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第3話 法の執行、断罪の審判


 午前四時三十分。予報通りの雨だ。

 叩きつけるような雨粒が、プレハブの屋根をドラムのように乱打している。

 この音は、僕にとっては進軍の太鼓のように聞こえていた。


「おいクズども! 雨だからって休めると思うなよ! カッパ着て外に出ろ! 今日は基礎打ちだ、コンクリが固まる前に全部終わらせるぞ!」


 鮫島社長の、寝起きの濁った声が響く。

 彼は昨晩の酒が残っているのか、いつも以上に不機嫌そうに、長靴で僕たちの尻を蹴り飛ばして回っていた。

 

 僕は痛みを堪えながら、そっと胸のペン型カメラを起動する。

 昨日のレイド準備は完璧だ。九条さんが「召喚」した勇者たちは、すでにこの「魔王の城」を包囲しているはず。


「社長……雨、危ないです。足元、滑る……」

「うるせえ! 滑ったら死ぬ気で踏ん張れ! お前らが怪我しようが死のうが、代わりはいくらでもいるんだよ。なんのために高い金払ってベトナムから引っ張ってきたと思ってる。使い倒してナンボなんだよ!」


 鮫島が僕の胸ぐらを掴み、泥の中へ突き飛ばそうとした、その瞬間だった。


「――そこまでです、鮫島豪徳氏」


 雨音を切り裂くような、凛とした声。

 工事現場の入り口に、数台の黒塗りの車と、パトカーが音もなく滑り込んできた。

 車から降りてきたのは、傘を差した集団。その先頭には、昨日と変わらず完璧なスーツ姿の九条さんが立っていた。


「あぁ? なんだてめえら。ここは私有地だぞ! 帰れ、警察呼ぶぞ!」

「どうぞ、お呼びください。もうそこに来ていますが」


 九条さんが指差す先、制服を着た警察官たちが、厳しい表情で鮫島を取り囲む。

 さらに、その横には「労働基準監督署」と書かれた腕章をつけた男女が数名、鋭い視線を事務所に向けていた。


「な、なんだよ……労基? 警察? なんでこんなとこに……」

「茨城労働局、および労働基準監督署による臨検調査です。ならびに、外国人技能実習機構による監査も同時に行わせていただきます」


 中央にいた眼鏡の女性――監督官が、手帳を突きつける。

 鮫島の顔から、一気に血の気が引いていくのがわかった。だが、彼はまだ自分が「無敵の魔王」だと信じているようだった。


「は、ははぁん。さてはあのクズどもが何か吹き込んだな? 無駄だぞ! 俺とこいつらの間には、正式にサインした『契約書』があるんだ! 辞めることも、文句を言うこともできない『絶対の契約』がな!」


 鮫島は泥だらけの足で事務所へ駆け込み、あの金庫から「奴隷契約書」を引っぱり出してきた。

 彼はそれを、まるで聖盾か何かのように突き出し、大声で笑った。


「見ろ! これだ! ここに『三年間の退職禁止』と『違約金五百万円』って書いてある! こいつらは自分の意志でこれに判を押したんだ! 法治国家なら、契約は守らなきゃいけねえだろ!」


 九条さんが、ふっと、憐れむような笑みを浮かべた。

 彼はゆっくりと鮫島に歩み寄り、その「魔導書(紙屑)」を指先で軽く弾いた。


「鮫島さん。あなたは何か勘違いをされているようですね。ここは法律が支配する現実世界であって、あなたが独裁する異世界ではないんですよ」

「何だと……?」

「民法第九十条を知っていますか? 『公序良俗に反する法律行為は、無効とする』。不当な高額違約金の設定や、職業選択の自由を奪うような契約は、そもそもこの世に存在してはいけないゴミなんです。それを振りかざすのは、私は犯罪者ですと宣伝しているのと同じですよ」


「うるせえ! サインしたんだ! こいつらは俺の奴隷なんだよ!」

 

