時代に翻弄され、時代を翻弄した男 − 清朝の末路
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立命館大学ゆかりの人物群をシリーズで追う、その第一話として愛新覚羅溥儀をとりあげる、そのことに首を傾げる諸氏も少なくないだろう。
愛新覚羅溥儀は、言わずと知れた清朝最後の皇帝、そして満州帝国の最初で最後の皇帝である。
その溥儀が立命館大学に深い関わりがあることは余り知られていない。しかし、立命館がその草創期において、学園の礎ともなる多大な恩恵を溥儀より賜ったことは紛れもない事実である。今日、学園立命館が西日本における私学の代表格にまで発展してきた背景に、溥儀の功績があることは論を俟たない。
清朝12代皇帝溥儀は、ヌルハチを祖とする清朝皇帝の家系愛新覚羅氏の正統、しかし、直系ではない。直系は10代皇帝同治帝において、絶えている。同治帝の母は、清朝末期に絶大な権勢を誇ったことで知られる西太后である。同治帝が、僅か19歳で、子を授かることのないまま早逝したため、従兄弟の光緒帝がその跡を襲う。その光緒帝にも子がなく、その跡を襲ったのが、光緒帝の甥の溥儀なのである。
愛新覚羅(あいしんかくら、満州族の読みはアイシンギョロ)は、満州族の語を漢字に当てたもので、愛新は「金」を意味する部族名、覚羅は一族の祖先が最初に定住した地(現・黒竜江省依蘭県の一帯)を意味する。
満州族は現在、人口約1,000万人で中華人民共和国全体の1%に満たず、55ある少数民族の一つに数えられている。この比率は清朝の全時代を通じてもほぼ変わらなかった。中国における多数民族は漢族であり、人口では他の民族を圧倒している。すなわち、満州族により建国された清朝は、少数が多数を凌駕し支配していた国家であり、鰯が鯨を従えるが如くの稀有な社会構造だったのである。多数派の漢民族を正統とする中国の歴史観では、清朝は、蒙古民族が建国した元などと同様に、他民族に支配された征服国家と位置づけられている。漢民族にとって、清朝の時代は屈辱の時代であったのである。
歴史上、清朝の以前にも満州族(当時は女真族という)が支配する国家が存在したことがあった。現在の中国東北部に建てた金朝である。ただし、金は中国全土を治めるに至らず、中国は宋と西夏との三国に分かれ、互いに競い合っていた。三国志で有名な魏・呉・蜀の時代と同様の三つ巴の関係である。金朝は、100年間続いた後、チンギスハンを頭目とし勢力を伸ばしてきた蒙古族によって、宋、西夏と共に攻め滅ぼされる。それから400年の歳月を経て、満州族が再興するのであるが、金朝皇帝の一族と愛新覚羅一族に血の系統はない。
初代皇帝ヌルハチは、明からの独立を果たし、後金国を建設する。そして、明と幾たびかの戦火を交える中で国土を拡大していき、遂に中国全土を支配下に治め、国名を清国と改めた。中国では支配国家が度々交代してきたが、何れの王朝においてもそれを統治し君臨する皇帝は皆、龍を権威の象徴として崇め奉ってきた。どうやら、中国には龍が皇帝を加護する絶対的存在として信奉されてきたようであるが、清は国旗そのものに龍の意匠をあしらい掲げるほどであった。龍が咆哮し、天地を自由に行き交うが如くに清が最も栄えたのは、康熙帝(第4代)・雍正帝(第5代)・乾隆帝(第6代)の3代にわたる時代である。日本で言えば江戸時代中期の頃である。因みに康熙帝、雍正帝、乾隆帝などの称号は実名とは異なり、統治した時代の年号を冠した敬称である。日本もこれに倣って、天皇が崩御された後に年号を冠して呼称することとなっている。なお、溥儀の場合には宣統帝と呼ばれる。
溥儀が即位したのは1908年11月15日、僅か2歳8ヶ月の時である。前日に光緒帝が急死したのを受けて、その後継に幼少の溥儀を指名したのは、約半世紀に亘り清朝に君臨してきた西太后である。
