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歴史に翻弄され、歴史を翻弄した男 − 紫禁城追放

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中華民国政府は政治的関心を逸らすために、溥儀には、国内外の情勢について多くを知らせないことにしていた。しかし、その思惑にも関わらず、溥儀はジョンストンからもたらされる情報によって、国内外の情勢に目を向けざるを得なかった。

ジョンストン一人を窓口として知り得る情報は限られたものでしかなかったが、感受性豊かで鋭敏な若き皇帝にとっては耳に入るさまざまな情報は刺激的であった。いくら廷内の官吏たちが事実を隠蔽しようとも、そこかしこにできた(ほころ)びの中から溥儀は本質を垣間見ることができたし、分けても宮廷の内外に蔓延(はびこ)る矛盾を察することができた。そして、旧態依然(きゅうたいいぜん)とした宮廷が如何に民衆の利益に相反(そうはん)し、敵対さえする存在となっているかは聡明な教養人の目に明らかに映った。今や宮廷内部の諸事は悪弊(あくへい)でしかなく、清朝のみならず中国全土を退廃の極みに陥れる根源となっていることは玉座を覆う幕からも透けて見え、純粋で無垢(むく)な少年の胸を痛めた。早熟にして聡明な若者の多くがそうであるように、溥儀もまた正義漢にして非道や不正を憎み、その排除に努めようとした。

かねてより宮廷では、宦官(かんがん)らの横領が公然の秘密として横行していた。溥儀はこれにまずメスを入れようとする。1922(大正11)年6月、溥儀は宦官による横領の証拠を白日の下に(さら)し、これを一掃するために、紫禁城内にある美術品などの宝物を所蔵した「建福院」の目録一覧を作成させた。しかし、目録作成直後(6月27日)の未明、一部の宦官らが証拠隠滅を図るため、「建福院」を放火した。宝物堂の焼失により、溥儀は当然、激怒するのであるが、それ以上にそうまでして身の保全を図ろうとする宦官らの利己心や退廃ぶりに強い嫌悪感を抱き、宮廷改革に対する溥儀の決意は一層固まる。溥儀は中華民国政府の力も借り、約1,200名にものぼる宦官のほとんどを一斉に解雇する。そして、これを皮切りに、女官を追放するなど、紫禁城内の無駄な経費を削減し、近代化を断行していくのである。一連の改革に宮廷内では臣下らが戦々恐々し、不満や非難の声も募る一方、国民やマスコミはこれを歓迎し、称賛した。尤も、国民生活に及ぼす宮廷の影響力は既に乏しく、溥儀が強権を以て改革を断行したところで国民にとってはどれほどの影響もなく、またどのような改革も国民にとってはジャーナリスティックな関心以上の意味はもたらされなかった。それよりも、政権をめぐる新政府内での対立の激化や各地で頻発する武力衝突の方が、国民の関心が高かった。国内は未だ安定しておらず、絶えず揺動する状態であった。そして、その矛先は清朝宮廷にも及ぶ。

1924年、軍閥の馮玉祥(ふぎょくしょう)孫岳(そんがく)がクーデターを起こし北京を制圧する。そして、紫禁城に攻め入り、突然、清朝宮廷に対する優待条件を破棄し、皇帝の永久廃止を表明した上、溥儀らに城内からの即時退去を命じる。これによって、清朝は名実共に滅んだことになる。手足をもぎ取られつつも辛うじてその尊名だけは保ことができていた龍が、角はへし折られ髭は引き抜かれ、いよいよ威容を失い、蛇の如く地面を這いずる有り様となったのである。

