しちまったものもいた。主に老人に多かったがね」

「年配の方々はあまり移住しなかったわけですか?」

「そうだ。老人はあの土地でずっと生まれ育ったようなのばかりだ。そしてどのみち先が長くないからな。仮に病を患って死んだところで喘息によるものかもわからない。

今更故郷を捨ててまでわざわざ移住する気にもならなかったんだろうな」

「喘息による死亡者は出ていないんですよね?」

「出てないさ。一部の老人は移住を拒んだが、それでも喘息もほとんど大した症状ではなかった。一時期公害病として問題にもなりかけたが、自体は丸く収まったよ。

しかし、知り合いに妙な病にかかった子がいたな」

「妙な病?」

「ああ。一人ね。海音の食堂やってた死んじまった友人の娘でね。今でもあそこの病院におるよ。医者もわかっていない原因不明の奇病だ。あれも工場のある特定の汚染物質によるものか、

喘息の合併症とも言われているがどうなんだろうな」

「合併症?」

「わからんよ。今のところはっきりとした証拠は出ていない。それに、もし工場のせいだと知れれば大問題だ。ともかく医者はあれを海音病と呼んでいる」

「…海音病?」

「不思議な病だ。ある日を境に意識をぽっかり失ってしまったんだ。植物みたいに」



列車がぶるぶると車体を振動させながらホームに進入すると、車体から噴き出た排気の匂いと共に、もわもわとした熱気がホームに立ち込めた。

蛇腹式のドアがガラガラと開くと、そこに乗っていたであろうほとんどの乗客をホームに降ろした。

しばらくすると運転手も一旦ホームに降りて、車両の正面をぼんやり眺めながら(あるいは何かを確認していたのかもしれないが)ブツブツと何か意味ありげなことを呟いて、

再び列車の運転台へと戻った。

俺は列車内へと足を運んだ。

降り立った人々が改札を抜け、ふたたびホームに静寂が訪れた頃、列車の扉はガシャリと必要以上に大きな音を立てながら、ゆっくりと閉まった。

そして列車は、虫の鳴き声のような甲高い音を鳴らしながら、緩やかに加速を始めた。

乗客は俺の他に誰一人としていなかった。

俺はここへ向かったときと同じようにぼんやりと窓を眺めた。

空は赤みを帯びていた。

赤い空はこの町の色を同じように染めていた。

過ぎ去る建物の窓ガラスには赤い空が映った。

建物の屋根はほのかに燃える蝋燭の炎のように黄色く染められていた。

行く時と違って、今度は工場の煙突から煙が出ているのがはっきりと見えた。

煙突から噴き出た薄黒い気体の塊は上空に上りつめるまでもなく、すぐに行き場を失って赤い空に溶けていった。

列車は市街地を抜けると、向かった時のフィルムをそのまま逆回し(とはいえ様子は行く時と大分異なってはいたものの)したように田園地帯を走行した。

長く伸びきった列車の影は、田畑をすっぽりと覆った。

同時に一日の終わりを告げる陽光は、田畑を一様に照らし、全体としては黄金色に輝かせた。

そうして列車はトンネルへと入った。


列車は海音駅へ到着した。

俺はホームに降りて、古ぼけた駅舎を出ると、何年かぶりにこの町に来たような気になった。

夕陽はこの小さな町も照らしていた。

世界はまだ終わっていなかったのだ。

俺はさっきと変わらない赤い空を見ると少し安堵した。

しかし、それはすぐに焦りへと変わった。

俺はこの小さな町が終わりを告げられてしまう前に、どうしてもやっておかなければならないことがあるのだ。

それは俺にとって重要なことだ。


川の水は黄金色に染まっていた。

ここを流れる川が今この瞬間においてこんなにも明確な色を持つことが信じられなかった。

俺はひょっとしたら川の水に触れることができるかもしれない。

しかし、俺は川の水に触れてみようとは思わなかった。

今の俺はとにかく先へ進まないといけない。

この世界が終わってしまう前に、この先にたどり着く必要があった。

初めて川に訪れた時、川遊びをしていた少年や少女の姿は、ここには無かった。

彼らはもう帰るべきところへと帰ってしまったのだろうと思った。

俺はふと自分の額から大量の汗が滲み出ていることに気が付いた。

もう何かに憑りつかれたように、気でも狂ったかのように川沿いを歩き続けていたので、自分の身体がどんな状態になっているか気にならなかったのだ。

このままなら俺は内臓の1つや2つがなくなってしまっても気づかないだろうし、手足の1つや2つが消えてしまっても気づかないだろうとすら思った。


川沿いから逸れて小さな細道を歩くと、空間を失い、人をも失った家々の残骸をぼんやりと眺めた。

すると黒く小さなものが残骸の合間を縫うようにトコトコと歩いているのを見つけた。

それは一羽のカラスだった。

彼は入り乱れた残骸の中をぐるぐると回っていた。

そして一瞬だけ止まって首を少し上へ傾けて何かを見ていた。

それでも俺がいることには気が付いていない様子だった。