子供に恵まれなかった光緒帝の後継としては、継承順第1位の実弟・醇親王載澧が本来皇帝の座につくべきものである。しかし、西太后は敢えて醇親王を退け、親王の子である溥儀を皇帝に推したのであるが、それには理由がある。
ひとつは、醇親王が過去に光緒帝らと謀った事件により、西太后の不興を買っていたことにある。
阿片戦争(1840-1841)に敗北した清朝は強制的に開国させられ、以来、欧米諸国からさまざまな圧力を受け、国の権益を脅かされるようになる。領土の割譲が相次ぎ、半植民地のような扱いを受けるようになって、清朝に対する国民の信頼は大きく揺らぐようになっていた。日清戦争(1894-1895)による敗北も大きな痛手であった。欧米諸国との自由貿易は、暹羅(タイ王国)、越南(ベトナム)、朝鮮、琉球などの冊封国(中華思想に基づき、中国歴代王朝から属国の扱いを受けていた近隣諸国)との間の宗属(君臣)関係を揺るがせ、これらの国の独立を許すことになる。冊封国の朝貢を失い、清朝は財政的にも逼迫するようになる。自由貿易はまた、通貨銀の国外流出を促し、銀価格の高騰によって実質的に国民に重税を課すようになる。それが元で窮状にあえぐようになった民衆の間で、宮廷に対する不満が広がっていた。同時に、宮廷内部でも旧態依然たる清朝の政治体制に対する不満が広がり、改革の機運が盛り上がっていく。
清朝では、明治維新により近代化を遂げた日本の影響が大きく、またそれに対する期待もさらに大きかった。民衆の不満を封じ込め、支配層間での政権の移譲に止め、上からの改革を断行していった日本の立憲君主制は理想であった。また、清朝と同様に鎖国を解いたばかりの日本が、欧米諸国に屈するどころか、交易を通じて急速に近代化を遂げ、国力を蓄えていったことも、羨望の的となっていた。極端な西洋化と天皇を絶対的とする国体こそが、明治維新以後の日本における富国強兵の原動力であると見なし、それに倣った新たな体制づくりを主張する改革グループが宮廷内で勢力を伸長するようになる。
康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派は、1898年、光緒帝を指導者として仰ぎ、政変を企てる。後に戊戌の変法と呼ばれるこの改革は、法だけに止まらず、政治体制そのものを変革し、清朝を日本のような欧米諸国とも対等に列せられる強国にしようとするものであるが、当面、最大の狙いは西太后であり、その絶対的な権力を弱めることであった。
醇親王は、兄・光緒帝に従い、この改革を全面的に支援するのであるが、恐らく実際は、変法派に請われた醇親王が光緒帝を担ぎ出したものではなかったかと思われる。しかし、変法派内部には当初より意見の対立があり、改革は決して順風満帆ではなかった。
西太后は政変を即座に察知し、その矛先が自身に向けられることを悟ると、居所を移すなど素早い対応に出た。政変に呼応して軍部を束ねる筈であった袁世凱を翻らせ、自らが指導して反革命(戊戌の政変)を企て、変法派に立ち向かうのである。結局、戊戌の変法は僅か数ヶ月で頓挫する。「百日維新」と呼ばれる所以である。
西太后は、敗れた変法派の処分を行う。康有為らは日本に亡命していたが、残された6人の主要メンバーは処刑され、光緒帝も一時、幽閉される。光緒帝、醇親王の兄弟も例外ではなく、西太后は帝の廃位も考えるが、周囲の反対により断念する。しかし、宮廷における帝と親王の権威は失墜し、西太后の支配はさらに続くことになるのである。
変法派に与した醇親王に対し、西太后が平気でおれる筈もなく、親王を玉座から遠ざけたのも当然と言えよう。
