一日目
木製の引き戸に埋め込まれた銀色の取ってに手をかけて、戸を開けようと試みた。
開けるのにそれなりの力を加えたが、戸は一向に動く気配を見せなかったので、ひょっとしたら鍵がかかっているのではないかと思った。
しかし、それでも構わずにさらに強い力をもってして戸を開けようとした。
すると戸は俺が想像するよりも勢いよく動き、また俺が想像するよりも長い距離だけ移動した後に、突然ピタリと静止した。
その長さは人一人分が入るには十分過ぎる程に広かったので、取っ手から手を離して、中に入ってみることにした。
中は見渡す限り、誰の姿も見えないということがわかった。
俺はひょっとしたら何かの間違いでこの中に入れてしまったのではないかと疑いたくなった。
だから一度外へ出て、本当に俺が入っていいものであるか確認しようとさえ考えたが、今さらそれをやるのはかえって不自然に思われる気がしたので、そのままここにいることにした。
「ごめんください」
俺は少し小さめの声でそう言ってみた。
しかし、俺の口から発せられた音はこれまた俺の想像よりもずっと大きいものとして俺の鼓膜へと届いた。
こうなることは漠然と予想できてはいたので、出す音量を通常よりもずっと小さくしようと試みたのだ。
にもかかわらず結局失敗に終わった。
想定が大分甘かったのだ。
本当は誰かの耳元で囁くくらいの、蚊の羽音くらいの音量で良かったのかもしれない。
そんなことを考えていたものの、結局俺の言葉に対してはどこからも何も返ってこなかった。
そうなると必要以上に大きな音量で声を発してしまったことを少しでも後悔していたのが馬鹿みたいに感じられ、同時に行き場のない憤りのようなものを感じつつ、少しばかりため息をついた。
とはいってもそれほど憤っているわけではない。
仮に憤っていたとしてもそれは自分を構成するありとあらゆる感情の中でもごくわずかなもので、心持ちの大部分は虚無だった。
虚無とは要するに何も感じていないということだ。
勿論、何も感じていないというのは俺の感情の話であって、今自分が置かれた状況はなかなかに異常ではないかと思った。
なので俺は諦めて外に出てしまう前に、俺の立っている辺りをじっと見渡してみようと思った。
まずはじめに、俺がいる空間は馬鹿みたいに広く感じられた。
正確な距離と言うのは、あまりよくわからない。
そんなものは知らなくてもいいのかもしれない。
確かに距離と言うのは、俺が知るありとあらゆる概念の中でも、相当に普遍的なものであると思うのだが、こういった場面でそれを知ることに、あまり意味はないと考えている。
勿論、距離を知らなければ、早い話正確な地図を描くことはできないし、ものの大きさだって掴むことができない。
そうなれば我々の日常生活はたちまち崩壊してしまうだろう。
距離を持っているもの、大きさを持ったものはことごとく我々が生きていくうえで欠かせないものばかりだ。
例えば正確な水の量を測ることも出来なければ、土地の大きさだって知ることができない。
そうなれば、それらにまつわる合理性や公平性も損なわれるだろう。
我々は合理性や公平性といった中でお互いを尊重し、時に主張し合いながら生きているのだ。
そしてそれは我々の生きるごくごく身近な日常に留まらず、より広いスケールでも全く同じことがいえる。
すなわち崩壊の範囲は日常レベルにとどまらない。
世界が終わると言っても差し支えない。
しかし、それがなんだというのだ。
少なくとも今俺の置かれた状況を鑑みれば、部屋がどれだけ広いかを長さのわかる物指しを持ちながらせこせこと測るよりも、なんとなく広く感じられるなあと思うくらいの方がよほど適した対応と言える。
距離が幾ばくかは大して重要ではあるまい。
どちらかというと俺がいまここで広く感じられたことに意味があるのではないか。
なので俺は、なぜ広く感じられたのかを考えてみることにした。
まず第一に考えられる原因として、ここには俺の他に誰一人いないということが思い立った。
それはそれ自体異常なことであるし、部屋が馬鹿みたいに広く感じられた理由としても十分すぎるぐらい説得力のある要因である。
第二にこの部屋には余計なものがほとんど至る所何もないということである。
ここでの余計なものと言うのは、普通に生活していく上でとりたてて必要とされないものである。
例えば、骨とう品や絵画、蝋燭立てのようなものだ。
実際、部屋を見渡してみると、部屋を囲む薄茶色の木目の壁があり、その壁には何一つ家具が掛かっていない。
時計の1つぐらい掛かっていてもいいものであるが、本当に何もないのだ。
それはまるで芝生や樹木が辺り一面そぎ落とされた禿山のようだった。
部屋の隅には同じように木でできた小さな机があり、その上にちょうど机全体をすっぽり覆うように立方体の黒い旧型テレビが置かれていた。
壁の回りから部屋の真ん中に至るまでは、相変わらず何一つ(ゴミの一つだって)置かれていない床が広がっていて、中央には一つの大きな長方形の机と、その周囲に規則正しく配置された椅子が置いてあるだけであった。