紫禁城を追われた溥儀は、父、醇親王を頼り、親王の居城である北府に一時的に身を(かくま)ってもらう。その後、ジョンストンを通じて親好のあったイギリスに庇護(ひご)を求めるが、新政府との関係悪化を懸念したイギリス政府は、それを却下する。次いで、オランダに庇護を求めるが、それも受け入れられなかった。続いて溥儀らは、ジョンストンを通じてイギリスを介在して日本政府に庇護を求める。日本は国際的に微妙な立場にある溥儀の受け入れに積極的ではなかったが、第一次世界大戦の同盟国であったイギリスの申し出を重視し、また、日本の皇族方との縁も深いことから溥儀に対し好意的なところもあったので、受入を即断し、北京の公使館で身柄を預かることとした。この時点では満州国の建設に具体的な計画どころかその萌芽さえなかったから、この受入は打算によるものではなかった。寧ろ、大陸経営において欧米各国と(しのぎ)を削る最中(さなか)にあってあらぬ誤解を招きかねない上、中国における民主化とそれを支援する国際世論のうねりの中で旧皇帝を受け入れることは世論の砲火を浴びることにもなりかねず、本来、日本の立場としては中立を維持したいところであった筈である。それ故、溥儀を受け入れることは清朝と日本の友好によるものだったと理解するのが相応(ふさわ)しいのだろう。尤も、日清戦争 (1897年)において、清国に勝利した日本は、それに拠って得た大陸の利権を元に、それをさらに拡大する隙を窺っていたのであり、溥儀の身を(かくま)うことによってリスクを伴いながらも、利権を拡大する機会を得んとしたことも間違いないだろう。この一件は、前以て明確な意図があったものでは無いかも知れないが、漠然と描いていた大陸への日本の野心が具体的な形を伴う切っ掛けとなったと言える。

日本の公使館に身を寄せた、溥儀の一行はその後、北京から領事館のある天津に移住することになる。天津は、中国でも有数の貿易都市であるが、当時は植民地同然の状態であった。日本、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリアなどが支配し、租界を形成していた。これら9つの租界は条約により治外法権(*)となっており、中国は自国の法律を適用することを許されず、駐留する各国の法律に従うほかなかった。溥儀は租界にいる限り、中国の警察でさえ手出しすることができず、紫禁城から追い払った手の者から追われることもなく、身の安全を図ることができた。しかし、そのため、自由は著しく奪われることとなった。溥儀は紫禁城で暮らす間も外出の自由を奪われ、勉学にのみ打ち込むよう強制されていたが、宮中にあっては官吏や宦官、女官ら、皇帝にかしずく者が多数おり、生活に不便を来すことなどなかったが、ここでは日本の監視のもとに贅沢は元より禁じられ、許可無く自由に振る舞うことも一切制限された。

洋館建ての高級アパートメント張園に住むことになった溥儀は、息苦しい宮廷生活から解放されたとの思いもあったようだが、実際はそれよりもさらに(ひど)い状態となったのである。日々の生活は紫禁城と比べて雲泥の差があるのは当然としても、それどころか衣食に事を欠きその日その日の生活に頭を悩ますという経験さえ味わうことになったのである。

身の安全は保障されるという他は、中国の一般人よりもさらに権利を蹂躙され、それまでに溥儀と親好のあった中国人さえも実質上、出入りを制限され、交流の自由も失ったのである。溥儀は弟の溥傑や実父の醇親王を訪ねていくこともできなかったし、また、彼らが溥儀を訪ねることもできなかった。

溥儀にとって、天津の暮らしは決して快適とは言えないものであった。生涯の内で最も酷い暮らしぶりであったと言えるかも知れない。

一方、日本にとっても、溥儀を匿うことは得策ではなかった。受け入れはしたものの、その扱いには苦慮していた。溥儀の扱いを巡って、中国国内は元より世界中が注目していたからである。


*治外法権

外国人が何らかの事件を起こした場合、自国の法律によって裁くことができず、その外国人が国籍を有する国の法律によって裁かれる。日本は江戸幕末、ペリーの来航を皮切りに次々、押し寄せて来る欧米各国との間で、修好条約、通商条約などを相次ぎ結ぶが、それらの中に盛り込まれていたのが治外法権であった。明治政府は各国にこの治外法権を放棄させることを何より重要課題とし、交渉を進めるが条約改正には随分難航した。

その教訓がありながら、日本政府は中国にそれを押し付けたのであった。

(続く)

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