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13.帝国圧力下の官能心理Ⅲ

緊張感が続きます。

一度目の喪失


朝の光は、官舎の白い壁を冷たく照らしていた。


シャーロットは、机の前に座ったまま、動かなかった。


報告書はすでに三通、未開封のまま積まれている。


「秘書行方不明」

「港湾検問記録」

「鉄道利用者名簿」


赤鉛筆は指の間に挟まれたまま、紙に触れない。


帝国の制度は、今日も正確に稼働している。

だが、彼女の中の何かだけが、停止していた。


サー・マクファーソンが入室する。


「失踪は偶発でしょう。

 現地人に唆された可能性も」


シャーロットは、顔を上げない。


「……港を封鎖しなさい」


「卿?」


「鉄道の検札記録をすべて提出させて。

 Indian Civil Service に照会を」


一拍。


「治安部隊を動かします。

 反乱分子の摘発名目で」


声は静かだった。

だが、命令だった。


制度の言葉。


昼。


カルカッタ駅。


蒸気。

煤。

怒号。

祈りの声。


シャーロットは軍服の将校に囲まれ、ホームを歩く。


彼女の視線は、人の顔を識別しない。


存在を探しているのではない。

欠落を、確認している。


秘書の姿はない。


三歩の距離に、空白だけがある。


一方。


港湾地区の外れ。


アニラー・デーヴィは、小さな宿の一室で水を差し出していた。


「飲んで」


彼女――

名前を呼ばれなくなった女は、震える手で杯を受け取る。


「……私は、追われますか」


「当然」


「それでも……」


喉が鳴る。


「……息が、できています」


それだけで、泣きそうになる。


誰にも命令されず、

姿勢を正されず、

許可もなく水を飲む。


それが、異常なほど重い。


「あなたは自由です」


アニラーは言う。


「まだ壊れていますが」


彼女は、小さく笑った。


「……はい」


総督府。


シャーロットは、電信文を打たせていた。


「港湾管理局へ

 女性一名、英国籍、秘書登録者

 発見次第、即時拘束」


筆跡は正確。

声は揺れない。


それでも。


文末に署名する瞬間、

ペン先が一度だけ、止まった。


フェアチャイルド,C.


名だけが、ひどく重い。


夜。


官舎の部屋。


彼女は、もう跪いていない。

誰も。


三歩の距離もない。


床には、完璧な空白。


シャーロットは、無意識に言った。


「……来なさい」


返事はない。


命令は、空気に溶けた。


初めて、彼女は理解した。


命令とは、

従う者が存在して、

初めて成立するということを。


翌朝。


新しい報告書。


「港湾地区で英国人女性の目撃情報あり」


シャーロットは、即座に立ち上がる。


胸の奥に、

熱とも痛みとも違うものが生じる。


それは、焦燥ではない。

愛でもない。


ただの、制度の欠損。

失われた歯車。


それでも。


彼女はそれを「私情」とは呼ばない。

呼べない。


馬車に乗り込む直前、

サー・マクファーソンが言う。


「見つかった場合、どう処理を?」


シャーロットは答える。


「……元の配置に戻します」


一拍。


「それが、最も効率的です」


港へ向かう途中、

彼女は窓の外を見つめた。


焼けた大地。

労働者の列。

列車の煙。


帝国の血管。


そのどこかに、

かつて三歩後ろにいた存在が、

今は流れている。


それは失敗ではない。

事故でもない。


最初の喪失。


シャーロットは、

その言葉を、まだ知らない。

逃げ場は、もうほとんど残っていません。

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