椅子の数は、長方形の長い辺の方に沿って四脚、向かい側にも同じ数だけ配置されていた。
短い辺の方には椅子は置かれていない。
天井を見ても当然特別なものは何もぶら下がっていなかった。
まとめると、この部屋において余分なものは何一つないし、かろうじて役割を果たしていそうなものは旧型テレビと長方形の机と八脚の椅子だけであった。
しかし、これで諦めて外に出てしまうのはまだ早いと思った。
俺が入った<ここ>はまだこの部屋で終わりではないのだ。
入口と真向いにあたるところには赤茶色の無地ののれんがかかっていて、その向こうには奥へと続く廊下が続いているように見えた。
〈ガ--ガ---ガ〉
その時、そんな異音がのれんの向こう側から聞こえてきた。
それは機械が発するような人工的な音色だったが間違いなく声だった。
音程は低く、かすれたものだった。
「ごめんください。そちらにどなたかいらっしゃいますか?」
俺はさっき発したよりも幾分と大きな声でそう言ってみた。
すると今までジリジリと続いていたかすれた異音は、突然ブチっと消えて、ガサガサと紙を畳むような音が聞こえた。
そしてキィーという椅子の背もたれが動くような音が聞こえてきた。
間違いなくのれんの向こう側には誰かいるのだと思った。
すると間もなくして床を何者かがゆっくりと歩く音が聞こえてきた。
俺は少し後ずさりして長方形の机の上に手を置いた。
すると、のれんから一人の老婆が出てきた。
老婆は俺が今ここにいるということをまるで認識していないというような顔をしていた。
「注文はなに?」
老婆はそう言った。
「コロッケ定食」
俺はそう言った。
「え?」
老婆はそう聞き返した。
「コロッケ定食」
俺は大きな声でそう言った。
「一つね」
一つ? 俺は彼女が何を言っているのかわからなかったが、それはおそらくコロッケの個数のことではないかと推測した。
今思えばここを入る前、戸の張り紙にそんなことが書いてあったのを見た気もしてきた。
しかしたとえ書いていなくても決して不思議ではないと思った。
「はい」
俺は一つであることを了解することにした。
へたにコロッケの数を増やせば値段がいくらか上がることは常識的に考えて明らかだったからだ。
紙に書いてあったコロッケ定食の文字列の脇に書かれた<350円>が今の俺にとって手頃な値段だったから
この店に立ち入ったのであって、それが五百円近くにも跳ねあがっては話にならない。
「三百五十」
老婆は俺にそう言った
そして俺が財布をリュックから出して硬貨を出そうとする前に、のれんの向こう側へと歩いていってしまった。
しかし、老婆はまたすぐに戻ってきて子供の玩具のようなプラスチック製の緑色のコップに水が入ったものを持ってきてこう言った。
「好きな所に座るとええ」
「はい」
俺はそう言って、端の椅子に座り、足元にリュックを置いた。
そして手に収まった三百五十円分の硬貨をみた後、老婆の顔を覗き込んだ。
「はい」
老婆は硬貨を確認してそう言うと、手のひらをお椀のように丸めた。
俺は老婆の手のひらに硬貨をゆっくりと落としていった。
すると老婆は硬貨をもう片方の手で数えながら、ブツブツと数字を呟いた。
「三百五十ね」
最後にそう言うと、再びのれんの向こう側に足をすすめようとした。
俺は老婆が向こうに行ってしまうより早くこう尋ねた。
「テレビを点けてもよろしいですか?」
「なに?」
老婆は聞き返した。
「テレビをお借りしてもよろしいでしょうか?」
俺はより大きな声でそう言った。
「テレビ? ああ。それはもうつかえへん」
老婆はそう言った。
「そうですか」
俺はそう言った。
「すまんね」
老婆はそう言った。
「ラジオならあるけど。向こうからとってくるか?」
老婆はそう俺に聞いた。
その時、あののれんの奥から聞こえたかすれた異音がラジオからのものであったと確信した。
「いえ結構です。お心遣い感謝します」
俺がそう言うと、老婆はのれんの向こう側に歩いて行った。
十分(店にも手元にも時計がないので正確にはわからないが)ほど経過すると老婆が、コロッケ一つに千切りキャベツを盛り付けた皿と、
白米の入ったお椀を机に置いてこう言った。
「はい。コロッケ定食ね」
俺は老婆に軽く頭を下げると、老婆はまたスタスタとのれんの向こう側へと歩いて行ってしまった。
「ごちそうさまでした」
俺はそう言うと、老婆が水の入ったピッチャーを持ってのれんから出てきてこう言った。
「ああ。水持ってくるの忘れてたね」
「そのようですね」
俺はそう言った。
「いただきます」
俺は続けてそう言って、コップに水を少しだけ注ぎ、一気に飲み干した。
それは一杯目よりも少しだけ冷たく感じられた。
「食器はどこに置きましょう?」
「そのままでいいよ」
「そうさせていただきます」
俺はそう言うと、足元に置いてあるカバンを背負った。
「失礼ですがお客さんの姿があまり見えませんね」
俺は老婆にそう言った。
