歴史に翻弄され、歴史を翻弄した男 − 満州国皇帝
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大陸進出を目論む日本が、満州政策のために溥儀を利用するのは後のことであり、この時点に於いては、寧ろ、溥儀は対中華民国外交にとって弊害とさえなりかねない存在であった。あくまでもジョンストンらの斡旋に応じたに過ぎないのであったが、そのジョンストンも、溥儀が帝位を完全に剥奪され、紫禁城も追われたことにより、帝師の職分を辞任しイギリスに帰っていた。
その頃、中華民国国内における政情は非常に不安定な状態にあった。
日露戦争に勝利した日本はその勢いに乗じて、中国東北部への進出を開始し、遼東半島を租借地とし、南満州鉄道を敷設するなど本格的に大陸経営に乗り出していた。欧米の列強に加え、日本の存在は確実に中国を脅かしつつあったのである。
一方、中国国内では、内乱が度重なっていた。
清朝を倒して、アジアで初めての共和制を敷いた中華民国政府であるが、建国当初より内部に亀裂が生じていた。一時、帝政の復活を企て失脚した袁世凱が亡くなると、国内は軍閥による群雄割拠の状態になる。中華民国は統一政府をもたないまま、それぞれの軍閥が覇権を争い、各地で内乱が絶えなかったのである。孫文が1925年に没すると、亀裂は一層広がった。孫文の革命の実質的な継承者である蒋介石は1927年に南京において国民政府を樹立し、そこを拠点に中国全土を統一すべく、北伐を開始する。それを迎え撃つ強敵となったのが、満州を拠点とする張作霖率いる奉天軍閥であった。張作霖は満州を抑えていた日本軍を頼みに、蒋介石軍と各地で軍事衝突する。日本軍を後ろ盾にする張作霖軍の前で、蒋介石率いる国民党軍は、はじめ劣勢であり、戦闘状態に入っては敗れ、撤退していた。
蒋介石軍は、北伐を進めるために、山東半島を拠点にしようとする。山東半島は、日本が第一次世界大戦の勝利を以てドイツから権益を譲り受けたものであり、当然、国民党軍の接近を快く思わず、これに対抗して軍を差し向け対峙する。暫くは互いに牽制するだけで、睨み合いの状態が続くのだが、1928年4月、デマゴギーに端を発して済南事変が生じ、それによって両者の均衡が崩れ、日本軍は国民党軍を攻撃し、済南全域を制圧する。そして、蒋介石に対し、日本軍は、山東半島はもとより満州に対しても侵攻を企てないことを誓わせると、日本軍は山東半島から撤退する。これによって、満州における権益が確固たるものとなった日本軍にとって、張作霖は不要となり、最早、積極的には支持しなくなる。
日本軍の後ろ盾を失った張作霖は、劣勢に転じ、国民党軍の攻撃を阻止することができなくなっていた。1928年6月、張作霖は、北京から撤退し本拠地の奉天(現・瀋陽)に帰還する途中、乗車していた列車もろとも爆殺される。関東軍は、国民党のゲリラ兵士の仕業であると八歩要したが、次第に関東軍による謀略であることが判明する。事件は、日本の意のままにならなくなった張作霖を暗殺しようと、関東軍参謀河本大作が首謀者となって、軍の承諾なしに実行したものであった。
張作霖爆殺事件の後、張作霖の息子・張学良は蒋介石に屈し、以後は、協同して関東軍への挑発行動にあたるようになる。
中国ではまた別の動きも起き始めていた。民主化の動きを通じて、1921年に設立された中国共産党がソ連の支援も受けながら次第に勢力を拡大していたのである。晩年の孫文もまたその影響を受け、「連ソ容共・労農扶助」の方向に傾き、共産党との共同戦線を志向する。
民族の自決は国民党結党以来の孫文の悲願であり、国内の統一とは不可分の関係にあった。清朝末期に欧米列強がこぞって権益を恣にするようになって久しかったが、欧米を真似た日本も加わって、中国の権益に触手を伸ばそうとするのをいつまでも見過ごす訳にはいかないのである。これらの国々を退け真の独立を勝ち取ることにこそ、新生中国の進むべき道があると考えた孫文は、その志を同じくする共産党と協力することを辞さなかったのだ。中国の民衆の間にも欧米日の排斥運動が各地に広がっており、各地で睨み合いや小競り合いが生じており、それに呼応して、国共合作の反日愛国運動は全土で盛り上がった。
