2.書斎での邂逅
タイトル回収回です。
――霧の庭園、数字の裏側で
1900年6月。
ロンドンは戦争の匂いに慣れはじめていた。
新聞売りの少年は「マフェキング包囲戦」と叫び、紳士たちは紅茶を飲みながら戦況図を論じ、議会では「戦時公債」と「インド鉄道債」の数字が同じ紙面に並んだ。
帝国は燃えながら、静かだった。
そして――
シャーロットは、その静けさの中で一年を生き延びた。
父は貴族院で動員予算に賛成票を投じた。
母は婚姻候補の名簿を更新した。
彼女自身は、王室行事と慈善舞踏会を巡りながら、微笑みを正確に配置し続けた。
その裏で、彼女は手紙を書いていた。
青い封蝋で。
マーガレット宛に。
議会図書館の奥、財政委員会の書類棚の影。
あるいは、霧の濃いリージェンツ・パークの外れの温室。
短い逢瀬。
触れない約束。
守っていたはずの境界線。
――今夜までは。
・
その庭園は、王立植物協会の敷地の一部だった。
戦時中は一般公開が制限され、人影はほとんどない。
温室のガラスには夜霧が張りつき、外灯の光が滲んでいる。
シャーロットはマントの留め具に指をかけたまま、立ち尽くしていた。
足音。
規則正しい、迷いのない靴音。
「……シャーロット」
名前で呼ばれる。
胸の奥が、条件反射のように震える。
「マーガレット」
一年ぶりの距離。
わずか数歩なのに、政治より重い沈黙が横たわっていた。
マーガレットは以前より痩せていた。
頬の線が鋭く、目の下に薄い影がある。
「南アの電報を毎晩処理してるの」
言い訳のように、彼女は言った。
「包囲戦の死者数を、端数まで」
シャーロットは答えず、ただ近づいた。
一歩。
二歩。
呼吸の距離。
「……あなたは」
マーガレットが言いかけて、止める。
「帝国の娘は、戦争をどう見てる?」
シャーロットは微笑んだ。
訓練された微笑みではなく、壊れた方の。
「数字より……あなたの顔色で見るわ」
沈黙。
次の瞬間、マーガレットの手袋が落ちた。
意図的ではない。だが、戻らない仕草。
白い指が、夜気にさらされる。
シャーロットは、その手を取った。
細い。冷たい。
議会の紙を何千枚もめくってきた指。
「……触れても、いい?」
問いかけは形だけだった。
マーガレットは答えず、ただ目を閉じた。
許可。
シャーロットの指が、手袋の縫い目をなぞり、手首へ、脈へ。
鼓動。
生きている証拠。
数字にならないもの。
「あなたは……」
マーガレットの声が低く震える。
「私が誰の娘か、知ってるでしょう」
「ええ」
「庶民院の犬よ」
「それでも」
シャーロットは距離を消した。
額が触れる。
息が混ざる。
「それでも、欲しいの」
その言葉は、祈りでもあり、反逆でもあった。
マーガレットの指が、シャーロットのドレスの袖を掴む。
強く。
書類を掴むときの力で。
「……あなたは、帝国そのものだ」
「違うわ」
シャーロットは囁いた。
「私は、あなたの前では、ただの女よ」
その瞬間、唇が重なった。
激しくはない。
だが、深く。
慎重で、必死で、取り消しのきかない接触。
マーガレットの息が乱れる。
計算されない不規則さ。
シャーロットの背中に、温室のガラス越しの冷気が走る。
だが、抱き寄せる腕は熱かった。
抱擁。
政治的同盟ではない。
血統でもない。
ただ、互いを失いたくないという衝動だけ。
唇が離れたとき、マーガレットの目は濡れていた。
「……戦争より、怖い」
「何が?」
「あなたを、正しく失うこと」
シャーロットは微笑んだ。
涙を堪えながら。
「私たちは、正しくなんて生きられないわ」
遠くで鐘が鳴る。
議会の夜会が終わる時刻。
どこかでまた、戦死者の数が更新される。
だが今だけは、数字は意味を持たなかった。
マーガレットの額を胸に抱き寄せ、シャーロットは目を閉じた。
帝国は、彼女を所有している。
けれどこの夜だけは――
彼女は、彼女のものだった。
書斎は、最初の「安全な場所」でした。