「そりゃそうさね」
老婆は何を言っているんだ、というような顔を俺に向けてそう言った。
「え?」
俺は聞き返してみた。
「みなここから出ていったさ」
老婆は独り言でも呟く調子でそう言った。
外へ出るとまずセミがジリジリジリジリとしきりに鳴いている音が聞こえてきた。
そして俺の身体は熱気へと包まれた。
まるで温かいカプチーノの中にどっぷりと浸かっているような感じだった。
俺は陽射しに晒されながらゆっくりと道を歩いた。
歩いて間もなく、顔中から汗が噴き出ていたが、汗を吹きとるハンカチのような気の利いたものは何一つ持っていない。
俺はリュックに必要と考えうるありとあらゆるものを小まめに入れるような人間ではないのだ。
極端な話、リュックの中には財布さえあれば良いと考えている。
登山やジャングルに行くわけではないのだ。大抵の事は金が解決してくれる。
そして金というやつは便利なことに大して場所を食わない。
俺のリュックの容積の大部分を占めているのは衣服だ。
気の利いたものなど何一つ入ってはいない。
それでも歩くたびに汗が流れおちてくるのはたいそう鬱陶しかったので、ハンカチの1つくらい持っておくべきだったと少し後悔した。
そしてとうとう俺の視界に駅舎が姿を現した。
俺は数時間近く前の事を思い出してみた。
俺は大坂へ着くと、大坂から海沿いに進む列車に乗った。
列車に乗っているだけで路線が海岸線に沿ってぐねぐねと曲っているということが理解できた。
行き先などは知らない。
知る必要がないのだ。
ただ列車に乗っていればいい。願わくばその時間ができるだけ俺が想像するよりもずっと長く続いていて欲しかった。
三時間程列車に揺られると、車掌は車内のスピーカー越しに
「この列車はこの先へはご乗車にはなれません」
と言った。
列車は乗客を皆ホームに降ろした後、ドアを閉めどこかへ行ってしまった。
その列車に俺も乗せてほしいと強く感じた。
俺は駅に着くと駅員に何分後に次の電車が来るか尋ねた。
「その先へ向かう列車はあと三時間半きませんね」
駅員はそう言った。
「特急列車でしたら、三十分後にやってきます」
駅員は続けてそう言った。
「特急列車には乗りません」
俺がそういうと、駅員は少し笑いながら、この町を歩いてみてはどうかと提案してくれた。
その後あてもなく人気のない町を歩き、あの客足が途絶えた店に入り、三百五十円のコロッケ定食を食べて、再び駅へと戻ってきた。
改めて駅舎をよく見てみると、駅舎自体は大して面白いと思わなかったが、
「海音駅」と書かれている看板の海の字の`さんずい`の1つが少し消えかかっている所に趣を感じた。
俺は駅舎の待合室の椅子に腰を下ろした。
待合室には年老いた一人の男が新聞紙を広げながら、足を組んで座っているだけだった。
頭上の時計をみると、針はちょうど三時半を指していた。
駅員によれば次の列車が来るまでにあと二時間近くもある。
俺は駅を出てからまだ一時間近くしか経過していないという現実にうんざりした。
こういったときに一人で旅をするのはひどく退屈なものだと思い知らされた。
駅舎は全く快適ではないということに気が付いた。
陽射しが直接当たらない分だけ外よりはましともいえるが、風が通らず熱が籠ってしまうという点においては外よりも劣悪ともいえた。
籠りきった熱気を煩わしく感じているのは俺だけではない。
新聞紙を広げた年老いた男も、顔に付着した汗をタオルでしきりに拭いているのが目に入った。
こういう時は天井に扇風機をつけるだけで随分と快適になるのではないかと思った。
こんなところにあと二時間もいると思うと気が狂いそうだった。
なのでとりあえず何か少しでも気を紛らわせるものがないかと、駅舎の内部を見回してみた。
しかし貼ってあるものといえば指名手配犯のポスターと駅の時刻表ぐらいだった。
「あんたどこへいくんだい」
突然後ろからそんな声が聞こえてきた。
振り返ると新聞を少し傾け、紙の谷間から顔をのぞかせて笑いながら俺の目をじっとみていた年老いた男の顔があった。
「なるべく遠い所へ行こうと思います」
俺は極力男の目を合わせないようにしながらそう言った。
「遠く?大坂か?」
彼は目を丸くしながらそう言った。
「大坂からやって来ました」
俺はそう言った。
「大坂からずっと乗ってきたんかいな」
彼は驚いたような声でそう言った。
「はい」
俺は頷いた。
「ご苦労なこった。ここはどうや」
何の話をしているのかわからず俺は一瞬言葉に詰まった。
「なんもないやろ」
男は不揃いに並んだ歯を見せて笑いながら続けてそう言った。
どうやらこの町のことらしい。
「そんなこともないですよ」
俺も少し笑いながらそう言った。
「あんた、この町に用事でもあるんかいな」
彼はそう尋ねた。
「いえたまたま乗った列車の終点だったようです」
俺はそう言った。
「そうやろうな。ここに来るやつはもうおらん」
目を閉じながらそう言った。
「どちらに向かわれるんですか?」
俺は少し話題を変えて彼にそう質問してみた。
