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小麦の短編集

電車の中

作者: 小麦

「……」

 俺は床を見つめる。もうこの電車に乗り続けて三か月。俺は毎日仕事を忠実にこなしていた。だが、それも今日で終わる。俺の役目は今日七月七日をもって終わるのだ。

「……」

 俺は隣を見つめる。ここは昨日まで俺と同期のやつが一緒にいた場所だ。だが、昨日とうとう入れ替えられてしまった。あいつも俺と同じくもう終わりらしい。何というか、普段と同じ景色が見られないというのは新鮮である。それと同時に、どこかさびしさもこみあげてくる。今俺の隣にいるのは今まで見たこともない奴だ。

「今日も運転頑張っていきましょう宮崎さん!」

「よし、今日も安全運転目指して出発だ!」

 俺のそばで始発の運転を担当する運転手が意気揚々と話し始める。そして、俺の最後の仕事は始まった。



 俺は始発からずっとこの電車に乗っている。三か月もこんなことをしていて飽きないのか、と思われるかもしれないが、これも仕事の内なのだから仕方ない。せっかくなので今日は読者の皆さんに俺の一日実況を聞いていただこう。え、めんどくさい? まあまあ、そうかっかなさんな。俺が今日で役目を終える身というのは先ほど書いた通り。最後の戯言だと思って気楽に聞いてくれればいい。



「……」

 電車の中というのは実に興味深い。何せその人の様々な本質が見えるからだ。例えば若い女性であれば、化粧をしていたり窓の外を眺めていたり。若い男性ならば座り込んで食事をしたり、ガンをつけてみたり。

男女両方に共通して言えることは、携帯電話やゲーム機などの電子機器を使って乗車時間を過ごしている人が多いことだ。付き合っている男女なら、電車に揺られている間もイチャイチャしていたり、二人だけの時間を共有していたりするのもよく見かけた。もっとも、こんなことは別に少し電車の中で人間観察をしていれば分かることであって、別に特別なことでもない。とはいえ、その光景も今日で終わりとは、実に感慨深いものだ。



「……」

 その一方で、少し年齢層が上がってくるにつれて、電車の中ですることは大きく変わってくる。40代くらいになれば新聞記事を読んでいたりすることもある。見ている記事の内容にはコメントはしない。大体そういうのを読んでいるのは男性だからである。ほら、ここまで言ったら分かるだろう? 50~70代になると、読書をしている人を多く見かける。あくなき探究心というのはとても大事なものだ。人間は70代になると道徳の規範から外れることはなくなる、とは孔子の教えだが、実際はその年になっても悪いことを考える輩というのは存在する。おそらく人というものが規則や道徳に従って動こうとする限り、このような問題は絶え間なく起こり続けるのだろう。



「……」

 そうそう、人が降りる瞬間というのも意外と分かりやすい。例えば荷物をまとめる人。例えば次の駅名を確認する人。アナウンスが流れると同時に立ち上がってドアの前に立つ人。その人の性格というものが如実に表れているのだ。せかせかしたかのように急いで立ち上がる人もいれば、ドアが開いて数十秒してから慌てて立ち上がる人だっている。人間というのはこうして考えると本当に不思議なものだ。同じ種族だというのにこんなにも十人十色なのだから。これが人間に分かりやすく見られる性格というものの一つなのだろう。



「……」

 あそこで子供を連れた女性の方が謝っている。どうやら子供の方が飲み物を男性にぶちまけて彼の洋服を汚してしまったらしい。男性は許しているようだが、子供が謝らないのを親が子供のせいにしているように見える。これは良くない。子供の責任は親の責任と平凡なことをここで言ってはみるが、子供は何が良くて何が悪いのかまだよく分かっていない。よく分からないまま怒られているあの子がかわいそうだ。



「……」

 お昼時ともなると、家族連れの乗客が多くなってくる。そこに混ざってあの人が携帯片手にしているのはツイッターだろうか。なになに……ふむ、どうやら親友に関する愚痴を書いているようだ。こういうのが見えてしまうから人の心の醜さというのはいつになっても消しきれない。書き込んで楽になるというのならいいが、どうせその場に行けばまた同じことの繰り返しだというのに。そもそも愚痴るくらいならSNSなど止めてしまえばいいのに……おっと、俺もこれではあの人と変わらないな。



「……」

 夕方、帰宅ラッシュの時間帯だ。この時間ともなると暑苦しいサラリーマンたちの戦争が始まる。それと同時に様々な事件が起こったりもする。

「キャー!」

 おやおや、言ってる傍から何かが起きたらしい。叫び声をあげたのは若い女性。ということはおそらく痴漢だろうか。摑まるかもしれない恐怖におびえながら、それでも若い女性を狙って犯罪行為を繰り返すことにスリルでも感じているのだろう。行為に関心はできないな。もっと別のことに興味を示すべきだろう。そうだな、例えば今この近くでやっているエジプトの不思議という展示会なんかはどうだろう。昔の人がいかに偉大だったかが分かってお勧めだ。……おっといかん、ついセールストークに走ってしまった。



「……」

 夜ももう遅く二十三時、この頃になると電車の中には酒の匂いが充満してくる。仕事に疲れたサラリーマンが、飲み屋で一杯してから帰宅するためである。彼らにとっての酒は仕事に疲れた体を癒すオアシスのようなものだ。グイッと一杯やってから、会社の愚痴をこぼし、時には妻に対する愚痴をこぼし、帰宅するのだ。もっとも、先ほど帰宅ラッシュで帰った人たちの中にも帰ってからビール一缶を開ける、という人たちはいるかもしれない。こうして彼らはまた次の日、会社の家畜として雇われ、ボロ雑巾のようになりながら一日を終えるのだ。



「……」

 終電だ。私の仕事もそろそろ終わる。ガラガラの電車から人が降りてゆく。誰もいなくなったはずの電車には、しかし確かに人がいた。

「さて、とっとと終わらせますかね」

 俺はゆっくりとその体を丁寧に外されていく。そして俺の体が電車から完全に離れ、俺は仕事を終えた。

「……そうか、エジプトの不思議今日までだったのか。行きたかったなぁ」

 男は俺を見てこう言う。そう、俺は広告だ。三か月も電車に乗りっぱなしだったのは、俺がただずっと人の目に留まるように吊り下げられていたからに他ならない。もっとも、俺のことをまじまじと見ている人というのは先ほど書いた通りごく少数だ。大半は携帯をいじっては新聞を読み、疲れた時にチラッと俺を見るくらいだ。はたして俺は役目を果たすことができたのか。俺に知る術はない。だが、俺の仕事も今日で終わりだ。あとは後輩たちに任せて、ゆっくり休むとしよう。

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― 新着の感想 ―
[一言] ははあ、そういうことですか。 結末が意外でした。
[良い点] 視点がおもしろいと思います。 [一言] 子供向けの童話にされてはいかがでしょうか。
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