第1話 「契約」という名の呪縛
「逃げられると思ったか、このクズが!」
茨城県某所。街灯もまばらなキャベツ畑の真ん中で、俺、ヴァン・リンの身体は地面に叩きつけられた。
泥の匂いと、安物のタバコの臭い。視界が火花を散らす中、俺を見下ろしているのは、この「サメジマ工務店」の社長、鮫島豪徳だ。
彼はその名の通り、サメのような濁った眼をギラつかせ、俺の首根っこを掴み上げた。
「お前らベトナム人が、俺の手から逃げられるわけねえだろうが。この土地じゃ、警察も近所の奴らもみんな俺の味方なんだよ」
「しゃ、社長……おねがい、します。もう、身体が……動きません。朝の四時から、夜の十一時まで……休み、ありません。お給料も、約束と、ちがいます……」
俺が必死の思いで絞り出した日本語は、乾いた夜風に虚しく消えた。
三ヶ月前。俺は希望を抱いて日本に来た。
「技能実習生」という立派な名前の制度を使って、日本の高度な建設技術を学び、故郷の村に家を建てる。それが夢だった。
送り出し機関に払った莫大な借金――日本円にして百万円以上――も、日本で働けばすぐに返せると信じていた。
だが、待っていたのは「異世界」だった。
それも、現代日本の皮を被った、最低最悪のダークファンタジーだ。
「技術? ああ、教えてやってるだろ。穴の掘り方と、重い石の運び方だ。それ以上何が必要なんだ?」
鮫島は鼻で笑い、俺をプレハブ小屋の事務所へと引きずっていった。
事務所の壁には、なぜか金ピカの額縁に入った「経営理念」が飾られている。その下には、俺の命よりも重いと言い渡された「金庫」が鎮座していた。
鮫島が金庫を開け、一冊の薄汚れたファイルを取り出す。
「見ろ、ヴァン。これがお前がサインした『雇用契約書』だ。ここにははっきり書いてある。『いかなる理由があろうとも、三年間は退職を認めない』。そして『逃亡した場合は違約金として五百万円を支払う』とな」
鮫島はその書類を、あたかも伝説の魔導書か何かのように、俺の目の前に突きつけた。
「これはな、絶対の呪いだ。お前のパスポートは俺がこの金庫で守ってやってる。この契約がある限り、お前は死ぬまで俺の奴隷なんだよ。日本は契約の国なんだ。法を破ったら、お前は即座に犯罪者として強制送還。家族の借金はどうなる? 村に戻っても地獄だぞ?」
「そんな……そんなの、おかしい……」
「おかしくねえ。これが『日本のルール』だ。嫌ならもっと日本語を勉強してくるんだったな、無知な土人が!」
鮫島の怒号とともに、俺の腹部に鈍い衝撃が走った。
蹴り飛ばされた俺は、床に這いつくばったまま動けなくなった。
実習生としての生活。
住居は工事現場の隅に置かれた、冷暖房のない錆びたコンテナ。
食事は毎日、一番安い袋麺。
給料明細には、聞いたこともない「研修費」「寮費」「光熱費」「管理費」という名目の控除が並び、手元に残るのは月に三万円にも満たない。
そこから故郷への送金と食費を引けば、マイナスだ。
逃げようとすれば、この「契約書」という呪具を持ち出され、パスポートという魂を人質に取られる。
日本人はみんな親切だと聞いていた。
日本は法治国家だと聞いていた。
でも、ここにあるのは、暴力と、逃げ場のない絶望だけだ。
「おい、掃除しとけ。明日は三時起きだ。サボったら飯抜きだぞ」
鮫島はそう吐き捨てると、酒の瓶を片手に奥の部屋へと消えていった。
深夜。
俺は痛む体を引きずりながら、事務所の外にあるゴミ捨て場に立っていた。
重いゴミ袋を放り投げ、ふと夜空を見上げる。
星は綺麗だ。故郷の村で見た星と同じ。
でも、俺の足元は泥沼で、首には見えない鎖が巻き付いている。
(死んだほうが、楽なのかな……)
そんな考えが頭をよぎった、その時だった。
「……なるほど。確かにこれは、現代の日本とは思えないほど見事な『奴隷制度』ですね」
暗闇から、場違いなほど冷静で、理知的な声が響いた。
心臓が跳ね上がる。鮫島の手下か? それとも、別の不法投棄の監視員か?
怯えて振り返った俺の目に飛び込んできたのは、街灯の光を浴びて、パキッとしたスーツを着こなした一人の男だった。
年は三十前後に見える。
整った顔立ちに、細いフレームの眼鏡。
手には分厚い鞄を持ち、何より印象的なのは、その目だ。
鮫島のような濁った欲望ではなく、透き通った氷のように鋭く、すべてを見通すような知性の輝き。
「だ、だれ……? ここ、立ち入り禁止……。社長、呼ぶよ……」
俺の拙い警告に対し、男は優雅に会釈した。
「失礼。私は九条と申します。通りすがりの弁護士……と言いたいところですが、正確には『不運な迷い子』を迎えに来た案内人、といったところでしょうか」
「べんごし……?」
その単語は知っている。テレビの中で、悪い人をやっつける人だ。
でも、こんなキャベツ畑の真ん中に、そんな英雄がいるはずがない。
「ヴァンさん、と言いましたね。先ほど、あの中の男性……鮫島氏でしたか。彼が言っていた『契約』の話、少しだけ聞こえてしまいました」
九条と名乗った男は、スッと俺に歩み寄った。
逃げようとした俺の肩に、驚くほど柔らかく、だが確固たる力強い手が置かれる。
「彼はそれを『絶対の呪い』と呼んでいましたね。逃げれば違約金、辞めることは不可能、パスポートの没収……。実に、古典的な異世界ファンタジーの奴隷紋を彷彿とさせる、醜悪な演出です」
「……、……」
「ですが、ヴァンさん。知っておいてください」
九条は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、口角をわずかに上げた。
それは、獲物を見つけた捕食者の笑みではなく、詰みの盤面を確信した棋士の笑みだった。
「日本国憲法、および労働基準法という『現代の魔導書』において、その手の契約は、ただの『汚れた紙屑』に過ぎません」
「かみくず……? でも、サイン、しました。ハンコ、押しました……」
「ええ。ですが、たとえ悪魔に魂を売る契約書に血でサインをしたとしても、日本の法律が『そんな契約は無効だ』と言えば、それは無効なんです。魔法が解ける瞬間を見たことはありますか?」
九条は鞄から、一本のICレコーダーを取り出した。
そして、暗闇の中でキラリと光る小型の隠しカメラ。
「あなたが今日まで受けてきた理不尽、流してきた涙。それを、彼を社会的に抹殺するための『触媒』に変えましょう。私は、法という魔法を使いこなす専門家です。もし、あなたが本当の意味で『自由』になりたいと願うなら――」
九条は、俺の泥だらけの手を握った。
「その契約、私が法的に粉砕して差し上げます。……いかがですか?」
俺は、言葉が出なかった。
この男が言っていることが、どこまで本当なのかはわからない。
でも、九条の背後に見える月光が、まるで伝説の賢者が纏うオーラのように見えてしまった。
この日、俺の「奴隷実習生」としての物語は終わり。
「現代日本法による大逆転劇」の幕が、静かに、そして苛烈に上がった。
事務所の奥では、まだ何も知らない鮫島が、勝利の美酒を喉に流し込んでいる。
彼が信奉する「契約」という名の偽りの呪縛が、あと数日で、国家権力という名のハンマーで粉々に打ち砕かれることも知らずに。




