第1話 ふたりとひとり その6 完
「わたしたちは仲良しだったけど、結局お互いを知り合うことは出来なかったね」
自分では笑みを浮かべたつもりの顔で、ナツミは最後に彼氏に向かって言った。
珍しく休日前にお互いの仕事が早く終わったので、ナツミは彼氏と一緒に海の近くにある複合型の映画館へレイトショーを観にいった。娯楽の少ない地方都市だけに映画館内は若者たちで割りと混雑していたが、週末ゆえのテンションの高さで賑やかな十代の少年少女たちとは違って、ナツミたちは終始会話も少なく静かだった。そしてその沈黙と静寂の時間が伏線であったかのように、帰りの車中でナツミは彼氏から別れを切り出されたのだった。
最近のやり取りから予想はしていた出来事だった。恋愛経験は豊富な方ではなく実生活でもノンビリ屋だと自認しているナツミだったが、それでもさすがに空気は読めた。お互いもう答えは決まっていて、必要なのは場所ときっかけだったことも。それが男としての責任だと思っていたのだろうか、話が彼氏から切り出された事にはどこかほっとした安心感があった。
私はずるいのか? それとも女だからずるいのか? むしろずるいから女なのか? 途切れ途切れの会話はほとんど上の空で、予想はしていたはずなのに何ともやるせない気持ちがナツミのココロの中に満ちていた。小さい頃、父親に連れて行かれたプロ野球の試合で、中盤に大差がついた後でマウンドを任され淡々と投げていた負けているチームのピッチャーの顔が不意に思い浮かんだ。試合を形式的に終わらせる為だけに起用された敗戦処理係の顔と、彼氏の横顔はどこか似ていた。
恋人同士は向き合って見つめ合うことよりも、並んで同じものを見つめる方が大事だ。と昔の偉い人が言ったそうだ。しかし今、車内という見方を変えれば親密の度合いを測れる狭い空間の中で運転席と助手席という近い距離にあって同じ方角を見ているはずの二人の間には、もう修復不可能な亀裂しかなかった。
「シオ、結婚したいとか思った事ある?」
風にはためく右袖を気にするでもなく黙々と夕暮れの海を眺めるシオの横顔に、ナツミはそれとなく投げかけた。頭にこびりついた昨日の夜の出来事を、何とか緩やかに方向転換させるため。毒を消し去る薬を一気に投与するのではなく、少しづつ薄めて中和させるため。
「聞いてる?」
「彼は……、除隊したらプロポーズするって言ってた。貯めた金を持って地元に帰って、誰よりも大事だと思うその人と一緒に店をやろうって誘うつもりだって」
ナツミの問いかけに被せたように、シオは口を開いた。しかし、ナツミへの返事というよりは独り言のような、風に消え入りそうな口調だった。ナツミの期待していた答え~~優しい言葉とはまるで見当違いな。
それでもシオは続ける。
「いつも僕の右側で言ってた。教導師団にいた頃から、同じ部隊に配属されてからも、海を越えて輸送機から降りた時も。でもダメだった。四半世紀前の旧式の迫撃砲だったけど、最新鋭のボディアーマーだったけど」
ナツミは無言でシオの横顔を見つめた。昨夜の車内の自分のように。
「直撃だった。跡形も無く消し飛んだよ。ホントに、何も無くなった。耳をやられて何も聞こえなくて、口の中は泥と血が混じったままで、視界も一瞬消えて。でも、ただ静かな瞬間だった。いつも右側にいたのに。男なのに笑うと右頬に大きなエクボが出来るから恥ずかしいって、いつも左側を向けて話してたっけ」
いわば恋人同士のなり損ない、それが今のシオとナツミの関係だった。
あの日、シオに出征命令が下らず申請した予定通りに休暇を得てこの街に帰ってきていたら。そして休みを合わせたナツミと一緒に海に出かけていたら。
二人には、別の今が築かれていたかもしれない。
恋愛関係の構築が共同でジグソーパズルを完成させていくものだとしたら、パズルのピースを互いに分け合っていざ製作に取り掛かろうとした矢先に、シオとナツミははめ込む盤を取り替えられてしまったようなものだった。互いに手にしたピースは、無理やりねじ込もうとしても、歪になって噛み合う事は無かった。
何事も始めるには遅い時は無いという人もいる。しかし、物事には時機がある。シオとナツミは互いにその時機を不可抗力的に逸してしまい、そして気づいた時にはそれぞれが歩み過ぎていた。それぞれの道を。熔けた金属同士は混ざり合うが、冷めて完成した金属同士の融合は無い。くっ付けようとしても、ただ、無機質な金属音が鳴るだけだった。
鈍いのではなく、鈍いと感じる一部を、右腕と一緒に吹き飛ばされてしまったのかもしれない。
ナツミには今のシオがそう見えた。
重い湿気を含んだ薄ーい灰色の潮風が、ごうんごうんと吹いて、ナツミの頬をつたった涙を拭い去っていった。
第1話は完結しました。
第2話へ続きます。