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第1話 ふたりとひとり その5

 鉛色の空を映した海面には、あの日とはずいぶん違う白い波が立っていた。時季もあってか海水浴をする人の姿は少なく、高い波を好むサーファーたちが砂浜と波間にまばらに見えた。映画やテレビに出てくるような膝下まで浸かっても足元の細かい白い砂粒がはっきりと見えるような澄んだ青さとは違う、重くのしかかってくるような鈍色の海面と空き缶や漂流物が死に絶えたクリーム色の砂浜。吹きすさぶ風はどこか敵愾心をむき出しにしているように暴力的で、シオの羽織る薄茶色のジャケットの右袖が幾度と無く強くはためいた。

 輸送機の小さな窓から眺めたあの海も、そういえばこんな感じだったかな?

 ジーンズのポケットに左手を仕舞ったまま、少し猫背でシオは海を眺めていた。



 「飛行機のおもちゃ、忘れてきちゃった」

 一昨日の事だった。いつものように病室を抜け出して記念公園の「クレーター」が見渡せるベンチまでやってきたハルミの横に立ち、シオは煙草をくゆらせていた。

 「シオくん、おもちゃ忘れてきちゃったよ」

 車椅子の中で半身をひねり、ハルミはシオを見上げて言った。

 「どうしよう……」

 小さな顔の中の綺麗に整えられた柳眉が眉間に寄せられ、黒い瞳が少し潤んでいるようにシオには見えた。

 「どこに忘れたの?」

 吸いさしの煙草を錆びた備え付けの灰皿に押し付け、シオは左側に体を開いた。左手で帽子を取り、袖で額の汗を拭う。八月はもう残すところ数日だったが、今日は風が無く夕方でも少し蒸し暑かった。

 「海」

 ハルミはシオの顔を見つめながら小さい声で答えた。

 「この間行った時だよ。お姉ちゃんとイージマさんも一緒に。シオくんが車運転してさ」

 「そうだっけ?」

 「そうだよー!」

 「そうか……」

 ハルミの声に苛立ちが混じっているのをシオは感じつつ、適当な相槌を打った。ハルミが飛び降り自殺を図り、一命は取り留めたものの下半身の自由を失ったうえ記憶障害になった事はナツミから説明を受けていた。その記憶障害が自分を妹のナツミだと思い込むと同時に、過去の記憶の時系列がごちゃまぜになってしまう厄介な種類のものであるとも。あの時ため息混じりに語ったナツミの横顔を、シオは鮮明に覚えていた。思い出すことは、あまり無かったが。

 「もう誰かに拾われちゃったかなー」

 ハルミはうつむく。胸元まである長い黒髪がさらに下がった。シオより四つ年上だが、ハルミの髪は白髪の混じったシオの髪よりも遥かに美しく、残照を浴びると白い光を放っていた。

 「イージマさんからもらったのに」

 「どうだろうね。拾われちゃったかな」

 適当な返事をしつつ、シオは胸ポケットにしまった携帯電話を取り出して時刻を確認した。

 「もしかしたら、誰かが海の家にでも届けてくれているかもしれないね」

 「そうかな!?」

 ハルミの声に力が戻った。

 「まだ、あるかな? あのおもちゃ」

 「あるかもしれないね」

 「それじゃあ……」

 弱く風が吹き、木の葉が小さく揺れた。同時に、シオは視線を肩越しに後ろへ向けた。

 「シオくん、探してきてくれる?」

 胸の前で指を開いたまま手を合わせたハルミに体を向け首だけ背後を振り返ったまま、シオは答えた。

 「いいよ」

 二人の背後に、水色のエプロンを着けたナツミが立っていた。




 おあつらえ向き。そんな言葉がナツミの頭に不意に浮かんだ。生臭い湿った風が全身にまとわりつく。雨上がりの「クレーター」からも、そんな匂いがたまにするのを思い出した。頬にかかった髪を人差し指で離すと、ナツミは少し離れた場所で波打ち際をゆっくりと歩くシオの姿を見つめた。

 少し猫背で、時折足元が揺れる。自分よりも年下で二十代相応の格好をしているのに、シオはどこか老人のように見えた。枯れたとか年寄りくさいというよりも、生物としての死を若い者たちより身近に感じかつ静かに受け入れている諦めのようなものが、シオの周りにはあった。肩口に黒い烏が止まっていたとしても不思議に感じない。昔彼氏と一緒に観た映画に登場した、若い男の姿をした死神に似ている。あの役者は外国人で、黒いスーツを身にまとっていたけれど。

 「馬鹿みたい」

 ナツミは呟いた。支離滅裂な姉のお願い~~次の日になればすっかり記憶の彼方に消え去っているであろう申し出を受けたシオではなく、それにただ付いてきた自分自身が恐ろしく滑稽に思えていた。だいたい過去に四人で海に来た事など無かったし、行こうという計画すら無かった。だから当然ハルミの婚約者であったイージマさんから飛行機のおもちゃを譲り受けた事も、それを海に持ってきた事も無い。全ては姉の妄想でしかないのだ。

 「馬鹿みたい」

 シオは相変わらず波打ち際を時折立ち止まりながら歩いていた。その視線は砂浜に落ちたり、遠い水平線に向かったり、厚く垂れ込めた雲に向けられていた。

 そういえばシオと一緒に海に来たのは初めてじゃないだろうか?

 シオの姿を視界の中に置きながら、ナツミは過去をたぐる。しかし、シオが戦争に行く直前に一緒に海を見に行こうと約束した日の記憶はナツミの中で見つからず、逆に今付き合っている彼氏と初めて海を訪れた日の記憶に摩り替わっていた。

 あの日はとても晴れていて、海辺は大勢の人で溢れていた。駐車場が中々見つからず、カーコンポのCDが二周目に入ってから、彼氏は少し無口になりつつあり、ナツミにはそれが機嫌が悪くなる兆候だと感じていた。しかしあの頃は、そんな不機嫌な彼氏の横顔すらも、愛しいものだった。ココロの仮面を外し素顔を見せる。それこそが愛情の表れだと思っていた。今は、互いに別の仮面を手にしているのかもしれないけれど。


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