第4話 真の「自由」との契約
あの嵐の断罪から、一ヶ月が経った。
かつて「サメジマ工務店」という名の魔王城があった場所には、今や重機一つ残っていない。会社は労働基準法違反、最低賃金法違反、さらには出入国管理法違反という「コンボ」を食らい、一瞬で倒産へと追い込まれた。
鮫島元社長は現在、勾留所で「俺は悪くない、恩を仇で返された」と虚しい念仏を唱えているらしいが、その声が外に届くことは二度とないだろう。
「……ふぅ。これでようやく、一段落ですね」
東京都内、一等地にある九条さんの法律事務所。
窓の外には洗練されたビル群が広がり、一ヶ月前には想像もできなかったような平穏な時間が流れている。
僕はソファに座り、出された高級そうな緑茶を啜った。泥の味のしない飲み物は、こんなにも美味しい。
「ヴァンさん、これが今回の『戦利品』です。確認してください」
九条さんが机の上に置いたのは、一通の封筒と、新しい書類だった。
封筒の中身を確認して、僕は危うくお茶を吹き出しそうになった。
「な……ななな、なんですか、この数字! ゼロが、ゼロがいっぱいあります!」
「未払い残業代、不当控除の返還、そして慰謝料と『付加金』です。付加金というのは、悪質な雇用主に対するペナルティのようなもので、裁判所が命じれば未払い金と同額を上乗せして支払わせることができる、いわば『ダメージ二倍』のバフ効果ですね」
そこに記されていた金額は、僕がベトナムで一生かかっても稼げないような、あるいは鮫島が僕から一生かけて搾取しようとしていた金額を遥かに上回るものだった。
「これだけあれば、故郷の借金はすべて返せます。それどころか、お母さんに新しい家を建ててあげられる……」
「それは良かったです。ですが、本当の『報酬』はこれだけではありませんよ」
九条さんはもう一枚の書類――「特定技能」への在留資格変更許可申請書を指し示した。
「ヴァンさん。あなたはもう、あの『技能実習』という名の不自由なシステムに縛られる必要はありません。これからは、自分の意志で職場を選び、日本人と同じ、あるいはそれ以上の条件で働くことができる『特定技能』というジョブにチェンジしたんです」
「ジョブ、チェンジ……。僕、もう、奴隷じゃないんですね」
「ええ。契約とは、本来、自由な個人と個人が対等に結ぶ『約束』です。鎖ではありません。それを証明するために、新しい就職先を用意しておきました。……あ、安心してください。私が徹底的にリーガルチェックを行い、サービス残業一分ですら許さない『超ホワイト企業』ですから」
紹介されたのは、大手ゼネコンが直接管理する建設現場だった。
そこでは、最新の重機が導入され、休憩時間は厳守され、そして何より「安全」が魔法のように守られているという。
後日。
僕は新しい現場の門を叩いた。
そこで待っていたのは、鮫島のような魔王ではなく、日焼けした笑顔が眩しい現場監督だった。
「おっ、君がヴァン君か! 九条先生から聞いてるよ。腕がいいんだって? よろしくな!」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
「よし、まずはヘルメットと安全帯のチェックだ。怪我したら元も子もねえからな。休憩は十時と十二時、それに十五時だ。しっかり休むのも仕事のうちだぞ!」
僕は驚いた。
「休むのも仕事」。そんな言葉、この国の辞書には載っていないと思っていた。
支給された作業服は新品で、泥臭くない。
昼休みには、温かいお弁当と、自動販売機で買った冷たいコーラを仲間の日本人の職人と一緒に楽しむ。
「ヴァン、この図面見てくれ。ここ、どう思う?」
「えっと、ここは、こうしたほうが、水が溜まらないと思います」
「おお、いい視点だ! 助かるよ」
対等な会話。
技術への正当な評価。
夕方五時。定時を知らせるチャイムが鳴ると、みんな一斉に道具を片付け始めた。
「お疲れ様でしたー!」
「お疲れ様ー!」
その言葉が、あんなに心地よく響くものだとは知らなかった。
帰り道、僕はスマホを取り出した。
画面には、九条さんとのチャット画面。そこには「労働基準法・第十六条」といった、かつては呪文にしか見えなかった文字が並んでいる。
僕は今、日本語の勉強に加えて、もう一つの勉強を始めている。
「労働法」だ。
もし、僕と同じように暗い場所で泣いている仲間がいたら、今度は僕がその鎖を断ち切る手助けをしたい。
僕は九条さんにメッセージを送った。
『九条先生。今日、初めて「仕事が楽しい」と思いました。これが、先生の言っていた「魔法」の結果ですね』
すぐに返信が来た。
『いいえ、ヴァンさん。それは魔法ではなく、あなたが「自分の価値」を取り戻した結果です。……あと、あまり勉強しすぎて私の仕事を奪わないでくださいね?(笑)』
僕は夕焼けに染まる街を歩きながら、胸を張った。
ポッケの中には、一ヶ月前に九条さんが言った「現代の魔導書」が、電子書籍として収められている。
日本は、法治国家だ。
理不尽な契約は、紙屑に変えられる。
暴力は、国家権力によって制裁される。
そして、誠実に働く者は、正当に報われる権利がある。
街中の電柱に、怪しい「高収入!」「実習生歓迎!」というチラシが貼ってあるのを見つけた。
僕はそれをじっと見つめ、不敵に笑う。
(もし、その裏に「闇」があるなら……次は僕が、法テラスの番号を教えてあげますよ)
現代の「奴隷紋」を消し去るための戦いは、これからも続く。
けれど、もう怖くはない。
僕の手には、最強の武器――「法律」という名の契約が握られているのだから。
(完)