「船浦だ」
船浦は海音の隣町だ。大坂の方へと向かう列車に乗り、ここから二三駅進んだ所だと記憶している。
「漁師やってるやつに会いに行くんだ」
彼はそう言った。
「なるほど」
俺はそう言った。
「今時おかしなやつさ」
彼はそう吐き捨てて
「あんたはどうするんだ?」
続けてそう言った。
「津島のほうへ向かおうと思います」
俺はそう決心でもついたかのような調子で答えた。
「津島?そっちはしばらく来ないよ」
彼はそう言った。
「そうみたいですね」
俺はそう言った。
その後、しばらく沈黙が続いた。
男は視線を下ろし新聞紙をめくりながらため息をついた。
セミの鳴く音がより強まった気がした。
「それにしても暑いですね」
俺は思い出したかのようにそう言った。
「まだまだこんなもんじゃないよ」
彼はまた歯を見せて笑いながらそう言った。
「どこか涼めそうな場所がないでしょうか?」
俺はそう尋ねた。
「涼しい所?」
彼はそう言った。
「ああ。よく子供たちは川岸に沿って歩いておるよ」
「なるほど。川岸に沿って歩けば海へと出れますね」
俺は納得したかのような声を上げてそう言った。
「ええ?海に出てもなにもないよ」
男は不思議そうな目で俺にそう言った。
「といいますと?」
俺はそう尋ねた。
「海なら船浦の方がまだええ。ここらはどこも同じようなもんじゃがな」
彼はそう言った。
俺は老人の言われたように川岸に沿って熱気に包まれたからだを涼めにいくことにした。
気が向いたら海の方にも歩いてみようと思った。
川はさっき駅まで歩いてきた道に沿って、流れていた。
それは俺の想像とは大きく異なるものだった。
俺は川と聞いて、ザーザー流れる音が聞こえ、ひんやりした空気が伝わってきて、
川幅が場所ごとに異なり、所々蛇行して、両岸には大小さまざまな石が至る所に散らばっているようなものを想像していたのだ。
今、俺が見ている川はそれとはまるで正反対だった。
流れる音など聞こえてこないし、水から伝わる冷気は伝わってこない。
およそ三メートルほどの川幅が上流から下流にかけてずっと直線的に続いていて、それは鼠色の分厚いコンクリートの壁の間を流れていた。
コンクリートの壁の高さはその水面から俺の立っている地上までマンションの1フロア分ほどあり、水面に達するには飛び降りるより他はなかった。
水はもはや俺の手の届くところにはないのだ。
一体このような河川でどうやって涼もうというのか。
しかしあの老人の言っていたことはあながち間違いでもなかった。
ここにいるとあの馬鹿げた熱気を不思議とあまり感じなかった。
それどころかセミの音も全く聞こえなかったし、ここだけ切り離された空間なのではないかという気になった。
ただ涼しさのようなものも感じなかった。
潮風に吹かれることもない。
ほとんど何も感じないというのが正しいと思った。
そこは河川というより、静寂と虚構の大地の亀裂だった。
しかし別にそれでも構わないと思った。
本来なら二時間近く味わうはずであった馬鹿げた熱気から解放されたのだ。
俺はあの老人に感謝しなければならないと思った。
今、あの老人はどうしているだろうか。
大坂へ向かう列車はちょうど駅を出発している頃だろうし、今駅舎に行っても彼はいないということだけはわかった。
もしかしたら列車は彼の目的地へと着いているのかもしれない。
俺はあの老人を思い浮かべるのはやめて、下流へ向けてゆっくりと歩いてみることにした。
歩いて数分ほど経つと、珍しいことに人の姿が目に入った。
それも俺の歩く地上ではなく、彼らは水面にいて、俺から見て対岸のコンクリの壁の真下にいた。
彼らはズボンを膝まで上げて、浮き袋のような球状の玩具を抱えながら、水に触れて遊んでいた。
彼らはみな日に焼けていて、褐色の肌をしていた。
そして、皆そろって短髪であった。
俺は、彼らが一体全体どうやってここから水面へと到達できたのかが気になったが、その疑問は思いのほか早く払拭された。
俺は真っ直ぐ下流まで伸びたコンクリの岸に所々出っ張っている部分を見つけた。
その出っ張りは、一人分が立つのに丁度良い正方形の岩場だった。
俺はその岩場に立ってみると、そこから水面に至るまでの階段をみることができた。
そして階段の下方部をみるとそこに白いワンピースを着た小柄の少女が座っている姿を見た。
彼女は後ろ姿から判断するに自分からさほど遠くもない水面をじっと見ているように感じた。
彼女は子供たちの仲間なのかもしれない。
あるいは顔見知りでも何でもなく偶然そこに居合わせただけなのかもしれない。
どちらにせよ、向こうで水遊びをしている子供たちとは川幅一つ分以上の大きな距離を感じ取った。
そして、彼女は彼らよりも一回り年上ではないかとも思った。
「そこ、通る?」
彼女は俺の方を振り返ってそう言っていた。
顔は離れていてもわかるほど、汚れ一つなく整っていて、何より白かった。
白いワンピースの染料が肌に滲み出たのではないかと思えるほどだった。
