死地
荒ぶる神の陰の気が呼んだ黒い雲が、空を覆っている。それでも町が明るいのは、あちこちで家が焼けているからだった。炎の照らされている所は眩しいほどに照らされ、影は異様に濃くなる。その明度の差が目眩を起こす。
荒ぶる神は、蜜にたかる蟻のように静楽の都に押し寄せてきた。朱は陽明壁と星明壁両方に符を貼り張った結界も、これだけの数の神を防ぐことはできなかった。蛇、熊、蛙。様々な形をした大きな黒い影は、ただの土くれになった陽明の壁を乗り越え、規則正しく並んだ屋根を押し潰していた。門扉が固く閉ざされていても、これでは意味がない。
そのすぐ足元を、人々が内裏へと走っていく。占司殿に近いからか、辛うじて内裏のほうの封印は解けていなかった。数人の巫女と従者が、人々を守るため門を出て荒ぶる神を狩っていたが、それももう限界だった。
「急げ! もうすぐ内裏の門を閉めるぞ! 朱様の命令だ、巫女達は占司殿に戻れ! 結界を強化し防御に専念する!」
従者の一人が叫んだ。
「ヒルコが来る! 早く!」
都の中にも、わずかだが黒い水溜まりは現われた。いっそヒルコが荒ぶる神を喰ってくれれば楽なのだが、未熟な神であるヒルコに、転じきった神を喰うほどの力はなく、新たな脅威が増えるだけだ。悲鳴と、火の爆ぜる音。都の外では、小さなヒルコが水銀のように一つになり、大きくなっていく。黒い波は量を増しながら確実に都へむかっていた。
鹿子は目を覚ました。旅先の物とは違う、やわらかな布団。額には、濡れた布が置かれていて、気持ちいい。
「ここは?」
「目が覚めました?」
顔を覗き込んできたのは、鹿子つきの采女の理香だった。桜色の着物をたすきが掛けしている。活発そうな瞳が印象的な少女だ。手に布を持っている。顔の汗を拭いてくれようとしていたようだ。
「ああ、格好悪い。このごろ気絶してばっかりだわ」
鹿子が額を押さえながら言う。
強い薬草の匂い。何もない板の間。理香に訊くまでもなく、ここがどこなのか分かった。占司殿の一室だ。
「おはようございます」
この場にいてはいけない人物を見て、鹿子は目を丸くした。詩虞羅が床に座り、微笑んでいた。
「な、なんで詩虞羅さんがここに?」
「もう、男子禁制とかそういうことを言う余裕がなくなっているのですよ。本来なら、役人と占司殿の関係者しか入れないはずの建物も、解放され、避難してきた人達の避難場所になっています」
血を流している怪我人を入れれば、ますます結界は薄くなる。けれどほうっておくわけにはいかない。火を守ろうとする氷の壁のように、結界は内側からも弱まっていく。
すぐ隣で、小さなうめき声がした。
隣にそろえられた夜具の中に、操吟が横になっていた。
「くっ、いや、燐音様」
ほかの人間に燐音の正体を知られることがいいことかどうか、わからなかったので、とりあえず鹿子はそう呼んだ。
赤い着物を着たままで、繰吟が眠っていた。体を二つに折って、痛みを堪えているようにも見える。頬に涙の伝った跡があった。
「さっき、運ばれてきたのです。見慣れない人ですけど、帝の将ですよね」
理香の言葉に、鹿子はぎこちなくうなずいた。
「え、ええ」
いいえ、実は帝の将じゃなくて帝本人です。言いたくてたまらない言葉を呑込む。
そんな鹿子の気持ちも知らず、理香は続けた。
「帝の陵墓の近くで、荒ぶる神に殺されそうだった所を、助けられたそうです。隊を残して、一人で陵墓にむかっていたらしいんです。たまたま逃げてきた兵達に助けられたらしくて。どうしてそんな所にむかっていたのか」
横に眠る操吟の頬には血の気がない。唇もあせている。
玲帝の鏡のことは朱から鹿子も聞いている。きっと、操吟は兄に会いにむかったに違いない。元兇の場所に。
痛々しい繰吟の様子に鹿子は顔をしかめた。
「そうだ、殺嘉と淘汰は?」
鹿子の言葉に理香が顔を強ばらせた。
「それは、その」
理香がなんとかごまかそうとするが、いい言葉が思い浮かばないようだった。
「あの二人は玲帝の陵墓に行きました」
黙っていた詩虞羅が口を開いた。それを聴いて鹿子は飛び起きた。
「なんで二人だけ! 私も行かないと」
鹿子は慌ただしく立ち上がろうとした。目の前が一瞬真っ暗になる。傷が斬りつけられたように痛んだ。たまらずよろけて布団に座り込む。
「大丈夫ですか、鹿子様」
理香が体を支えてくれた
まだ呪いは解けていない。ということはまだ殺嘉達は柚木を殺していないということだ。まだ間に合うのかも知れない。柚木と二人の従者が両方生きているのなら。でなければ、もう手遅れなのかも知れない。従者二人が死んで、柚木が生き残っているなら。
遠くで、海鳴りのような轟きがした。ヒルコが近づいて来ている。都に達するまでそう時間はないだろう。
「淘汰、殺嘉!」
鹿子はもう一度立ち上がった。
「鹿子様! あなたは死ぬおつもりですか!」
理香の言葉を無視して、部屋を出ようとした鹿子を腕を詩虞羅がつかんだ。
「いけない、鹿子様! 外に出られる状態じゃない。ヒルコの穢れで、呪いがひどくなっているはずです」
鹿子はなんとか腕を振りほどこうとする。
きつく手を組んで、理香が懇願してきた。
「鹿子様、やめてください! なにがあったのかは知りませんが、鹿子が弱っているくらいは分かります。今戦えば、下級神にだって殺されてしまいますよ!」
「理香。私は柚木様に呪いをかけられたの。逃げたてら、遅かれ早かれ死んでしまうわ。それだったら、なんでこんな事をしたのか、柚木様に直接聞いて力尽きた方がいい。それに、私は巫女なのよ。ただの女の子じゃない。頑丈なの。まだ戦えるわよ」
「でも、それならせめて誰かほかの巫女様を一緒に」
理香はさらに食い下がる。
「ありがと、理香。でも行かなくちゃ。こうなったのは私のせいでもあるのよ」
鹿子はにっこり微笑んだ。
「見てないけど、感覚でわかる。今、祈祷の間では巫女達が結界を強める祈りをしているんでしょ? 祈りという紙の盾を何枚も重ねて、矢の一斉攻撃を防ごうとしているようなもの。一人だって抜けられない。本当は私だって協力しないといけないくらい」
鹿子の言葉は冷静だった。
「少しでも祈りの力が衰えれば、この都はあっという間にヒルコに沈む」
理香はまだ納得できていないようだ。
「あなたの気を失わせたとき、殺嘉に『牢にでも入れておけ』と言われた意味が分かりましたよ」
「そんな事を言ったの? 私がどう行動するのか見通しなのね」
こみあげてきた笑いは、痛みでひどく弱々しい物になった。
鹿子は枕元の刀を握った。傷のせいなのか、緊張のせいなのか、持ち慣れたはずのそれがひどく重く感じた。