しかし、孫文の死後、蒋介石は方針を転換し、国共合作を破棄してしまう。国民党に個人で参加していた共産党員を党から追放した上、1926年には中国共産党が拠点としていた中国北部を攻め、さらに、同年、上海で多数の共産党員を弾圧し(上海クーデター)、そのまま国共内戦へと事態は悪化していったのである。
ともあれ、このような情勢が不穏な中、溥儀はますます日本にとって頭の痛い存在となっていた。しかし、とりあえずは溥儀の受入を国際的にも表明した日本は、溥儀の身辺が徒に脅かされることはどうしても避けなければならなかった。先述したように、治外法権がある以上、中国の不満分子らが租界において暴動を起こすなどしても、日本はこれを強硬に鎮圧することができ、溥儀の身柄の保護だけは万全であった。1927年、溥儀らは、張園から同じ天津の租界にある協昌里の静園に居を移すが、天津を離れない限り、溥儀は、妻・婉容と第2夫人・文繍、そして少数の側近らとともに静かに暮らすことができた。
張作霖爆殺事件から約1ヶ月が過ぎた頃、溥儀の人生観を大きく揺り動かす事件が起こる。北京の東に清朝累代の陵墓があるが、そのうち、5人の清朝皇帝とその后が眠る東陵が荒らされ、副葬品の宝石類が持ち去られたのである。西太后の陵墓も天井が壊され、西太后の遺骸は棺から引きずり出され、無残にも地面に転がされていた。後日、事件の首謀者は国民党軍の孫殿英であることが、判明する。
事件は単なる窃盗では済まされず、武力による中国統一をめざす国民党の傍若無人ぶりを見せつけるものとなった。清朝を倒し、皇帝一族を放逐しただけでは足らず、陵墓にも手を下し、祖先の霊を辱めることによって、何ものをも恐れぬ国民党の尊大さを誇示するのが狙いではなかっただろうか。少なくとも、国民党の驕慢さが招いた事件であったことは間違いない。
さらに、別の見方をすれば、溥儀らを匿う日本への挑発的行動であるともとれる。中国全土を統一しようとする国民党にとって、満州や山東半島に根を張り自国の権益を脅かす日本は、最も忌むべき存在のひとつである。そして、日本の庇護を受けている溥儀もまた同罪であり、その溥儀に対する制裁は同時に日本に対する牽制の意味も孕むのである。清朝陵墓の盗掘は、日本に対する最大級の嫌がらせであったと言えよう。
いずれにせよ、溥儀にとっては衝撃的で屈辱的な事件である。事件を恨みに思う溥儀は、それまでただ漠然と描いていた清朝復辟の夢をはっきりと確信するようになる。
「この恨みに報いなかったならば、私は愛新覚羅の子孫ではない。私のいる限り、大清は滅亡せぬ。」
そう言い放った溥儀は、いかなる手段を以てしても清朝再興を実現しようと闘志を燃やすこととなるのである。中国東北部を抑えていた日本軍もまた、溥儀の野望に応え、その関心を満州に集中させ、積極的に協力するようになる。
1931年9月18日、奉天柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破されるという事件が起こる。いわゆる「満洲事変」である。関東軍は直ちに「張学良ら東北軍による破壊工作」と断定し、報復のために張学良への攻撃を開始する。しかし、事実は関東軍の自作自演によるでっち上げの事件であった。国民軍と手を結んだ張学良が満州に新たな鉄道を建設すべく計画しているのを阻止するために、関東軍が仕組んだものだったのである。
事件はあくまでも、日本政府及び日本陸軍が決定した不拡大路線の方針を無視した関東軍の独走によるものであった。しかし、この事件を契機に、関東軍は「自衛」を口実にさらに戦線を拡大し、5ヶ月という短い期間で満洲全域を制圧する。満州に拠をおく張学良は、中華民国政府の指示に従い、ほとんど無抵抗のまま、満洲地域から撤退する。
満洲一帯を支配下に治めた関東軍の次なる課題は、軍を中心とする統治へと移る。権謀術数による関東軍の支配方法には国内外から批判が浴びせられていた。満州事変が関東軍の謀略によるものであることが明るみになるにつれ、国際的な世論は関東軍に対しより厳しくなる。
