時代に翻弄され、時代を翻弄した男 − 幼少から成人まで
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欧米列強に加え日本も中国大陸における覇権を主張し、これらの国々の間における覇権争いがますます清朝の国益を脅かすこととなった。国内は荒廃し、民衆による蜂起が各地で頻発するようになる。国内に進出する諸外国の勢力を抑え撃退するためにはもちろん、国民の不満をそらすためにも、近代化による富国強兵は急務となっていた。
強大な国家の再建と言う考えは、清朝政府よりも、むしろ民衆の中から台頭した知識人の中において浸透していった。その代表が孫文である。若い頃に外国に留学し、早くから革命思想に目覚めた孫文がめざしたのは、何より、中国大陸に住む諸民族の自決と権益の奪還にあった。孫文の理想はさらに、国内に止まらずアジア全体へと向けられていた。当時、アジアには、アジアの諸民族が大同団結し、アジアに一つの強大な連合国あるいは国家共同体を建設し、欧米列強に対峙するというアジア主義思想が流行していた。日本でも「興亜論」をはじめとしていくつかの理論的分派が存在し、多くの共感を得ていた。とりわけ、日露戦争(1904〜05年)での日本の勝利は日本のみならずアジアの多くの民族の教訓となりを奮い立たせた。それ故、日本を盟主とする大アジアの建設を公理に掲げる大東亜共栄圏の構想は当初、多くのアジアの諸国、諸民族に歓迎されたのである。それがいつしか、日本軍が武力を以て大陸に進出する口実へと変質するのであるが、大アジア主義の思想を唱えた孫文にとっては皮肉というほかない。
孫文は、今日、中国大陸が諸外国の餌食となり、民衆を疲弊と荒廃に導いたのは時代錯誤な清朝にこそ原因があると主張した。そして、列強諸国に媚びるだけの清朝は今や弊害でしかないと考えるようになり、清朝を打ち倒すことは国家存亡の大きな課題であるとし、それを当面の目標に掲げ運動を繰り広げるのである。孫文の率いる民衆運動は、同時期に宮廷内に起こっていた改革運動と軌を一にする部分がある。だが、根本に於いてそれは異なっている。戊戌の変法もさまざまな改革を求めはするが、国体そのものの変革は求めない。むしろ、清朝を温存するための改革であって、それ以上の意味は無い。とは言え、戊戌の変法が挫折したことにより、宮廷内における改革の思潮はより激しさを帯びる。このことが民衆の動乱にも影響を与え、国体そのものの変革を目論む孫文にとっても利することとなる。彼は宮廷の改革派とは異なる独自の路線を歩み、清朝打倒を掲げる革命運動へと結実させていく。
孫文は各地に散発する民衆運動を束ね次第に勢力を拡大していき、本格的に清朝打倒に臨む。そして1911年、孫文は、北方を治めていた袁世凱と手を結び、遂に宮廷を制圧し、アジア初の共和制国家(*)の樹立を宣言する。ここに300年近く続いた清朝の政治支配は幕を閉じる。世に言う辛亥革命である。国名を中華民国と改め、革命において功績のあった袁世凱を大統領とする臨時政府が政権を掌握していく。中央政府を追われていた袁世凱にとって、3年ぶりの中央政権への復帰である。袁世凱はその後、1915年に帝政を復活させようと企み、自ら帝位に就くと共に、国名を中華帝国と改めるが、たったの3ヶ月で失脚する。これも歴史の皮肉である。
*アジア初の共和制国家
共和制とは国家元首を世襲ではなく、選挙によって決めることであり、この制度を国体とする国家を共和制国家と言う。つまり君主制に対する概念が共和制である。共和制は古代ローマやインドにも存在しており、インドの場合は有力者が会議を開いて元首を決めるガナ・サンガ国がいくつもあった。それらは古代共和制国家と呼ばれ、近代共和制国家としては中華民国がアジア初となる。
近代共和制は17世紀頃、ヨーロッパに始まり、イングランド共和国などが成立したが、本格的な共和制の始まりはアメリカが臭国の建国によってである。アメリカはイギリスの植民地であったが、1776年に独立を果たし、大統領制による政体を国是とする国家を樹立するのだが、その余波がヨーロッパ中に広がり、その後のフランス革命などに影響を及ぼすのである。
因みに日本の場合、元首そのものが不明確であり(総理大臣は執政権を有してはいるが元首ではなく、天皇は執政権を有していない)、君主制とも共和制ともつかない政体を国是としている。
辛亥革命によって清朝が倒れた時、溥儀は6歳、在位4年間を幼少のまま過ごしたわけである。勿論、政務に携わることはなく、清朝に降りかかった情勢の変化を何一つとして理解できずにいただろう。ただ、溥儀自身の生活には何の変化もなかったことが、彼にとって幸いであったと言える。
