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1. 初めての視線

第一章では、二人の出会いと関係の芽生えを描いています。

大きな事件は起きませんが、静かな緊張と心理の変化を大切にしています。

――王冠の下で、名前を失う前に


バッキンガム宮殿の晩餐会場は、香りからして政治だった。


薔薇でも百合でもない。重い蝋燭の脂、磨き上げられた床の蜜蝋、軍服の金糸に染み込んだ火薬の残り香。それらが混ざり合い、帝国の胃袋のような匂いを作っている。


シャーロット・フェアチャイルドは、母の半歩後ろを歩きながら、静かに呼吸を整えていた。


伯爵家の娘として、ここに立つのは三度目。

だが今日は意味が違う。


「今夜、あなたを数名の方に紹介します」


母は微笑みながら、小声で言った。


「ハリントン卿の母君も来ていらっしゃるわ」


それが何を意味するのか、説明は不要だった。


婚約。

政治的均衡。

貴族院とインド省を繋ぐ血。


シャーロットは「はい」とだけ答えた。


声は震えなかった。震える訓練など、とっくに矯正されている。


会場では、すでに数多の会話が同時進行している。


「ケープ植民地の守備隊が不足している」

「ボーア人は三週間以内に動く」

「金鉱地帯を失えばポンドは崩れる」


それらの言葉が、音楽の代わりに空間を満たしていた。


その時だった。


シャーロットの視界の端に、場違いなほど静かな背中が映った。


淡い灰色のドレス。装飾は最小限。だが姿勢が異様にまっすぐで、まるで議場の椅子のように無駄がない。


その少女は、貴族たちの輪から一歩距離を取り、壁際で国王の肖像画を見上げていた。


――庶民院側の客。


直感で分かった。


金ではなく、血統でもなく、数字と法案でここに立つ人間。


シャーロットは、気づけば視線を逸らせなくなっていた。


「フェアチャイルド嬢?」


父の声で我に返る。


「こちらはクロウリー議員のご息女だ」


少女が振り向く。


淡い茶色の瞳。驚くほど静かな目。


「マーガレット・クロウリーです」


そう名乗り、正確な角度で頭を下げる。


「お会いできて光栄です、レディ・フェアチャイルド」


シャーロットの胸が、わずかに痛んだ。


“レディ”。


名前ではなく、身分で呼ばれることに慣れているはずなのに。


「こちらこそ」


機械のように答えながら、彼女は相手の手袋に目を落とした。


装飾のない白。だが指先に、インクの薄い染み。


議会資料をめくる手だ。


「お父様は、インド財政委員会に?」


シャーロットが尋ねる。


「はい。鉄道公債と塩税改正を担当しております」


さらりと答える声。


その単語の硬さが、逆に胸を締めつけた。


鉄道。塩税。

それは数字であり、同時に何万人もの生存だった。


「……南アフリカの件も?」


「開戦は避けられないでしょう」


即答だった。


感情を挟まない声音。


「動員予算は来週、庶民院を通過します。貴族院も同意するでしょう」


その言葉に、シャーロットの背筋が冷たくなる。


この少女は、戦争を知っている。


自分が“象徴”として消費される未来と、同じ温度で。


「あなたは……」


思わず、シャーロットは声を低くした。


「怖くありませんの?」


マーガレットは、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。


「怖いですよ」


小さく。


「だから、数字にします。名前にしない」


そして顔を上げ、微笑んだ。


「そうしないと、耐えられませんから」


その笑みは、社交辞令ではなかった。


計算でもなかった。


ただ、生き延びるための形だった。


シャーロットの胸が、強く鳴った。


初めて、自分が“役割”ではなく、“誰か”として見られた気がした。


「……私の名前は」


気づけば、口が動いていた。


「シャーロットです」


称号を外した名前。


それを言った瞬間、何かが壊れた気がした。


マーガレットの瞳が、わずかに見開かれる。


「では……」


小さく息を吸い、


「シャーロット」


そう呼ばれる。


たったそれだけで、心臓が痛いほど脈打った。


遠くで誰かが、開戦の噂を大声で語っている。


別の場所では、婚姻による政治同盟の話が進んでいる。


帝国は今日も、完璧に機能している。


その中心で、二人の少女は一瞬だけ、政治から外れた。


王冠の影の下で。


まだ名前を失う前の夜に。


少しずつ、距離が縮まっていきます。

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