4.制度の外で
この物語の「制度」というテーマが顔を出し始めます。
カルカッタ総督府の会議室は、冷え切っていた。
天井のシャンデリアは昼でも灯され、白人官僚たちの顔を均等に照らす。
そこに感情は不要だった。
「パンジャーブ州境界地域より、追加で二個大隊を徴発可能です」
軍政局次官が淡々と述べる。
「現地兵の補充率は?」
「良好です。農村部より志願兵――いえ、“登録兵”を確保しております」
言い換えだ。
強制徴募。
エレノア・ハーグリーヴス総督は頷いた。
「継続しなさい。反乱分子の根は、畑ごと焼く必要がある」
声は冷静だった。
完璧な帝国の代理人。
その背後、壁際に控えるアーシャ・ラオ少佐の背筋は、微動だにしない。
軍服。無表情。忠実な植民地将校。
「……異論は?」
誰も口を開かない。
会議は十五分で終わった。
執務室に戻ると、エレノアは扉を閉めた。
鍵をかける音が、やけに大きい。
「……少佐」
アーシャは姿勢を正す。
「はい、総督閣下」
「報告を」
「徴兵対象地域の一覧です」
書類が差し出される。
エレノアは目を通し――指を止めた。
「……ここ」
「私の出生村です」
即答だった。
震えはない。
それが、余計に残酷だった。
「徴兵率、八十七パーセント」
「はい」
「女性補助兵も?」
「……十七名」
沈黙。
インクの匂いだけが漂う。
「あなたの家族は」
「……対象年齢ではありません」
「“まだ”ね」
アーシャは何も言わない。
ただ、命令を待つ兵士の姿勢だった。
エレノアは机を回り込み、彼女の前に立つ。
近い。
触れられる距離。
だが、触れない。
「あなたは――」
言いかけて、止める。
総督としての声が勝つ。
「引き続き任務に就きなさい」
「……はい」
アーシャは視線を落としたまま動かない。
「下がってよろしい」
それでも、動かない。
規律違反。
だが、エレノアは叱責しなかった。
代わりに、低く言う。
「……命令が必要?」
アーシャの喉が、わずかに鳴る。
「……はい」
「触れてほしいの?」
「……命令でなければ、受け取れません」
それは忠誠ではなかった。
訓練でもない。
彼女自身が、自分を縛る鎖だった。
エレノアは深く息を吸う。
「……こちらを見なさい」
アーシャは視線を上げる。
その瞳は、疲労と罪と、期待の残骸で濁っていた。
「一歩、前へ」
命令。
彼女は従う。
「……右手を、私の手に」
触れる。
ほんの一瞬。
指先が重なるだけ。
それなのに、二人の呼吸が乱れる。
「それ以上は、許可しない」
「……はい」
「私は総督。あなたは少佐」
「……はい」
「公の場では、あなたは私を見ない」
「……はい」
「私的な場でも、私が命じない限り、触れない」
「……はい」
エレノアは指を離した。
名残惜しさを、切り捨てるように。
「それが、あなたの罰」
「……光栄です」
アーシャは微かに微笑んだ。
壊れた敬礼のような表情で。
その夜。
総督府の屋上で、祝賀の晩餐会が開かれた。
将校たち。
商務官僚。
貴族の使節。
音楽。
ワイン。
笑顔。
エレノアは中央で微笑み、アーシャは壁際で警備に立つ。
二人は一度も目を合わせない。
誰も知らない。
数時間前、互いの体温を指先に刻んだことを。
誰も知らない。
この帝国の徴兵制度と同じように、
彼女たちの関係もまた
自由意思を持たない契約であることを。
夜風が吹く。
遠く、徴兵される村々の方角で、犬が吠えた。
二人の関係は、まだ社会の外側にあります。