革命勢力は、政権の移譲に伴い、清朝政府に対し、1.皇帝の称号はそのまま存続する、2.宮廷が保有する財産は没収することなく保障する、3.皇族とその臣下らは、引き続き紫禁城に止まることを許す、という優待条件を示す。国政の権力を失いはしたが、清朝宮廷はそのまま温存されたのである。かつて中国全土を席捲した巨龍は、手足をもぎ取られ自由を失うが、威容を示す角と髭は辛うじて保つことができたのである。
当時の孫文らの革命勢力の実力から言えば、清朝を強力に追い詰め、完全に滅ぼすこともできたであろうが、そうはせず、清朝を形骸的に温存し、融和する道を選んだのである。これは明らかに大きな譲歩だと言えるが、何故、革命勢力側はこのような譲歩を行ったのだろう。
ひとつは、清朝に備わった名目的権威の利用である。衰えたりと言えど、清朝の権威は民衆の間で信仰にも似た形で浸透しており、これを徒に冒すことは国民の間に要らざる反発を生みかねなかった。次に国際的にも通用する清朝の名声の利用である。国際的な交渉における当事者権限は失っていたものの実際、かつて世界に馳せた清朝及び清朝皇帝の名は、中華民国の下でも十分利用価値のあるものであった。さらには、広大な国土と厖大な人口を治めるための実務上の問題もあった。政務においては、清朝官吏らの能力と政治的思考を頼らざるを得ない局面はいくらでもあったのである。総じて言えば、残された清朝の権威を利用し、都合によって皇帝を引っ張り出すことが、新政権にとっても有益であると考えたものと言える。
ところが、この譲歩が宮廷内に残る守旧派の妄動を許すこととなる。革命後も、清朝に絶対的な忠節を尽し、復辟(清朝を再興し皇帝の地位を復権する)の機会を伺う臣下も少なからずあった。張勲もそのうちの一人であり、1917年、彼は新政府内部の意見の対立によって生じた政治的空白に乗じて、帝政の復活を画策する。溥儀は再び、即位するのだが、この政変は僅か13日で挫折する。11歳の溥儀は、自分の立場や置かれている状況もようやく理解できるようになっていた。この事件は、後に溥儀が清朝復辟に執着するに至る最初の経験であったと言える。
中華民国の庇護の下で、宮廷に止まることを許された溥儀らではあったが、代わりに、自由に出入りすることを禁じられた。紫禁城は幽閉地同然であり、溥儀もまた事実上、囚われの身となったのである。しかし、外界から閉ざされた紫禁城では、相変わらず贅沢三昧が続けられており、政権の責務と重圧からも解放されたお陰で、緊張感もなくただ放蕩を貪るだけの宮廷生活は退廃する一方であった。
紫禁城に、香港総督の秘書官などを務めたイギリス官吏のレジナルド・ジョンストンが教育係として招聘されたのは、溥儀13歳の時である。背の高い赤ら顔の外国人に恐怖にも似た異様な嫌悪感を抱いた溥儀は、最初、それだけでジョンストンを受け入れようとはしなかった。しかし、英国紳士らしいお洒落で端正な所作にまず好感を抱き、中国語を巧みに操る堪能な語学力と博学に好奇心を惹かれた溥儀は、その場で、ジョンストンを家庭教師として迎えることに決める。
溥儀はジョンストンを敬愛し、その高い教養に心酔した。そして、ジョンストンがヨーロッパから輸入した品々を通じて、またヨーロッパ各地の習慣や巷説などを聴講するうち、東洋とは異なる西洋の文化に親しみ、多大な影響を受けるようになる。洋服に似合うように満州族伝統の辮髪まで切り落としてしまったのも、その例である。キリスト教にも感化され、ジョンストンから「ヘンリー」というクリスチャンネームを与えられ、無邪気に喜ぶのであるが、清朝皇帝の称号を戴く溥儀は、流石に、歴代皇帝に背いてまで洗礼を受け改宗するような真似まではしなかった。だが、愛新覚羅ヘンリー溥儀の名は、公式の場以外において、欧米人と応接する際、好んで用いた。
溥儀は、ジョンストンから一般教養のほか、帝王学や行政学まで授かった。10代の少年が理解するには難解な分野であるが、学問の難解さは、たとえそれを理解するには未熟であっても、将来において有用であることが期待されるなら、人はそれを克服する努力を惜しまないものである。勿論、人にも依るが、その有用性を感得する度合いによって、傾ける努力の度合いも変わるのである。それからすると、溥儀の努力はいくら注いだとしても空回りするしかないように見える。政権を奪われ、形式に過ぎない皇帝にとって、帝王学や行政学はどれほどの意味があるだろう。
