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10.官能と圧力の交差

第一章最終話です。

汽笛が、カルカッタ港の湿った空気を裂いた。

白い蒸気の向こうに、英領インド帝国の玄関口が広がっている。


石造りの税関、赤茶けた兵舎、

川面を覆う貨物船の影。


香辛料と石炭と汗の匂いが、

すべてを混ぜ合わせて肺に流れ込んでくる。


レディ・シャーロット・フェアチャイルドは、

甲板の中央に立っていた。


純白の外套。

金の飾りボタン。

喉元まできっちり閉じられた襟元。


一滴の乱れもない。


その三歩後ろに、

同行秘書として登録された一人の女性が立つ。


庶民院議員の令嬢。

二十三歳。


名を呼ばれることは、ない。


彼女は規則通り、

床から三十度の角度で視線を落とし、

両手を腹部の前で重ねている。


汗が、背中を伝っていた。


許可は、出ていない。

拭うことも、姿勢を崩すことも。


* * *


「総督府の馬車を」


シャーロットが短く命じる。


港湾長官が深く頭を下げ、部下に怒鳴る。

その様子を、彼女はただ無表情に眺めていた。


帝国の制度は、

ここでも寸分違わず機能している。


* * *


総督府。


高い天井。

分厚い書類棚。

巨大な地図。


サー・ヘンリー・マクファーソンが迎えた。


「ようこそ、フェアチャイルド卿。

 貴族院はあなたを失って困るでしょう」


「問題ありません。

 帝国の心臓はどこにでもあります」


シャーロットはそう答え、椅子に座る。


秘書は三歩後ろに立ったまま、動かない。


「一八九九年から一九〇〇年のベンガル飢饉、

 死者約百万人」


総督代理が淡々と報告する。


「塩税、地租、港湾税収はむしろ上昇しています。

 軍需輸送が優先され、穀物はビルマと本国へ」


「理想的ですね」


シャーロットは即答した。


「餓死は統計誤差です。

 問題は歳入の安定」


机上に置かれた報告書に、ペンで印をつける。


インディアン・シビル・サービス。

恒久地租制度。

反乱分子拘束数。

インド刑法第百二十四条A。


紙の上では、

すべてが整然と処理されていく。


彼女の後ろで、秘書の喉が小さく鳴った。


許可のない音。


だが、シャーロットは振り返らない。


* * *


夜。


官舎の寝室では、

天井の扇風機が低く唸り続けている。


蚊帳が白く垂れ下がり、

外の喧騒を薄い布越しに遮断していた。


シャーロットは机に向かい、

電報の写しを読んでいる。


ボーア戦争後の軍縮案。

インド財政再建計画。


背後では、秘書が跪いていた。


膝が床に触れ、

指先は揃えられ、

視線は床に縫い止められている。


三歩の距離。


近づく許可は、出ていない。


「……」


シャーロットのペンが止まる。


振り返らずに言う。


「発言を許可します。

 政治用語のみ」


少女は、喉を震わせた。


「……地租回収率が四十五%を超えれば、

 来季の耕作放棄が増えます。

 治安維持費が……」


「却下」


即答だった。


「治安費は軍需予算に含めればいい」


沈黙。


秘書は唇を噛みしめる。


それでも、命令は出ない。


立つことも、

座ることも、

近づくことも。


ただ、存在することだけが許されている。


汗が、頬を伝う。


許可は、ない。

拭えない。


* * *


夜半。


空気はさらに重くなる。


扇風機が止まり、

室温は三十五度を超える。


シャーロットはようやく椅子を立ち、

窓辺へ向かう。


月光が、彼女の輪郭を白く縁取る。


「……こちらを見なさい」


初めて、命令が落ちた。


秘書の肩が、わずかに震える。


許された角度いっぱいまで、

ゆっくりと顔を上げる。


シャーロットは振り返らないまま続けた。


「三歩、前へ」


足音が、二度。


距離が縮まる。

しかし、触れられない。


「止まりなさい」


命令は、それだけだった。


振り返らない。

名も呼ばない。


沈黙。


それでも、

その三歩の距離に含まれる熱だけで、

秘書の胸は焼けつく。


「……卿」


許可された言葉ではない。

だが、止める声もない。


「私は……」


シャーロットが、初めて彼女を見る。


視線は、氷のように静かだ。


「何ですか」


「命令を、ください」


かすれた声。


「でなければ、私は……

 自分が何なのか、分からなくなります」


しばらく、風の音だけがした。


やがて、シャーロットは言った。


「帝国は、懇願では動かないわ」


それだけ。


近づかない。

触れない。

命令もしない。


再び、窓へ向き直る。


秘書は、その場に立ち尽くす。


三歩の距離で。

触れられないまま。


それでも、離れない。


* * *


翌朝。


総督府から新たな統計が届く。


新たな徴税案。

新たな移送計画。


シャーロットは外套を羽織り、

扉へ向かう。


「同行しなさい」


それだけを命じる。


秘書は一歩下がり、深く頭を下げた。


「はい」


その声だけは、

かすかに甘かった。


* * *


彼女は恋人ではない。

秘書でもない。

家臣ですらない。


帝国の制度と同じ重さで配置された、

統治対象だった。

ここから先は、守られる物語ではありません。

第二章へ続きます。

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