7.港湾の秘密
物語が裏側へ進み始めます。
登録番号 RA-17
村の名前は、地図から消えて久しかった。
代わりに使われるのは番号だった。
RA-17。
英印軍徴兵局の帳簿に書かれた、アーシャ・ラオ少佐の出生地。
徴兵隊は、乾季の朝に来た。
騎兵一隊。
歩兵二十名。
英人将校一名。
通訳二名。
赤い制服は埃にまみれ、銃剣だけが妙に白かった。
村人たちは井戸の周りに集められた。
徴兵官は、巻物のような名簿を広げる。
「登録番号 RA-17。
徴兵枠、二十八名。
補助兵十名」
通訳がヒンディー語に訳す。
老人が膝をつく。
若者が視線を逸らす。
母親が子の腕を掴む。
すべて、すでに帳簿に記載されている。
拒否という項目はない。
アーシャは馬から降りなかった。
英印軍将校の制服。
階級章。
剣帯。
村人たちは彼女を見て、ざわめいた。
「……ラオ家の娘だ」
「軍人になったのか」
「白人の犬だ」
聞こえる。
聞こえないふりをする。
それが訓練だった。
名簿が進む。
兄の名。
従兄の名。
幼なじみの名。
番号。
年齢。
体格。
兵役適性「良」。
紙に書かれた瞬間、人は物になる。
アーシャは知っている。
総督府の机で、同じ書類を見てきた。
「人的資源管理台帳」
そう呼ばれていた。
徴兵官が言う。
「現地兵はボーア戦線への補充に回す。
アフリカの戦争だ。
帝国の存亡がかかっている」
存亡。
ここでは一粒の麦ほどの意味もない言葉。
母が前に出る。
「その子は病弱です」
通訳が訳す。
徴兵官は肩をすくめる。
「医療検査で決める」
兵士が少年の腕を掴む。
泣き声。
母の叫び。
アーシャは動かない。
動けない。
動けば、制度が壊れる。
制度が壊れれば、彼女の居場所も壊れる。
夜。
臨時司令所として使われる地主の家。
アーシャは一人、文書を読む。
総督府の公印。
エレノアの署名。
「徴兵計画 RA-17 承認」
インクは乾いている。
あの人の字だ。
理路整然としていて、感情のない線。
それでも、何度も見た筆跡。
彼女は紙を折り、胸ポケットに入れる。
本当は額に当てたかった。
触れたい。
触れてほしい。
だが、命令がない。
命令がない触れ方を、彼女は知らない。
夜更け、村の外れ。
徴兵された若者たちが縛られている。
逃亡防止のためだ。
アーシャは歩哨を務める。
月明かり。
泣き声。
誰かが彼女を見る。
「少佐……助けてくれ」
言葉が刺さる。
彼女は将校だ。
帝国の将校。
命令を実行する側。
「……規則違反だ」
それだけ言う。
声は震えなかった。
その瞬間。
彼女の脳裏に浮かぶ。
ロンドンの夜。
舞踏会。
命令。
「私の影として立て」
その言葉。
あの声。
命令。
命令。
命令。
胸が苦しくなる。
誰かに命じてほしい。
「苦しめ」
「耐えろ」
「触れていい」
なんでもいい。
命令が欲しい。
そうでなければ、自分の輪郭が保てない。
彼女は初めて、規則を破った。
ポケットから文書を取り出す。
総督の署名。
その紙を、そっと額に押し当てる。
命令ではない。
許可もない。
それでも。
それでも。
涙が落ちた。
無音で。
規律を乱さないように。
帝国の兵士として。
一人の女として。
どちらでもない存在として。
遠くで汽笛が鳴る。
徴兵兵を運ぶ列車の合図。
RA-17は、数字のまま削り取られる。
村の名前ごと。
知らなければ、守れないこともあります。