西太后が溥儀を皇帝に指名したもう一つの理由は、溥儀の外祖父が西太后の腹心栄禄であったことである。栄禄は、直隷総督などを務めた大官であり、長年に亘り西太后に仕え、余人を以て代え難い忠節ぶりを発揮した。戊戌の変法の折、いち早くこれを察知し、西太后を助けたのも栄禄であった。このような身を挺した栄禄の働きに西太后は深く感銘し、日頃の功労に対する褒賞の意味で、彼の娘を醇親王と結婚させた。醇親王と栄禄の娘の間に生まれた長男が溥儀なのである。溥儀を皇帝に立てたのは、栄禄に対する西太后の信頼の厚さを示すものであると言える。なお、西太后と栄禄は臣従の関係を越えたただならぬ関係ととかくの噂もあった。浅田次郎の『蒼弓の昴』では、18歳で咸豊帝の後宮として宮廷に上がる前の西太后と栄禄の恋仲を描き、咸豊帝亡き後、親密となったことを匂わせる台詞を西太后に吐かせている。事実であるか単なる創作であるかは定かでないが、栄禄の孫を皇帝に立てる特別な何らかの感情が西太后にあったことは窺い知れる。
光緒帝が病を患い重篤となっていた頃、時を同じくして西太后も病に臥せっていた。共に病が進行し、余命いくばくもいないのを悟ると、西太后は溥儀を宮廷に上がらせた。その3日後、光緒帝が亡くなるのだが、西太后はその日のうちに溥儀を即位させる。そして、その翌日(11月15日)に、西太后もまた後を追うかのように死去する。この数日間が清朝にとって最も慌ただしい時期であったと言える。なお、光緒帝と西太后がほぼ時を同じくして亡くなったのは、自分の命が幾ばくも無いことを悟った西太后が、光緒帝を毒殺したという説もある。西太后は死してなお自らの権力を残したかったのではないかとも取れるのである。
政務はおろか、右も左も覚束ない幼年皇帝である。代わって政務を行ったのは、溥儀の即位と同時に摂政王に任じられた実父の醇親王である。
映画「ラストエンペラー」では、幼くわがままな溥儀の足下に平伏し、排便の世話までする醇親王の姿が描かれているが、これはフィクションであり、誇張に過ぎない。清朝のみならず中国の歴代王朝において、皇帝は絶対で有、たとえ親子であってもその関係が翻ることはない。溥儀の父である醇親王もまた、旧廷内では臣下の礼を以て振る舞わなければならない。だが、親王は幼帝を後見し補佐する立場で政権を掌握し、溥儀が成人するまでという期限付きではあるが、清朝における実質的な最高権力者なのである。
実子を皇帝と崇め、その臣下たるを甘んじて受け入れざるを得ない親王ではあるが、果たして自身は帝位を望んでいたのであろうか。戊戌の変法は「光緒帝の指導による」という体裁ではあったが、実際、帝を改革の頭目に担ぎ上げたのは親王であったのだろうし、変法には進んで加わり、清朝の改革には積極的な親王である。権力を恣にする西太后とその一派には批判的であり、国際情勢にも敏感で清朝の改革を強く望んでいた。親王は、滅び行く清朝の末路さえ予感し、案じていたのではないだろうか。だから、皇帝の座を襲うつもりなど、端からなかったのかも知れない。後に満州国が建国された時も、皇帝の地位を欲しがった溥儀らとは一線を画し、親王は満州の前途に対して懸念を抱き北京にとどまるのである。
親王は25歳の若さでありながら、先帝の片腕として政務に携わり、戊戌の変法でも腕を振るったことでも知られるように、その政治能力は既は実証済であった。
親王は、摂政王として全権を掌握すると、直ちに戊戌の変法を挫折に導いた張本人である袁世凱を失脚させる。親王らを裏切り、西太后に寝返ったことに対する恨みも勿論あったではあろうが、毀誉褒貶に左右されがちな袁世凱の気質について、軍制の中枢たる資質に欠け、国家の危急存亡にも関わることと危惧し、追放したものと思われる。
親王は皇帝の最高諮問機関である軍機処にかわって内閣を組閣するなど、西太后の存命中には適わなかった政治制度の改革に着手する。
しかし、清朝の衰退は著しく、かつての隆盛を呼び覚ますなど儚い夢物語にしか過ぎないことは誰の目にも明らかであった。西太后の時代は、たとえ強圧的であったとしても、国内に澱む不安定な情勢を制圧し、辛うじて治めることはできたのであるが、そのカリスマを失った時、強大な清朝の幻想も潰え、最早、親王一人に国政の舵取りは困難であった。
(続く)