12.帝国圧力下の官能心理Ⅱ
心理描写多めの回です。
カルカッタの夜は、昼よりも重かった。
空気が沈み、
音が鈍り、
すべての輪郭が溶ける。
官舎の廊下を歩くシャーロットの靴音だけが、
規則正しく響いている。
帝国は、
今日も静かに機能していた。
その部屋で、
彼女は跪いていた。
三歩の距離。
視線は床。
手は膝の上。
完璧な姿勢。
だが、
心はすでに均衡を失っている。
村の光景。
子どもの声。
土に伏した老人。
それらが、
まぶたの裏で何度も再生される。
許可はない。
涙を流す許可も、
震える許可も。
「……卿」
声は、
布のように薄かった。
シャーロットは返事をしない。
机に向かい、
総督府から届いた書類を開く。
次期徴税案。
鉄道拡張計画。
治安維持費増額。
赤ペンが、
紙の上を滑る。
人の命よりも軽い線。
数分後。
「発言を許可します」
短く。
秘書は、
わずかに息を吸う。
「……私は、今日、数えました」
「何を」
「……村の井戸の数です」
「十一ありました」
「でも、
水を汲めたのは二つだけでした」
政治用語ではない。
私語。
規則違反。
シャーロットは、
それでも遮らなかった。
「……十一のうち、
九つは乾いていました」
沈黙。
扇風機の音。
シャーロットは言う。
「統計には不要です」
その一言で、
話は終わるはずだった。
だが。
「……卿」
声が震える。
「私は……
数字になれません」
シャーロットの手が、
わずかに止まる。
「あなたは、
すでに私の制度の中にいます」
「それでも……」
秘書は、
視線を上げようとして、止めた。
許されていない。
「それでも、私は……」
「あなたの声で、
自分が消えていくのが分かるんです」
空気が凍る。
シャーロットは、
ゆっくりと椅子を回した。
初めて、
正面から彼女を見る。
「……それは忠誠です」
「違います」
即答だった。
震えながらも、
はっきりと。
「それは、
消滅です」
翌日。
シャーロットは、
アニラー・デーヴィを呼び出した。
「秘書の様子がおかしい」
事実として述べる。
アニラーは、
一瞬、視線を伏せた。
「……当然です」
「説明を」
「あなたは彼女を
“統治”しています」
「人間ではなく」
シャーロットは、
眉一つ動かさない。
「それが帝国のやり方です」
アニラーは、
静かに言う。
「帝国は、崩れます」
「いつか」
「私は崩れません」
「いいえ」
彼女は、
シャーロットを見た。
「あなたは、
すでに自分の心を
植民地にしました」
シャーロットは答えない。
その言葉を、
理解してしまったからだ。
夜。
秘書は、
跪かなかった。
部屋の中央に、
立っていた。
三歩の距離を越えて。
規則違反。
「……命令をください」
声は、
もう震えていない。
「跪けと」
「戻れと」
「私を……
元の形にしてください」
シャーロットは動かない。
「それは、
必要ありません」
「なら、私は……」
秘書は、
一歩、後ずさる。
「私は、
あなたの制度から、
逃げます」
沈黙。
シャーロットの胸に、
初めて異物が生まれる。
焦燥。
恐怖。
名もない感覚。
「それは許可しません」
「許可はいりません」
秘書は、
微笑った。
泣きそうな、
優しい笑みで。
「私は、
あなたの恋人ではありません」
「でも……」
一拍。
「あなたの最初の、
植民地でした」
扉が閉まる。
シャーロットは、
その場に立ち尽くした。
命令を出せば、
止められた。
制度を使えば、
拘束できた。
だが。
命令は、
出なかった。
翌朝。
報告書が届く。
「秘書行方不明」
シャーロットは、
赤ペンを持ったまま、
動かなかった。
紙に、
線を引けない。
帝国の女王は、
初めて、
数字を失った。
抵抗は、いつも内側から始まります。