髪は程々に長く、額を隠していたが、首の付け根まではギリギリ達していなかった。
「通らないよ」
俺はゆっくりとそう言った。
「水遊びに来たんじゃなくて?」
彼女はずっと首をこちらに向けたままそう言った。
「水遊びに来たよ」
俺は笑いながらそう言った。
「君もかい?」
「私は遊ばないわ」
彼女はきっぱりとそう言った。
そして、立ち上がり俺のいる方へと歩いた。
俺は彼女の道をふさがないように後ずさりした。
「はい」
彼女は、階段を上り終えて俺の前でそう言った。
自分が塞いでた道を開けたから、通ってもいいということを言いたいのだろう。
「ありがとう。でもここでは遊ばないよ」
俺は少し申し訳なさそうな顔でそう言った。
「そうなの」
彼女はそう言った。
「もう少し下流へと行くんだ」
「へえ、そうなの」
「戻ったら?」
俺は彼女にそう提案した。
「いいわ。ただぼおっとしてただけだから」
彼女は特に何にも感じていないというような声でそう言っていたのでなんだか安心した。
「邪魔して悪かったね」
俺は低い声でそう言った。
「海に行くんでしょ?」
彼女は重ねるようにそう言った。
「そうだよ」
俺は頷いた。
「私も行く」
彼女はそう言った。
「あの子達は?」
俺はそう尋ねた。
「知らない」
彼女ははっきりとそう言った。
「お姉ちゃーん、どこに行くの?」
彼らのうちの一人の男の子がこちらを向いてそう言うと他の二人も一旦遊ぶのをやめて、一斉にこちらを見た。
「海の方へと歩くわ」
彼女は視線を下にやってそう返した。
「あの男の人は?」
今度は、別の子供がそう尋ねた。
その子は、服装や髪型だけでは他二人となんら変わりはないが顔つきから考えて、女の子だと判断した。
彼女はその問いには黙っていたので、俺がかわりに答えることにした。
「友達だ」
「でも見たことないよう」
さっきの男の子が大きな声でそう言った。
「そりゃ、ついさっきこの町に来たばかりだからな」
俺は大声でそう言った。
「え?じゃあもしかして犯罪者?」
男の子はそう言った。
「なんでやねん」
俺は力強くそう言った。
「だって知らない人はみんな犯罪者ってお姉ちゃんが」
「あれ?お姉ちゃんが…」
俺たちがそんなやりとりをしている内に、かなり前方に白いワンピースの少女の後ろ姿を見た。
「あっ、犯罪者も行っちゃった」
男の子は歩く俺を指さしてそういうと
「やい」
他二人の子供が俺に気を取られていた男の子に水をかけてきた。
「いまのはずるいよ」
そう言って男の子は負けじと他二人に水をかけた。
もう彼らは俺の方には一切の関心を示すことなく水遊びに専念しているようだった。
彼らの笑い声はかなり遠くに進むまで聞こえてきた。
気が付けば、少女とかなり距離を離されていたので、追いつくのに少し時間がかかった。
とはいえ歩く速さに限って言えば俺の方が早かったのだ。
「やつら置いてきていいのか?」
俺は肩を並べて歩く少女にそう語りかけた。
「逆に置いてきてはまずいの?」
彼女はひたすら前を向いてそう言った。
「さあわからない」
俺はそう言った。
「いいから行こうよ」
彼女はそう言った。
「海には一体何があるんだい?」
俺は彼女にそう尋ねていた。
「あなたが行きたいって言わなかった?」
彼女は不思議そうな目をしてそう言った。
「そうだな」
俺は頷いた。
「でも俺はわからないんだ」
そしてそう言った。
「行けばわかるよ」
彼女はそう言った。
川に沿うコンクリの道は途中で途切れていた。
正確には、道自体は続いていたのだが、途中で大きな柵が設けてあった。
「行き止まりだね」
俺はそう言った。
彼女は俺の問いかけには答えず、無言でコンクリの道を反れて、左の細い道を歩いた。
俺も続いて歩いた。
するとまもなく、少し大きな通りに出た。
それはさっきコロッケ定食を食べた店に面した通りと同じではないかと思った。
しかし、その通りに並ぶのはさっきのように家ではなかった。
正確には家と呼べそうな建物の形をしていたが、どれもこれも人が住めるような代物ではない。
屋根や壁はとうに取り壊され、内部がむき出しになっていた。
それはまるで大きなゴミ捨て場のようだった。
近くには小型のトラックが一台停まっていた。
「きゃ」
突然彼女は、小さなうめき声をあげた。
「どうした」
俺は怯える彼女の顔を見つめてそう言った。
彼女の目線は壊された家の中を見ていた。
そこには彼女が悲鳴を上げた原因とされるものがいた。
「カラスか」
彼女はこくりと頷いた。
そこには三羽ほどのカラスがちょろちょろとうごめいていた。
特にこちらを窺っている様子はない。
危害を加えることは勿論、近寄ってくることもないだろうと察した。
「怖がることはない」
俺は彼女にそう言った。
しかし、彼女はその先を歩こうとしなかった。
「別の道から行かない」
彼女はそう提案した。
本当に怖がるほどではないと思うのだが、彼女の気持ちも理解できたので、そうしよう、と答えようとした時だった。
その瞬間、一羽のカラスはバサバサと動き、電柱の方へ乗った。
