夫の借金
朱利を乗せた黒塗りの車が停まったのは東京都内だった。
豊島区にある3階建てのビルの前だ。
どこにも看板のないビル。大学生だったころ、何度か前を通ったことがある。
——こんなところに、寺の事務所があったのか。
歩いたことのない道は少なくても、入ったことのないビルは山ほどある。朱利は営業職の経験もなく、配達やビルのメンテナンスをしたこともない。生活圏にある建物。そのほとんどの中身を知らないまま、多くの現代人は一生を終えるのだ。
ビルの入口に立っていた丸刈りの青年が無言で一礼し、重そうなガラスのドアを開けた。
「お入りください」
車の運転をしてきた男に案内され、朱利はビルの中へ入り階段を上がった。
2階には、これもまた頑丈そうな金属製の扉。
その扉を案内役の男が拳でゴツゴツ叩くと、内側から扉が開いた。
酒と煙草の匂いがする。
室内には5人用の応接セットがあり、左側のソファに義妹の栞が座っていた。着替えてから家を出るような心の余裕もなかったのだろう。部屋着にしているベージュのシャツと灰色のパンツ。こちらに向けた眼は少し赤くなっており、胸がつまるほど痛々しい。
「そちらにおかけください」
右側のアームチェアに座っていた男にうながされ、朱利は三人掛けのソファの端で縮こまっている栞の隣に腰を下ろした。
ここは純粋な応接室というわけではなさそうだ。事務室を兼ねている。
部屋の奥の大きな机に座っている和服の老人は、こちらに眼をやることもなく、筆で挨拶状のようなものを書いている。
その脇——老人の左手側にある小さな事務机では、座っていてもはっきりわかるほど背の高い男がノートパソコンに向かって指を踊らせている。
この二人は、重役と秘書のような人たちだろうか。
朱利の正面のアームチェアには、上等そうなダークスーツを着た男が一人。額には大きな切り傷の跡があり、色の薄いサングラスをかけている。
朱利をここまで連れてきた男たちは、彼の背後に並んで立った。
部屋の入口のそばには、ジャージの男が二人。
アームチェアの男が口を開いた。
「ご足労いただき、ありがとうございます。藤蚕寺の金城と申します。話の大略はもう妹さんにお伝えしましたが、奥さんにもあらためて」
「はい。お願いします」
「まず、旦那さん——朱木守さんには借金があります。ざっくり3千万円です」
予想外の額だった。
「……どうして、そんなことに」
「ざっくりキャバクラ通いです」
「そんなにお金がかかるものなんですか?」
「……キャバクラの件、奥さんはごぞんじでしたか?」
「いえ……」
夫の様子や日用品に変化があったことには気づいていたが、問い質すことはしていなかった。
そうすることに意味があるとは思えなかったし、夫自身のことよりも、夫の実家のことだけに集中していたかった。
「我々ではない別の寺が本地についていたキャバクラに、旦那さんは通いつめていたそうです。その寺からズルズル借金まで重ねながら。そして、最後にドカンと大きく借りて、そのまま行方をくらましました。店のキャスト——いわゆるキャバ嬢ですね。その女と二人で逃げたんです」
最後に借りた金は逃走資金にするつもりだったんでしょう、と金城は言った。
「借りるほうも借りるほうですが、貸すほうも貸すほうです。まあ保証人はいますし、寺の情報網があれば逃げてもすぐに捕まえることができる、とタカをくくっていたんでしょう。ところが、そうはいかなかった」
「と、いいますと?」
夫がアパートに戻らなくなってから約50日。どこへ逃げていたのだろうか。
「逃げた債務者の捜索どころではなくなった、ということです。その寺——仮にA社としておきましょうか」
「しゃ」
「まあ、あんなのカタギの会社みたいなものですよ。そのA社と我々の寺との間で抗争が始まったんです。旦那さんたちが逃げた直後に。そういうタイミングになったのは偶然で、旦那さんと直接の関係はありませんが、ここで借金の話です」
金城はいったん言葉を切り、朱利の顔をじっと見てから、また口を開いた。
「抗争の結果、A社のものはほとんど我々のものになりました。A社にはもう、いくつかの垂迹企業しか残っていません。キャバクラやら何やらの経営母体も金融屋も債権も、今は我々のものになっています。要するに、旦那さんは今、我々に借金をしている状態です」




