神狩りの巫女一
踏みしだかれた草は夕暮時の空に届きそうなほど濃い匂いを立てる。枝を折り、土を蹴たてて少年が山道を駆けていた。袖が切れ、剥出しになった腕や、草履の脱げた足は擦り傷にまみれている。人の物ではない足音がその後を追っていた。
それは狼に似た醜悪な生き物だった。尾と黒い爪は歩きづらそうなほど長い。全身は、鋼のように硬く赤黒い毛に覆われている。そしてその毛一本一本が生き物のように波打っていた。金色の目には明らかに獲物をいたぶる喜びで輝いていた。
速く、速く。少年は全力で足を動かすが、疲れた体は焦る気持ちについていかない。荒い呼吸で乾いた肺が痛い。
「あっ!」
自分の足につまずいて彼は地面に転がった。背後から聞こえる、全身が痺れるほどの咆哮。
その時、獣の物とは違う影が地面をすべった。もしもこの時彼が顔を上げていたら、自分の体を覆った影の主が、白い着物と緋の袴の女性だったことがわかっただろう。
袖をはためかせ、少年を飛び越えた女は獣と童の間に降り立った。足が地面を捉えた瞬間、彼女の腰につけられた鈴が清らかな音を立てた。長い黒髪が揺れる。
急に現われた人間に戸惑い、獣は足を止めた。
わずかなそのスキに女は獣の胸に刀を突き刺した。ドッ、と音を立て、獣は地面に倒れる。ためらいのない、見事な一刀だった。
「安心して。もう大丈夫」
巫女は子供の前にしゃがみこむと、優しく小さな背をなでた。
「あ……」
少年は涙で汚れた顔を上げ、巫女の大きな茶色の瞳を見つめる。
「荒ぶる神を探しに来てみれば、まだ山に人がいたなんて。君、一人? 他に誰かいない?」
「お姉ちゃん…… ムラトが、友達が…… わああああ!」
巫女は黙って少年を抱きしめた。
その友達の身に何が起こったのか、獣の前脚についている血をみれば、詳しく訊ねるまでもないだろう。
「僕、ムラトと一緒にここに遊びに、そ、そしたら、急に、あの、狼が……」
「大丈夫。悪い神様はもういなくなったから。ほら」
巫女が指差したのは獣の亡骸だった。赤黒い毛皮の色が、少しずつ薄れていった。最後には清らかな水のように透明になる。輪郭も空気に溶けるようにゆらゆらと揺らめき歪んでいった。支えを失った刀が小さな音を立て地面に落ちた。
狼の骸は、無数の光の粒となった。光は揺らめきながら空へと立ち昇る。蛍の乱舞のように。
光が消えるのを見届けると、女は愛用の刀を拾いあげる。
「ごめんね。私がもう少し早く来ていれば」
その言葉に、童は何度も首を振った。
この世界は混沌から生まれた。地を、天を、生き物を生んで混沌は消えた。しかしその力の片鱗は、今なお地上に澱のように残っている。その力はまれに凝り固まり、さきほどのような獣を、目に見える力の塊を生み出す。中には岩や樹に宿るものもあった。
そして塊となった力は、生物に影響を及ぼすほど強くなる。その影響が穀物や動物におよび、豊作や多産を呼び起こせばそれは神として崇めたて祭られる。しかし天地創造の力はとても不安定な物で、逆に腐れや滅びをもたらす荒ぶる神になる事もある。社に祭られていた神が急に人を襲うようになることもまれにあった。
恩恵をもたらす和神が、人を襲う荒ぶる神になることを『転じる』という。鹿子は都の帝から命を受け、転じてしまった神を清め、和神に戻す『祓い』の巫女だった。
「さあ、村へ帰ろう。皆待ってる」
山の下に小さく見える村を指差して、巫女は微笑んだ。