「あああ」
彼女はより一層怯えるような口調でそう言った。
すると二羽のカラスも一羽目に続いた。
彼らは、ちょうど俺らの真上にいるだろうと思った。
「目をつむるんだ」
俺は彼女に向かってそう言った。
「えっ?」
「いいから。君は目をつむるだけでいい」
そう言うや否や、俺は彼女の腕をとった。
「あ」
彼女は驚いたような声をあげたが、俺の言われたとおり目を瞑り、俺に引っ張られて前へと進んだ。
するとカラスの鳴き声が頭上で聞こえてきた。
それを聞くやいなや彼女は足を早めた。
しかし、カラスは鳴き声と共にどこかに飛んで消えて行ってしまった。
「もう開けても大丈夫だ」
俺はしばらくしてから彼女にそう言って腕を離した。
彼女は眠りから覚めたかのような調子で辺りを見回した。
「助かったよ」
彼女は俺にそう言った。
それはまるで母親の胸に抱かれて泣きじゃくる男の子のような調子だった。
「ああ」
俺はそう言った。
「ありがとう」
彼女はそう言った。
そんなに大げさなことではないと思ったが、礼を言われて決して悪い気はしなかった。
「そろそろ着いたぜ」
俺は彼女の目を見てそう言った。
「えっ?」
「海だ」
彼女が驚くのも無理はない。
海は俺たちの気づかぬ間にすぐ近くに広がっていたのだ。
二人は防波堤に並んで座っている。
もう少しばかり足が長ければ靴底が海面に当たってしまうくらいだ。
「どうしてここにきたの?」
彼女は両手を地面につけて、足をぶらつかせながらそう言った。
「海にきたかって?」
俺はそう尋ねた。
「違う。この町に」
「さあね。わからない」
俺はそう答えた。
「わからない?」
「暇だったからかな」
俺は思いついたようにそう言った。
「そう」
彼女はそう言った。
「でも本当は全然暇じゃないんだ」
「そうなの?」
彼女は少しとまどったような声を出した。
「ああ。だからこうしていられるのも今だけだな」
「夏休みの宿題?」
「………。まあそうだな」
「本当は仕事でしょ?」
「同じようなものさ」
俺はそう吐き捨てるように言った。
「君は終わった?」
「何を?」
「夏休みの宿題」
「うん」
彼女は頷いた。
「偉いな」
「あんなのは最初の一日で終わらせるもの」
彼女は淡々と言った。
「素晴らしい」
「そんなに?」
「俺なんて最後の一日で終わらせてたからな」
「どちらにせよ同じじゃない」
彼女は落ち着いた調子でそう言った。
「確かに」
俺は頷いた。
「でも仕事だとそうはいかない」
俺は続けてそう言った。
「え?」
「仕事はすぐにやらないといけない」
「そうなんだ」
「だから君は大人になっても安心だな」
「…………」
彼女は一瞬だけ黙った。
「あなた、ユメってあったの?」
そして、そう言った。
「将来の夢?今でもあるよ」
俺はそう答えた。
「今もあるんだ」
「ああ。たくさんある」
「たくさん?」
「ああ。まずは生きること」
「………。それって。夢って言わないかも」
「そう?」
「うん。空に行きたい、とか?」
「空を飛びたいの?」
「いいえ」
彼女は呆れたような声でそう言った。
「君の夢は?」
「………。まだ決まってないの」
「へえ」
「おかしい?」
「おかしくない」
「でもあなたは持っていたんでしょ?」
「そんな難しい事じゃない。なんでもいいからなりたいように思い浮かべればいいんだ」
「そんなことしていいの?」
「本当にそうならなきゃいけないわけじゃないんだ」
「でも叶わなきゃ意味がないわ」
「そうかな?」
「しっ」
「聞こえる?」
彼女は小さな声でそう言った。
聞こえるのは、小さな波が防波堤にぶつかって水面が揺らめく時の音、
それはとても小さな音。
彼女の声と同じ。とても小さな音。
「海の音」
彼女は小さな声でそう言った。
「うみのおと?」
俺はそう呟いた。
落ち着いて考えてみると、この海は静寂そのものだった。
潮風の吹く音、カモメの鳴き声、波が押しては返す音、
それら全てが喪失している。
あの川と同じだ。
「聞こえてこない?」
彼女はそう尋ねる。
「どんなおと?」
「口では説明できないの」
「いつも聞いてるの?」
「いいえ。でも今も鳴り続けているわ」
「わからない」
俺は少し残念そうな声でそう言った。
「わからなくても大丈夫」
「大丈夫?」
「どういうこと?」
「思い浮かべてみて。あなたのユメ」
何もない海。
海の音だって聞こえない。
それなのに身体がじわじわと温かくなっていくのを感じた。
…。
……。
……………。
「ここはどこだ?」
俺はここに来たときのことを思い出す。
コロッケ定食。
新聞紙を広げる老人。
川岸で遊ぶ子供たち。
まだだ。
海。
そう、海。
目の前には海が広がっていたはずだ。
もう眠りについてから随分長い時間が経っているような気がする。
一時間か。三時間か。
それとも一日と五時間くらいか。
あるいはもう三年近く経ったのかもしれない。
目の前には海が広がっていた。
海は透明だ。
海はこんなにも透明だったか?
