凛音(りんね)と詩虞羅(しぐら)一
背中の感触で、自分がどこか柔らかい所に寝かされているのがわかる。川の近くなのだろう、水の音が聞こえた。腕を動かすだけで貫くようだった腹の痛みが、かなり和らいでいた。眠い。喉が乾いていた。小さく咳払いする。
「お、目が覚めたようだねえ」
聞いたことのない女性の声だった。無意識に殺嘉か淘汰の声を待っていた鹿子は、体を緊張させる。すぐに起き上がって、自分のおかれた状況を確認しなければならない。そう思っても半分眠っている体はまともに動かない。
「ここは安全です。もっと眠っていて結構ですよ」
今度は一番始めに聞いた女の物とは違う、穏やかな男の声。そんなことを言われても、知らない人間二人に見守られていては、ゆっくり眠る気になどなれない。鹿子は無理して上体を起こした。石臼でも乗せているように頭が重かった。
そこは戦のときに張る陣に似ていた。地面に建てられた柱に渡された布が、そのまま壁がわりになっている。陣幕には帝の文様が染められている。厚い敷物が地面に直に敷きつめられていた。そこにさらに薄い敷物が敷かれ、鹿子の寝床になっている。
傍ら(かたわら)に座っていた、男物の赤い衣を着た女性が、額にかかった髪をはらってくれた。戦人らしく、胸だけを覆う鎧を身につけている。まだぼんやりとしている鹿子の様子がおかしいのか、その女性は紅をさした艶やかな唇に笑みを浮かべていた。きりりとした目元。黒く長い髪も邪魔にならないように高く結いあげられている。腰の刀には帝の印が彫られている。
「よく生きていたものだ。よかったねぇ」
腹の傷に違和感を覚え、そっと触れてみると、何かの符が貼られていた。紫色の墨で描かれた文字に鹿子は見覚えがあった。
「これって外法の術」
占司殿でその歴史だけなら習ったことがある。海の向こうにある大陸から渡ってきたという術。外法の名が示す通り、朱の司る古来からのまじないや祈祷と違う考え方と理屈で行なわれる術だ。
鹿子より前の世代の祓いに、実験的に数人の巫女と従者に教えられたと聞く。しかし扱いが難しく、命を落とす術者も出たため、結局禁忌となった。よって、この国でこの技を使えるのは、数人ということになる。
「この符は、なんの……」
「ああ、剥がさないでください」
淡い青の衣をきている男が背を支えてくれた。鹿子や殺嘉より年上なのは間違いないが、かといってそれほど年を取っているようにも見えず、年齢不詳といった感じ。女のように、そのままたらした黒髪が肩にかかっている。
「剥がしたら、また傷が痛くなりますよ。それは痛み止めの符です」
話を訊きながら、鹿子は無意識に自分の刀を探す。
「ああ、すみません。刀はしまったんです。床の横においたのでは、場所を取りますから。他意はありません」
鹿子の警戒を知ってか知らずか、男は隅に置かれた箱の上から布に包まれた刀を取り、渡す。確かめると間違いなく鹿子の物だった。なにも仕掛けをされてはいないようだ。
男はふわりと微笑んだ。優しげな目と薄い唇が弧を描いた。
「私は詩虞羅といいます。初めまして、鹿子さん」
「どうして私の名前を? どこかでお会いしましたか?」
「従者さん達から聞きました」
詩虞羅の視線を追うと、陣幕の隙間から見慣れた色の裾が二つ覗いている。殺嘉と淘汰がまるで門番のように外に立っているのだ。
「あんたの血の跡をたどってここまで来たようだね。二人とも、とっても心配していたよ。愛されてるねえ」
男装の女性がからかう。
「あ、それで、こっちの女性は凛音さん」
詩虞羅が紹介してくれた。
「あ、あの、陣幕の文様。貴女も帝の将ですよね。なんで帝の使いの方が私を助けてくれたのでしょう? たしか私を見つけしだい殺せって命令が出てるって…… 私は命乞いをするために禍刺のところへ行こうとしていたのですが」
その言葉に、凛音は驚いたようだった。
「へえ。どうやら情報の行き違いがあったようだねえ。私も鹿子という巫女を探すように命じられたけど、見つけ次第殺せとは言われていない。ひどい抵抗があった場合は斬り捨ての許可はもらってるけど、あんたはそんな感じじゃないねえ」
「あ……」
涙が出そうになる。そうだ。繰吟様や朱様が、こちらの言い分も聞かずに自分を殺そうとするはずがない。
「はい、どうぞ」
詩虞羅が湯呑みに水をついでくれた。そういえば喉がカラカラだ。ありがたく水を飲みながら話しかける。
「詩虞羅さん、あなたも帝の将ですか? 失礼ですが、とてもそうには見えません」
「私は将ではありません。昔、巫女の従者をしていた者です」
少し意外な気持ちで詩虞羅をみた。彼はやさしげで、荒ぶる神と戦う所など想像ができなかった。もっとも、それを言うなら淘汰も優しそうな外見をしていて、その実意外と気性が荒いけど。