彼はもうその何もかもが失われた場所の住民だった。

俺はそれを見ると不思議と胸がじわじわと温かくなる感覚を覚えた。

こうして俺は行くべき場所へとたどり着いた。



「やっぱりここにいたんだね」

俺は防波堤に座る白い背中に向けてそう言った。

返事は無かった。

「どうしてあの時黙って行ってしまったんだい?」

俺は続けてそう言った。

「気持ちよさそうに寝ていたから」

少女は俺の方を振り向かず、退屈そうな声でそう答えた。

「本当かい?」

俺はそう言って、ちょうど人一人分以上の間隔を開けて彼女に並んで座った。

「ええ、とても」

彼女はそう言った。

そしてまたしばらくの間、無言が続いた。

このまま夕陽が沈んでいくのをこの少女と共に眺めるのも悪くないと思った。

「どうしてここにきたの?」

しばらく経つと、少女は思い出したかのようにそう尋ねた。

「どうして場所がわかったかって?」

「違う。この町に来た理由」

「どうしてなのかそのうちわかる気がする」

俺はそう言った。


「連れていきたい所があるんだ」

俺は思い出したかのようにそう言った。

「……。どこ?」

「それは君が一番よく知っているんじゃないか?」

「いつ?今?」

「うん。陽が沈んでしまう前に」

「でもそんなことよりも」

「なに?」

「まず決めてほしいんだ。ついていくかいかないかを」

「決めるまでもないと思うけど」

「それでもだ」

「これは君にとっても、僕にとってもとても大事な事だ」

「考える気にならないわ。だってこれはずっと前から決まっていたことなの。あなたがここに来る前から。この町に来る前から。

もしかしたら私たちが生まれる前からずっとね」

「決められてたかどうかの話じゃない」

「決められていたかどうかの話なの」

「………。後悔しないのかい?」

「どうして後悔するかがわからないのだけど」

「どうしても行くんだね?」

「ええ。行くわ。どんなことがあっても」

そう言った彼女はどこか悲しそうな顔をしていた。


俺は彼女を連れて、海をあとにした。

瓦礫の中を徘徊していたカラスはもうどこにもいなかった。

俺はここを発つ前にあの食堂に寄って、最後にもう一度老婆に挨拶をしてコロッケ定食でも食べたいと思った。

今振り返ってみても、あれは決して美味といえるものではなかったが、そんなことは大した問題ではないだろう。

しかし、俺たちに残された時間はコロッケを食べるにはあまりにも短かった。


俺たちはいつもの川沿いの道でなく、他の道を歩くことにした。

俺に限って言えば、もうこれ以上あの川の水を眺める気にはならなかったからだ。

「もう少しゆっくり歩かない?」

彼女は、歩き続ける俺の背後からそう言った。

「ああ。そうだな」

俺は我に返ったような声でそう言った。

「もっと早く歩けるから別にいいのだけれど」

「いや、こんなものでいいだろう」

俺は歩くペースを緩めると、落ち着いた声でそう言った。

「それで、わかった?」

彼女は俺にそう言った。

「なにを?」

「あなたがここにきたわけ」

「ああ」

俺は頷いた。

「さっき君が言ったとおりかもしれない」

「私?なんて言った?」

「俺たちが生まれるずっと前から、決められていたことなのかもしれない」

「運命的なことだって?」

「うん」

「私と会ったことも?」

「うん」

俺は頷いた。

やはりセミは鳴いていなかった。

この大きな通りも、あの川のような無音の世界だった。

この町全体は、あるいは俺たちの世界は、本当の意味で終わろうとしているのだ。

俺たちの歩みを止めるようなものは何もなかった。

見渡す限りどこにも人影はなかったし、車一つ過ぎ去ることは無かった。

とはいえ、仮に邪魔をするものがあろうとも気にもしなかっただろう。

俺たちはとにかく歩き続けるしかないのだ。


沈黙の中、機械的な音が甲高く聞こえてきた。

それは踏切の音だった。

「ここだよ」

俺は駅舎を指さしてそう言った。

「電車に乗るの?」

「うん」

俺は頷いて、駅舎の中へと足を運んだ。

駅舎の中には俺たちの他には誰一人いなかった。

「そこらへんに座って待ってて」

俺は彼女にそう言った。

彼女は座ろうとはせず駅舎の内部をぐるぐるとまわり、至る所を見回していた。

俺はそれを見ていると少しだけ愉快な気持になって、息を吐き出すように、少しだけ笑った。

「なくさないでね」

俺は券売機で購入した二つの切符の内の片方を彼女に手渡した。

「なくさないわよ」

「でも乗るのははじめてなんだろう?」

「はじめてよ。でもよく知ってるの」

「へえ」

俺はそう言って、改札口の駅員に切符を見せた。

彼女も続いて、同じようにやってみせた。

その時、ちょうど列車がホームへとやってきた。

やはり列車には誰も乗っていなかった。

俺たちは列車のドアが緩やかに開くと、中へと進んだ。