透明な海水はほのかに黄色みを帯びている。
それはまるでレモンティーのようだった。
でも、あの海と違う。
海の色だけじゃないのだ。
そう。
俺は、あの海にいたのだ
白いワンピースを着た少女と共に。
「……。………。…………。一体どこに行ったんだ?」
しかし、少女の姿はどこにも見当たらなかった。
「今はいったい何時だ?」
俺はそう呟いた。
答えてくれる人がいないのを知っていながら。
それでもどこかで聞いてくれている人がいることを望んで。
今は何時だろう。
水平線に沈みゆく夕日を見るに、馬鹿みたいに長く暑い昼は終わりを迎えている。
この世界は終わりを迎えようとしていた。
昼は永遠ではない。
夏と同じだ。
何度でも、何回でも繰り返し、数えきれないほどの終わりを迎える。
俺はそう考えると、何だか息が詰まる気がした。
だから一度立ち上がって、まだ終わっていない世界にまで届くくらいの大きな声で、わけのわからないことを叫んでみようと思った。
「あ?」
その時、ふとした違和感に気付いた。
そしてその心の波動は俺の鼓動を不連続に加速させた。
そして嫌な汗が噴き出るのだ。
あ。
あああ。
ああああああああああああああああ。
「行ってしまった」
今になって気づいたのだ。
もうしばらく、もしかしたら永遠に駅に列車は来ないということに。
コン。
コンコンコン。
俺は戸の窓ガラスを叩いていた。
けれども内側からは何の音も返ってこなかった。
今度は、戸を開けようと試みた。
しかし、どんなに強い力を持ってしても開くことが無かった。
俺は諦めてしばらくその場に立ち尽くした。
あの馬鹿げた暑くて長い世界はとうに終わっていて、もうすでに新しい世界が始まっていた。
リンリンリンと虫の鳴く声に引き寄せられるかのように、ひんやりとした風が俺の身体を通り抜け、戸の窓ガラスをカタカタと震わせた。
その時、静寂な町にヴヴヴヴというエンジン音がしきりに聞こえてきた。
振り返ると、四輪電動カートに乗っている老婆の姿があった。
老婆はカートから降りると、俺の方を不審そうに見つめていた。
「なにしてるんだいあんた」
ヘルメットを外しながら老婆はそう言った。
「驚かせてしまって申し訳ないです」
俺はそう言った。
「あの」
俺は続けてそう言った。
「もういい」
老婆は俺の言葉を遮って、そう言った。
「とりあえず入りな」
そしてポケットから鍵を取り出して引き戸の施錠を外してから続けてそう言った。
海を出て、駅舎へ戻った頃には赤みのかかった空はすっかり藍色になっていた。
「もう津島への列車は出ませんよ」
駅員はそう言った。
「それなら大坂はどうでしょう?」
俺はそう尋ねた。
「大坂?ああ。船浦の方もありません」
「そちらは特急列車なら二時間後にやってきますが」
「特急列車には乗りません」
俺がそういうと、駅員は苦笑いをした。
「乗り遅れるなんて、随分遠いところまで向かわれたようですね?」
駅員はそう俺に問いかけてくれた。
「いえ。海の方へちょっとね」
俺はそう答えた。
「海?すぐそこの?」
駅員は訳が分からないというような高い声を上げてそう言った。
「はい。防波堤で眠ってしまいまして」
「ははは。それは災難でしたね」
何がおかしいのか駅員は大声で笑いながらそう言った。
「困りましたね」
駅員は続けてそう言った。
「宿泊場所を探さなくてはなりませんね」
「どこかありますかね?なるべく安いところで」
俺はそう尋ねてみた。
「値段云々の前にあんまり聞いたことないねえ。それこそ船浦だったらいくらでもあるんだけどね」
駅員は残念そうにそう言った。
「そうですよね」
俺はそう言った。
「いやここにも一つだけあったかな。でも今はやっていないのかな」
駅員はぶつぶつとそう言った。
「港町の方なんだけどね」
「ほうほう」
俺はそう言った。
港町なら俺は今日だけで何度も往復しているので良く知っている。
そして駅員は海音駅の周辺の拡大地図を持って指さした。
「うーん。ここかなあ」
「もしかして食堂をやっているところですか?」