関東軍は国内外の批判をかわすために、植民地支配ではなく、中国人による自主独立の政権を立てた上、それに対して実質的な影響力を行使しようと考えた。それに満州族の愛新覚羅溥儀はうってつけの存在であった。
満州事変の4日後(9月22日)、参謀・板垣征四郎、同・石原莞爾らの関東軍首脳5人が、秘密裏に会合し、中国東北部における政策について協議した。そこで決定した満蒙問題解決案の第一には、「我国の支持を受け東北四省及蒙古を領域とせる宣統帝を頭首とする支那政権を樹立し在満蒙各民族の楽土たらしむ」とある。但し、関東軍が考えたのは、溥儀を頭目に戴くものの政治形態としては共和制であった。その方が国際的には受け入れられると考えたからである
この決定を受けて、奉天特務機関長・土肥原賢二は工藤鉄三郎(忠)を介して、天津に居る溥儀のもとへ説得工作に赴く。
会見に臨んだ土肥原は、満州における自主政権の樹立に関する関東軍の方針を説明するが、溥儀の考えはあくまでも清朝の復辟であった。「満州に新しく樹立する国家が帝政であれば赴くが、共和制であるなら拒む」と溥儀は言う。土肥原は、その点については曖昧にしながら、溥儀を満州に誘い出す。
民衆の暴動や、国民軍の妨害を避けるため、溥儀ら一行は、これらの目をかいくぐって、隠密裏に天津を脱出し満州へと向かった。夜中に車のトランクに身を隠し、港で小さな船に乗り換え、国民軍や欧米各国が抑える海域を許可なく航行し、銃撃を受けるなどしながら、ようやく満州まで辿り着く。
しかし、苦難の末、満州に赴いた溥儀に、板垣征四郎は
「新国家は共和制、国家元首の肩書は皇帝ではなく執政、国防・治安維持など全てを関東軍に一任する。これは日本の規定方針であり、変更の余地はない。」
と、冷酷に言い放った。
溥儀は、裏切られた思いであったが、今更、天津に帰還することもできないその言葉に逆らうこともできず、渋々ながら関東軍の提案を受諾する。
1932年3月1日、新京(長春)に首都をおき、「五族(日本・漢・朝鮮・満洲・蒙古)協和」をスローガンに掲げた満州国の建国が国際社会に向け宣言される。日本の約3倍の面積を有し、人口約3,000万人を擁する新国家の誕生である。3月9日、溥儀は満洲国の「執政」に就任する。満州事変から半年も経たない、極めて短い間の出来事である。
その後も、溥儀は、決して執政という位には満足しなかった。「陛下」ではなく、「閣下」という呼称も不愉快であった。溥儀の心情を慮った関東軍は、なだめるために共和制の方針を翻し、帝政の樹立を決定する。1933年12月19日、関東軍司令官菱刈孝が溥儀に謁見を求め、このことを伝える。溥儀は執政から皇帝に返り咲くこととなった。
溥儀にとって吉報ではあったが、それには「皇帝制の実施は断じて清朝の復辟にあらず」と但し書きが添えられており、決して手放しで喜ぶことはできなかった。
1934年3月1日、溥儀は念願であった皇帝に即位する。元号も「康徳」に改められた。
即位式を控えて、その服装をめぐり、溥儀と関東軍は激しく対立する。溥儀は清朝皇帝の礼服である龍袍の着用を主張する。それに対し、関東軍は、「五族協和」を掲げる満州国において、皇帝自身が満州族に傾くのを嫌い、満洲国軍の大元帥服を着用するよう求める。両者は共に譲らず、最終的には折衷策として、即位式の早朝、新京市内の順天広場で「郊祭の儀」(天に向かって皇帝であることを宣言する清朝伝統の儀式)を催し、その場で龍袍を着用し、午後からの即位式には軍服で臨むこととなった。
今日、満州に関する歴史認識は、「国家」及び「国民」が確立することのない擬制国家というものである。「国家」という擬態をとりながら、本質は関東軍による傀儡であったというのが定説である。しかし、溥儀に限ってみると、決して単なる関東軍の言いなりではなく、自らの願望に基づいて、進んでこの傀儡国家の建設に加担していったのである。後に極東国際裁判で、溥儀は自己防衛のために、この点を過小評価するように努め、自ら進んで皇帝の地位を望んだことを隠蔽しようとした。
