神狩りの巫女五
鹿子は白い着物の衿を正した。
「それじゃ、行ってきます。淘汰。村をしっかり守るのよ。まさか人里にまで降りてこないとは思うけど」
昨夜、淘汰の聴いた荒ぶる神の咆哮は、かなり村に近い所だった。村人達を安全な場所へ避難させたい所だったが、転じた神が近くをうろついていてはそれもできない。
村に戦える者がいなくなるのに不安を感じた鹿子は、淘汰を留守番に残すことにした。
「ご武運を!」
淘汰の言葉に手を振って、二人は山に向かった。
草を踏むたびに青臭い匂いが立ち昇る。歩を進めるごとに少しずつ、少しずつ、狂った神気が近づいてきた。
がさり、と茂みを分ける音に、鹿子は顔を上げた。ふっと日が陰る。ほとんど本能で危険を感じ取り、体を投げ出すようにして地面を転がる。地響き。
「うお!」
殺嘉が声を上げる。
つい数秒前、鹿子が立っていた場所に、巨大な蜘蛛が降ってきた。いや、蜘蛛に似ているが、間違いなく転じた荒ぶる神だった。
見るからに毒々しい、黒と黄の縞模様。いびつな八本の足に支えられた胴の厚みは、鹿子の背丈程もあった。そして、一番前についた足一対だけ、ほかの物よりも異様に太い。はさみのように先は別れていないが、カニのように敵を攻撃し、また頭を守ための物だろう。指のような触肢に囲まれた口。吹き上がる蒸気のような音を立て、そこから息が吐きだされる。八つの眼が鹿子を捉えた。
「どうやらこれが荒ぶる神の親玉らしいな」
殺嘉がつぶやいた。
荒ぶる神は鈎爪のような前脚を振り上げる。鹿子は後方へ跳んだ。爪が土に突き刺さる。
鹿子は地面に突き刺さった脚にむかい、刀を振った。金属を叩いたような硬い音。
「効いてない!」
腕の痺れを感じながら刀を引き、構え直す。
軋んだ音をたて、八本の脚が動いた。体躯に似合わぬ速度で荒ぶる神は鹿子に突進した。 避ける暇はない。胸の前で刀をたて、せめてもの防御にする。
弾き飛ばされ、鹿子は地面に叩きつけられた。端の切れた唇から息が漏れる。体が痺れ、すぐには動けない。
地面に接した胸と腹から、近寄る振動を感じ取る。神は鹿子を踏み潰すまで前進を止めないつもりのようだった。
「鹿子!」
殺嘉の声と、金属音がした。殺嘉の毒づく声がする。彼の刀も弾かれたようだが、蜘蛛はほんのわずか、歩みを緩めた。。
鹿子はそのスキに立ち上がると、蜘蛛にむかって走り、真上に跳躍する。大蜘蛛はちょうどその真下を通り抜けるような形になった。鹿子は座り込むような形で蜘蛛の背に飛び乗った。足の下に岩のような感触が伝わる。
視界が高い。蜘蛛の上から見下ろせば、下に流れる地面がみえた。獲物が自分の背に乗っているのが分からないのか、蜘蛛が立ち止まり鹿子を探すそぶりを見せる。
腹の丸みに滑り落ちそうになりながら、鹿子は体をかがめ、ゆっくりと頭の方へと移動を始める。
「このあたり……」
狙うのは、腹と胸の境目。刀を構え直す。息を吸い、止めて、思い切り刀を突き立てた。 血の代わりに淡い光が煙のように細くたなびいた。
耳を貫くような、荒ぶる神の悲鳴。蜘蛛は大きく仰け反った。鹿子は振り落とされぬよう刺さった刀の柄にしがみつく。
蜘蛛が上体を地におろした衝撃で刀が抜けた。放り出され、地面に叩きつけられそうになった鹿子を殺嘉が受けとめる。それでも衝撃はかなりのもので、鹿子は軽い目眩を感じた。
「ありがと殺嘉」
「あいかわらず無茶するな、お前」
鹿子は走り、刀を拾いあげる。
黒鉄でできたような前足が二本、触れるほど目の前に見えた。二本の牙が鹿子の胴を挟もうとする。
鋭く息をはき、鹿子は真っ正面に刀を投げつけた。銀の光が空間を切り裂く。
刃は八つの中で、一番大きな目に突き刺さった。蜘蛛が吼える。前脚で顔をこすり、刀を払い落とす。刀の抜けた傷から湯気のような光がたなびいた。
痛みで混乱して、蜘蛛は脚を手当たり次第に動かした。
「あっぶね!」
削られた土が矢のような勢いで辺りに飛び散り、鹿子達はあわてて距離をとる。
そのときだった。刺すような光が村の方向で閃いた。村の側を流れる小川だった。高くなり始めた日の光で、葉の間からのぞく水面が眩いほどの輝きを放っている。
「いけない!」
刀を拾い上げながら鹿子が叫ぶ。
目の一つをつぶされ、闇の濃くなった視界の中でも、その光は蜘蛛に届いたようだ。荒ぶる神はその明かりにむかって走りだした。
「だめ! そっちは!」
頭の中に火が燃えているようだった。それなのに体は寒い。乾いた喉が痛かった。
駄目、だめ、ダメ! 頭の中で繰り返しながら、小山のような姿を追う。道には蜘蛛の足跡が粗い縫い目のように続いている。追いつけないほどの速さではなかった。並走し、脚を、腹を、頭を切りつけるが、刃が通らない。鹿子は蜘蛛を追越し、里へおりる。
心配そうに山を見ていた村人の中から、淘汰が走り出てきた。
「ごめん、しくじった! 皆を逃がして!」
それを聞いただけで状況を理解して、淘汰は村人達の先導を始めた。殺嘉もそれに加わる。木々に隠れ、村から蜘蛛の姿はまだ見えない。状況が飲み込めない村人達が「何があったんだ?」「村はどうなる」と口々に声をあげる。
「説明は後! とっとと行け!」
「我々がなんとかします。信じて行って! 走れない人達は家の中へ!」
従者達の声を聞きながら、鹿子は座り込みたいのを必死で耐えていた。もともと人数が少ないとはいえ、村人が逃げるには時間がかかる。それまで蜘蛛の脚を止めるとこができるのか? 家に避難した者を、守ることができるのか? この村がどれほどの被害を、死者をだすかは、今、このときの鹿子にかかっていた。
山の木々を薙ぎ倒す音がした。土煙をまとった影が山からまろびでる。
「嘘、だ、ろ」
平坦な口調で殺嘉がいった。
「あの蜘蛛、下級神どもまで、呼びやがった」
熊、百足、蛇。さまざまな神が蜘蛛に付き添うように坂を下ってきた。
「蜘蛛は私が! ほか、お願い!」
鹿子は蜘蛛の前へ駆け戻る。
「ちぃっ! やるしかないか」
殺嘉が太刀を抜いた。淘汰もそれに続く。
「脚の速いのから順に、一人十匹ってところかな。できるかどうか、やってみる?」
淘汰のその一言を合図に、従者二人は一気に駆け出した。