俺は奥のボックスシートへと進もうとしたが、彼女はその前の二人掛けの席に座って

「ここにしましょう」

と言った。

俺もそれでいいと言った。

そして列車のドアが閉まり、加速を始めると、俺は窓をぼんやりと眺めた。

陽の光は今ではほとんど力を失っていたし、外の景色といえば水平線と思われるラインの少し上に薄い赤いラインが浮かんでいるだけだった。

それ以外の領域は、海も空も全て紫色を帯びていた。

列車は川を越え、まもなくトンネルに入ろうとしていた。

トンネルの向こう側の世界は俺たちに何をもたらすのだろう?

俺たちに祝福を与えるのか。

あるいはもっと別の何かを与えるのか。

そもそも何も与えないのか。

そんなことをぼんやりと考えていると今から起きようとしていることの全てが運命的だと言った隣の少女の言葉が頭に響いた。

すると俺は考えたり頭を悩ますこと自体が、なんだかばかばかしくなってきた。

俺は少女の方に目をやった。

少女は、俺の目線にも気づかずただ俺の隣に座って、何かが終わるのを、あるいは何かが始まるのをじっと待っているだけだった。

それは映画の始まる前の宣伝をぼんやり眺めている観客ともいえるし、最後のエンドロールが流れる間の観客のようであるとも言えた。

勿論、彼女はポップコーンのようなものは持っていなかった。

しかし、劇場の観客だってそのほとんどはポップコーンを意識的に食べているわけではないだろうし、状況としては彼女と似たようなものだろうと思う。

そんなことを考えながら、少女の白いワンピースの膝元を見ているとなんだか不思議と気持ちよくなってきた。

どのように気持ちがいいのかは自分の人生経験の範囲ではおおよそ説明のしようがなかったが、気持ちがいいというのが一番しっくりくる言い回しであろうとは思った。

彼女は列車が発車してからは、これまで以上に俺に一切話しかけなかった。

俺も彼女には何も話しかけなかったし、話しかけようとも思わなかった。

しかし、彼女がそこにいなければ、俺はきっとひどく寂しい思いをしてしまうのではないかと思った。

今思えば、俺は人生において寂しいと感じるようなことはほとんどなかったように思う。

それは決して、孤独を感じるべき環境にいなかったということではなくて、俺自身が孤独のようなものを進んで受け入れ、欲しているような所があったからではないだろうか。

俺はいつの日も孤独を誰よりも好んでいただろう。

あるいはそれは本当の孤独ではなかったのかもしれない。

しかし、俺の周りの多くの人々が孤独だと呼んでいるものが俺にとって最高の至福の1つであることは間違いなかった。

何故俺がそういう人物であるかはわからないし、そういうことをいちいち考える気にもならなかった。

それこそ運命的なことなのかもしれない。

しかし、今だけは違った。

どうやら俺は彼女にずっとそこにいてほしいのだと、今この瞬間において俺自身が願っているということだけは認めざるを得ないようだ。

それでは逆に彼女にとって俺はどういう存在なのだろう。

彼女は俺の事をどう思っているのだろうか?

俺にはわからない。

そしてそれはおそらく俺が考えるべきことではない。

この世界というのは人の数だけ多くの世界をも秘めているものだといつの日も確信している。

そして各々の世界は決して交差することはないとも。

仮に同じ時間、空間を共有していたとしてもそれは変わらないだろうと。

俺は俺で、彼女は彼女なのだ。

そして俺には彼女の世界がどんなものなのかはわからない。

だからこそ、これまでだって俺自身の存在が他人の世界にどういった反応を引き起こすかについては、あまり気にはしてこないでいられたように思う。

あるいはそういった反応を無自覚に避けていただけかもしれない。

もしくはどこかで世界に交わりが生まれるようなことを諦めていた部分もあったのかもしれない。

しかし今はもうそんなことはどうでもいい。

ここには俺と彼女の他に誰もいやしない。

ここは本当に観客が二人だけの深夜の郊外の小さな劇場のように思えた。

そして、俺は映画が始まってもいないのに、というより始まってもいないからこそ、少女の隣にいてとても気持ちがいいのだ。

しかし俺たちはまもなく始まるであろう映画を観なくてはいけなかった。

出口のない劇場でドラマを見る義務があった。

それは彼女が選んだ道でもあり、何より俺が選んだ道だ。

きっと始まってしまったら、後悔することなんてないだろう。

そして俺が今味わっている気持ちよさなんて綺麗に忘れてしまうのだろう。

列車は警笛を鳴らした。

その警笛音はまるで大きなコンサートホールの上映開始のブザーのようにも聞こえた。

俺はそれを聞いて、ゆっくりと目を閉じた。









「海の音-青年とカラス-」へと続く。

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