溥儀はまた日本の皇室にすり寄り、天皇の後ろ盾により、関東軍に対する特別な威厳を持つように努め、宗教の面でも、清朝累代の宗教を捨て、「日満一神一宗」を唱えた。1940年7月に溥儀が訪日した際、伊勢神宮を訪れ、帰国後、天照大神をご神体として祀る「建国神廟」を帝宮内に設けたのである。
こうした行為は、どう弁明しようと、保身のために過ぎず、皇帝の地位にしがみつく独善的なものであった。
関東軍が唱える「五族協和」は既にその理念の核を失ったものであり、「協和」とは裏腹に大利における日本の国益を専ら志向するものにほかならなかった。だが、溥儀の思惑もまた同様であり、両者の葛藤が「五族協和」の理念をより歪める結果となったのは論を俟たない。歴史にifは通用しないと言われるが、敢えて「もし、溥儀が満州族の覇を唱えることに固辞せず、五族協和を旨としていたなら」と考えると、満州国の状況は変わっていたかも知れない。「五族協和」を標榜している限り、関東軍の暴走は抑制できたかも知れない。尤も、それで歴史の振り子が大きく変わることはなかっただろうが、細部において歴史の事象は書き換えられていたかも知れないのだ。その意味において、溥儀の犯した過ちは大きいと言えるだろう。
とはいえ、溥儀一人の抵抗など取るに足らず、満州国における溥儀の権限はやはり乏しいものであり、彼の思惑にも関わらず、全ての最終にして最高の権限は関東軍が掌握していたのである。溥儀は、満州帝国皇帝として君臨しながら、その実は、関東軍の傀儡に甘んじ、そして従わなければならないのであった。そもそも、満州国の官職の多くは日本人で占められ、国政の重要事項には必ず関東軍の認証を必要としたのである。関東軍の草案にもとづき定められた満洲国憲法において、皇帝は国務院総理を始めとする各大臣の任命権を有するものの、次官以下の官僚に対する任命権及び罷免権は「日満議定書」により、関東軍が有しており、全て関東軍の同意が必要であった。事実、溥儀が皇帝となった当初は、満州国の総理は、溥儀の教育掛を務めた紫禁城縁故の鄭孝胥が就任したものの、後に関東軍の意向により罷免されるのである。そして、関東軍は自分たちにとって都合の良い日本人を官吏に任命し、国政における溥儀の権利を次々に奪っていったのである。
このような関東軍の仕業に、当然、溥儀は怒りを交えた不満を抱かざるを得なかったが、独走とも言える強硬で専横的な満州国経営について関東軍に対する批判は日本国内にも多かった。とりわけ、日本の皇室とも親好の深い溥儀に対する軽々しい扱いは、皇室をも侮辱する者として嫌悪を露わにする者が国粋主義者の中にもあった。満洲国に対する日本政府と関東軍の過剰なまでの介入には、玄洋社の総帥である頭山満でさえ、憂慮したと言われている。
溥儀は関東軍に対して不信感を抱くだけでなく、相当に疑心暗鬼となり、常に身の危険さえ感じる状態であった。関東軍は溥儀らに対し、皇宮としてふさわしい荘厳な造りの同徳殿を建設し与えたのであるが、溥儀は謀略を恐れて一度として利用することはなかった。
1937年2月、溥儀と関東軍の植田謙吉司令官の間で交わした念書には、「満洲国皇帝に男子なき場合、日本の天皇の叡慮によりそれを定める」との一文があり、男子のいない溥儀は、継承者を指名する権限そのものを失い、溥儀自身の身の安全も危うくなった。妻・婉容が運転手と不義密通した上、運転手の子供をもうけたため、子供は生まれてすぐ手をかけられ、運転手も銃殺されるという事件が起きたが、これも関東軍による謀略との説もある。子供の父が溥儀であったのか、運転手であったのか、真実は闇に葬られたが、少なくとも、これを以て、関東軍は溥儀から皇位継承の決定権を剥奪してしまうのである。
溥儀は国政における自らの立場と権限が極めて軽微であることを思い知らされ、満州国に失望する。清朝復辟の宿願も潰え、名ばかりで幻影に過ぎない皇帝の位にただ座り続けるだけの溥儀は、疎外感を感じるようになる。溥儀は淡々と皇帝の職分を消化するのみであり、次第にその関心は政治以外の分野に向けられるようになる。
(続く)