 鮫島の絶叫に対し、九条さんはさらに冷徹なトーンで畳み掛ける。


「さらに労働基準法第五条。強制労働の禁止です。暴行、脅迫、監禁、その他精神または身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。これに違反した場合、一年以上十年以下の懲役です。……今の暴言と、昨日の暴行記録、すべて高画質で保存済みですよ?」


 九条さんがタブレットを操作すると、そこには鮫島が僕を蹴り飛ばし、「土でも食ってろ」と罵倒する昨日の映像が鮮明に流れた。

 鮫島の手が、ガタガタと震え始める。


「な、なんで……なんでお前がそれを持ってる……!」

「ヴァンさんが『現代の魔導具』を使いこなしたからです。さあ、監督官。事務所内の家宅捜索をお願いします。金庫の中に、彼らが不当に没収したパスポートと、脱税の証拠である裏帳簿があるはずです」


「待て! 勝手に入るな! そこは俺の……俺の城だ!」


 鮫島が監督官を突き飛ばそうとした瞬間、控えていた警察官が素早く動き、彼の手を取り押さえた。


「鮫島豪徳。暴行および公務執行妨害の疑いで、現行犯逮捕する!」


 ガチャン、という重い金属音が雨音の中に響いた。

 手錠。

 それは、鮫島が僕たちにかけていた見えない鎖が、実体を持って彼自身の手に戻った瞬間だった。


「離せ! 俺が何を悪いことしたっていうんだ! 安い給料で使ってやって、日本にいさせてやってるんだぞ! 感謝しろ、この猿ども!」


 地面に押し付けられ、泥まみれになりながら吠える鮫島の姿は、もはや魔王でも何でもない。ただの、時代の遺物となった哀れな悪党だった。


 僕は九条さんに促され、事務所の中に入った。

 警察官の見守る中、あの金庫の前に立つ。

 昨日の映像で確認した暗証番号。僕は迷わず指を動かした。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――カチャリ。


 扉が開くと、そこには僕たちのパスポートが、ゴミのように放り込まれていた。

 僕はそれを一枚ずつ丁寧に取り出し、雨の中、不安そうに見守っていた仲間の実習生たちの元へ走った。


「みんな! 返ってきたよ! 僕たちの、魂だ!」


 震える手でパスポートを受け取った仲間たちが、泣きながら僕を抱きしめる。

 ある者は地面に膝をつき、ある者は天を仰いで慟哭した。

 

 鮫島はパトカーに押し込まれようとしていた。

 最後に、彼は僕を睨みつけ、呪いのような言葉を吐いた。


「お前ら……こんなことして、タダで済むと思うなよ! 借金はどうするんだ! お前らの国に連絡して、家族をめちゃくちゃにしてやるからな!」


 僕は九条さんの隣に立ち、人生で一番晴れやかな顔で、彼に言い返した。


「社長、さようなら。あなたが言った通り、日本は法治国家でした。だから、あなたの暴力も、脅迫も、もう僕たちには届きません。……あ、未払いの残業代、しっかり計算して請求しますから、楽しみにしていてくださいね」


 九条さんが僕の肩を叩き、ニヤリと笑う。

「ヴァンさん、いいキメ台詞でしたよ。付加金込みで、彼の財産を根こそぎ持っていきましょう。それが、彼が最も嫌う『契約の履行』ですから」


 パトカーのドアが閉まり、鮫島は連れ去られていった。

 雨はいつの間にか小降りになり、雲の隙間から、薄い光が差し込んでいた。


 奴隷としてのヴァンは、ここで死んだ。

 そして、一人の自由な労働者としてのヴァンが、今、泥だらけの地面の上に立ち上がったのだ。


 

「……さて、ヴァンさん。これからが本当の戦いです。未払い賃金の回収、転籍の手続き、そして美味しい食事。やることは山積みですよ?」


「はい、九条先生! まずは……ラーメンが食べたいです。高いやつ!」


 僕たちは、泥まみれの工事現場を後にした。

 背後には、崩れ落ちた「偽りの帝国」の残骸だけが残されていた。



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