5.婚約圧力と昇進
空気が少しずつ変わり始めます。
ロンドンからの電報は、三枚に分かれて届いた。
一枚目は外務省。
二枚目は貴族院書記局。
三枚目は――フェアチャイルド家当主の署名入りの私信。
エレノア・ハーグリーヴスは、机の上にそれらを整然と並べた。
まるで戦況図のように。
「貴殿の統治は安定している」
「次期総督職の延長も視野に入る」
「ただし、身分関係の整理が望ましい」
つまり。
結婚。
それも、恋愛ではない。
議会承認型の婚姻。
血統と議席と予算委員会のための制度。
彼女の指は、フェアチャイルド卿の署名の上で止まった。
かつて、シャーロットが名乗った姓。
“Fairchild”。
善良な子供。
帝国がもっとも好む種類の虚構。
同時刻。
総督府の裏棟で、アーシャ・ラオ少佐は電報を受け取っていた。
軍政局経由。
簡潔な命令文。
「パンジャーブ州東部、徴兵開始」
「村落番号:RA-17(ラオ家所在区域)」
「拒否者は治安妨害者として拘束」
紙は、指の汗でわずかに湿った。
村の井戸。
母の背中。
乾いた麦の匂い。
すべてが、行政用語に変換される。
「登録兵」
「補充率」
「反乱予防」
彼女の故郷は、統計単位になった。
夜。
総督府の執務室は、異様に静かだった。
「入れ」
エレノアの声に、アーシャが入室する。
軍靴の音は、規則正しい。
完璧な距離。
完璧な服従。
「……少佐」
「はい、閣下」
エレノアは、電報を一枚だけ差し出した。
貴族院の文書。
婚約承認通知。
アーシャは読まない。
読む必要がない。
紙の質で分かる。
これは命令ではない。
宣告だ。
「……おめでとうございます」
声は、正確だった。
揺れない。
エレノアの喉が、一瞬だけ詰まる。
「あなたの村への徴兵命令も、今日出た」
沈黙。
二つの制度が、同じ机の上に置かれる。
婚姻制度。
徴兵制度。
どちらも帝国の所有権を確定させる装置。
「……少佐」
「はい」
「命令がないと、触れないのよね」
「はい」
エレノアは立ち上がる。
机を回り、彼女の前に立つ。
近い。
それでも触れない。
「私が婚約すれば、あなたは」
「……引き続き、閣下の部下です」
「それだけ?」
「……それ以上は、職務規定違反です」
エレノアは笑いそうになり、やめた。
「命令するわ」
低く。
「……私を見なさい」
アーシャは顔を上げる。
目が合う。
数秒。
帝国の統治より、長い時間。
「……あなたは、私のものではない」
命令だった。
否定の命令。
もっとも残酷な形での接触。
「はい」
「あなたの村も、私のものではない」
「……はい」
「あなた自身も」
「……はい」
言葉は刃だった。
それでもアーシャは、微かに息を乱した。
触れられていないのに。
「下がりなさい」
命令。
アーシャは一歩下がり、敬礼する。
完璧な角度で。
「……ご結婚、おめでとうございます」
今度は、公式の声だった。
その夜、エレノアは一人で書類に署名した。
婚姻同意書。
統治延長申請。
徴兵計画承認。
インクは黒い。
すべて同じ色。
窓の外で、汽笛が鳴った。
どこかの港へ向かう輸送船。
兵士と、婚約指輪と、法律文書を載せて。
エレノアはペンを置き、初めて机に額をつけた。
泣かなかった。
帝国の代理人は泣かない。
ただ、呟いた。
「……命令しないと、触れないくせに」
誰に向けた言葉でもなく。
誰にも届かない声で。
幸福と圧力は、同じ形で差し出されます。




