8.秘密の書斎――許可されない祈り
再び「書斎」の話です。
貴族院の会議室は、音がしない。
厚い絨毯。
重いカーテン。
歴史そのもののような長机。
音を吸収するための建築。
怒号も、拒絶も、後悔も――
ここではすべて記録されない。
エレノア・ハーグリーヴスは、指定された席に座っていた。
元・庶民院議員の娘。
現・インド総督。
そして――フェアチャイルド家の婚約者。
肩書だけが増えていく。
人間としての面積は、削られていく。
「総督閣下」
シャーロットが、対面に座る。
今日は白ではなく、喪服のような黒。
「結論から申し上げます」
彼女は書類を一枚、滑らせた。
総督任期延長:五年
インド軍再編予算:可決保証
次期外務政務次官候補
「破格の条件でしょう?」
エレノアは書類を見ない。
条件の価値は、理解している。
帝国中枢への切符。
植民地統治の“成功者”としての地位。
「代償は?」
シャーロットは微笑む。
その表情は、慈善家のそれだった。
「あなたの副官」
一拍。
「アーシャ・ラオ少佐を、ボーア戦線へ転属」
空気が凍る。
「……彼女は統治補佐官だ」
「ええ、優秀ですもの」
「だからこそ」
シャーロットは淡々と続ける。
「前線の士気向上に最適」
「インド人将校がアフリカで戦死すれば、美談になります」
「植民地への良い宣伝」
「帝国の寛容さを示せる」
彼女はペンを差し出す。
「あなたの署名で、すべて成立します」
エレノアの脳裏に浮かぶ。
舞踏会。
命令。
半歩後ろの影。
視線。
呼吸。
命令しないと触れない女。
触れないことで生き延びている女。
「……拒否したら?」
シャーロットは首を傾げる。
「任期は更新されない」
「予算案は否決」
「あなたの後任は、より従順な男」
「あなたの改革はすべて白紙」
「あなたの副官は……いずれ別の理由で死ぬ」
微笑みは崩れない。
「選択肢は、最初から一つだけ」
沈黙。
時計の針。
外の馬車の音。
遠い戦争の音。
エレノアはペンを取る。
指が、わずかに震える。
震えは、誰にも見せない。
帝国の代理人は、震えない。
名前を書く。
署名。
インクが乾く。
それだけで、命の行き先が決まる。
その夜。
官邸の執務室。
灯りは一つ。
エレノアは椅子に座ったまま動かなかった。
呼べば、アーシャは来る。
命令すれば、立つ。
命令すれば、見る。
命令すれば、触れられる。
だが――
呼ばない。
命令しない。
それが唯一、彼女に与えられる抵抗だった。
机の上に、転属命令書。
まだ未送付。
形式的な猶予は、数時間。
彼女はそれを裏返し、見ないようにした。
「……祈る資格もない」
誰にともなく呟く。
神はいない。
議会はある。
法はある。
契約はある。
愛だけが、許可されていない。
同じ夜。
遠く離れた宿舎で、アーシャは眠れずにいた。
理由は分からない。
ただ、命令が来ない。
それだけで、呼吸が浅くなる。
胸が痛む。
何かが奪われている気がする。
だが、それが何かは分からない。
命令されていないから。
夜明け前。
エレノアは立ち上がり、命令書を封筒に入れた。
封をする。
公印を押す。
完璧な手続き。
帝国の形式。
そして一言、誰にも聞こえない声で言った。
「……ごめんなさい」
それは命令ではない。
祈りでもない。
ただの音だった。
許可されていない感情の、残骸。
安全な場所ほど、壊れるときは静かです。