「え?よく知ってるね?もしかしてここの人?」
「いえ。昼にたまたま入ったもんで」
「まだやってたんだ。そうそうそこだよ」
「本当ですか?」
「ああ。でも、昔の事だから今も泊めてもらえるかはわからないね」
「いえ。泊めてもらえる可能性があるだけでも十分です。わざわざありがとうございます」
「だめだったらまたここにきな」
駅員は笑いながらそう言った。
「はい。またその時はよろしくお願いします」
俺はそう言った。
「今日一日だけ泊めてもらうことはできませんか?」
俺は老婆にそう尋ねた。
「勿論宿泊代もお支払いします」
俺は続けてそう言った。
「いいよ」
老婆はそう言った。
「本当ですか?」
俺は驚いたような声でそう言った。
「部屋一つまるまるあいてるからね」
「でも本当によろしいですか?」
「ああ」
「お値段はいかほどでしょうか?」
「金はとらない」
「はあ?」
「ただで泊まっていいって言ったんだ」
「いえ、そういうわけには」
「あの部屋はもう誰もつかっとらん。でも片づけないと寝る場所もないねえ」
「それなら掃除致します」
「いやせんでいい。したらキリがないからな」
「しかし何もしないわけにはいきません」
「じゃあ、まあ適当に頼んだよ」
「しかし掃除するなら別のところにしな」
老婆はそう言って俺を空き部屋の方へと案内した。
のれんをくぐると、右手には台所があった。
そのまままっすぐ廊下を進んいくと、再び右手に扉がある。
そこは洗面所だと推測した。
そしてさらに奥へと進むと行き止まりになり、両手に二つの部屋があった。
老婆は左手の部屋に足を踏み入れ、明かりを点けた。
空き部屋は、空き部屋という単語からはもっとも遠く離れた所にあるものだった。
それは物置や倉庫という表現が適切だった。
さっきの老婆の一連の発言の意味がようやくわかった気がした。
「ここだ」
老婆は部屋だけ案内すると、部屋の入口で立ち止まって俺にそう言った。
もうこれ以上奥へ進むことが出来ないというような調子だった。
それは、まるで本来人の立ち入ることのできないジャングルを特別に案内する地域民のようだった。
部屋の中、至る所に段ボールや諸々のガラクタが置かれていた。
「好きなところに布団を敷いて寝るといいな」
「ありがとうございます」
「布団持ってくるよ」
「俺に運ばせてください」
「ああ。そうだね」
老婆はそう言うと隣の部屋に進んだ。
その部屋はおそらく老婆の寝室ではないかと思った。
部屋にはプラスチック製の白い机と背もたれの傾いた椅子があり、机の上には新聞紙とラジオが置かれていた。
奥の方の窓際には骨董品が幾つか置かれていて、上には時計が掛かっていた。
そこは人が生活していくのにこれ以上相応しい空間はないだろうと思うほど、居心地が良く感じられた。
老婆はクローゼットを開けると中から布団を取り出した。
「はい」
老婆はそう言うと、俺に運ぶように促した。
俺はそれを空き部屋へと運んだ。
「水は台所にあるから。トイレはあっち」
老婆はそう言った。
「はい」
「シャワーは入るか?」
「遠慮しておきます」
「わかった」
「明日はあたし朝早くからいないから、その時あんたも出てってもらうことになるけど」
「それで構いません。それより何か手伝えることはないでしょうか?」
「大丈夫。あんたも朝早くから列車に乗るだろ?」
「あたしは部屋にいるから。なにかあったら呼んで」
そう言うと老婆はすたすたと寝室へと消えて行ってしまった。
物置と言う名の寝室に一人取り残された俺は、唯一布団が敷けるであろうスペースに布団を敷いて、そのうえで寝そべった。
これらの段ボールの中にはいったい何が入っているのだろう。
俺は色々な想像を巡らせてみた。
写真立てかもしれないし、クマのぬいぐるみかもしれない。あるいは算数の教科書かもしれないし、使い古されたパジャマかもしれない。
どちらにせよここで生きてきた人々の生活の記録が地層のように積み重なっているのだろうと思った。
そう考えるとこの部屋はまるで巨大なおもちゃ箱のようにも思えた。