帝王学や行政学だけではない。ジョンストンから授かる教養の全てが、どれほどの意味を持つのだろうか、溥儀自身にも全く不明なのである。政治的に無権利状態にある皇帝には、統治者の資質として備えるべき教養という意味は無論なく、学者でもない溥儀には学究というほどの意味もまたないのである。知識や教養など無用の長物でしかなく、溥儀にとっては毛ほども役に立ちそうにない。まるで蛇に靴を履かせようとするようなものである。
中華民国政府が皇帝の称号を残したのは政治的打算にすぎず、宮廷が再び政権に意欲を燃やすことは避けなければならなかった。溥儀を勉学三昧の生活に閉じ込めたのも、政治の場から遠ざけるための牽制に他ならない。中華民国政府にとって、溥儀が得た知識や教養が、空間軸または時間軸の上において、邂逅し、結実していく何物かが存在してはならないのである。政治家が統治権を、軍人が統帥権を、学者が学問的権威を、スポーツ選手がメダルを、それぞれ求めるように、人は誰でも努力の先に何某かの成果を求めるのであるが、溥儀はそうした果実をもぎ取ることを一切禁じられているのだ。形骸皇帝には、あらゆるものが形骸的でなければならない、それが政府の考えであったと言える。形骸に僅かでも実を持たせたなら、その実が膨らんで新しい種を撒き散らすことを政府は懸念していたのである。
それとも気付かず、溥儀は、ジョンストンの厳しい指導の下、ひたすら勉学に打ち込む。皇帝というよりも、一人の教養人として自己を研鑽するために、ジョンストンの導きに従順に従うのである。そのお陰で、溥儀は文筆に長け、書画に秀でるなど、当代随一の教養人の一人となった。溥儀が教養人たらんと自ら欲したのは間違いないが、それが本心であったかはいささか疑問である。
後に、溥儀の側近となり、満州国建国後は「侍従武官」(中将)、次いで「侍衛長」に任じられる工藤忠の著書「皇帝溥儀 私は日本を裏切ったか」には、次のような逸話が記されている。
少年皇帝溥儀を擁立して、清朝復辟(帝政の復活)を策する一団が宮廷内に存在し、工藤も感化され、復辟派に与するようになる。工藤が溥儀に謁見した際、復辟の案を率直に述べたところ、溥儀は
「自分はそんなことを考える暇はない。毎日、勉強に忙しい。」
と答えた。そんなこととは無論、復辟のことであるが、溥儀はその意味すらも理解していなかっただろうし、日々、勉強の課題を消化していくだけでも精一杯で、他に考える余裕もなかったのは事実であろう。
それに対し、工藤はすかさず、
「しかし、やがて帝位につかれたら勉強ばかりしてはおられませんぞ。」
と諫めた。
すると、溥儀は
「そうか、皇帝になれば、勉強をしなくてもよいか。」
と気色を讃えて少年らしく乗り気になった、という。
この一件を以て、直ちに溥儀の中に、清朝復辟の野望が芽生えたとするのは早計であろう。しかし、工藤らとの交流を通じて、清朝復辟に対する思惑が募り、やがて宿願となっていったのは間違いない。
それよりも、溥儀が普通の少年と全く同じように、勉強漬けの毎日を決して快くは捉えてはおらず、気だるくさえ感じていたであろう節が伺えるのは、興味深い。それをまた、隠そうともせず、素直に表すところは、やはり子供だからだろう。出来得れば、勉強に追われる日々から逃れたいとさえ考え、それが清朝復辟の野望と重なっていく、という安易なものではないだろうが、そのことは窮屈を強いられる少年にとっては、一つの大きな要因になったと考えても不思議ではないのである。
ところで、溥儀の家庭教師を引き受けたジョンストンにはどのような意図があったのだろう。まさか、王権の復活と清朝の再興を促したのではあるまい。まして、溥儀に政権への野心を植え付け、中国を一層混乱に陥れ、その騎に乗じて、中国を滅ぼし手中に収めようと言うイギリス本国の思惑を担って画策したとは考えられない。彼は専ら自身の教育に捧げる信念にもとづき、互いに一個の人間として真摯に向き合おうとしただけなのかも知れない。自由な風土に育ったスコットランド人には、孤高の極みに立ち名ばかり皇帝と崇められながら、実際は政治的利用と政治的牽制の狭間に立たされる孤独な少年が不憫に映ったかも知れない。だから、たとえ無駄と判っていても知識と教養を与えることだけがせめてもの慰めであると、そう考えたのだろうか。
しかしながら、中華民国政府の意図や、ジョンストンの願いから外れて、知識教養とりわけ帝王学や行政学は、溥儀に「パンドラの箱」の鍵を与えることになる。後日、その鍵を以て禁断の蓋を開けたのは、あくまで溥儀自身の意思によるものであるが、鍵どころか箱の開け方まで知らせることになろうとは、中華民国政府もジョンストンも全く予想だにしなかっただろう。
(続く)