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プロローグ 帝国の影

近代英国の制度・政治描写は史実を参考にしていますが、人物・設定はフィクションです。

プロローグ


――帝国が、彼女を必要とした夜


1899年10月、ロンドン。


夜霧はテムズ川から這い上がり、石畳を濡れた絹のように覆っていた。街灯はその上に淡い輪を落とし、馬車の車輪が通るたび、金属の軋む音が帝国の鼓動のように低く響いた。


シャーロット・フェアチャイルドは、窓辺に立っていた。


磨き抜かれたガラスの向こうに、国会議事堂の塔が見える。闇に沈みながらも、その輪郭だけは確かに存在し、まるで巨大な墓標のように夜空を切り取っていた。


その塔の内部で、明日、彼女の父は発言する。


南アフリカの金鉱地帯について。

ボーア人の動員について。

帝国の正義について。


そしてその延長線上に、彼女の婚約がある。


シャーロットは自分の指先を見下ろした。白い。血の気がないほどに。指輪はまだない。それでも、すでに嵌められたも同然だった。


――帝国の娘。


そう呼ばれるたび、胸の奥に薄い刃が沈む。


彼女は良い教育を受けた。

良い言葉遣いを身につけた。

良い姿勢で微笑む術を学んだ。


だが、「欲する」という行為だけは、誰も教えてくれなかった。


ふいに、机の上の封蝋が目に入る。


青い蝋。控えめで、実務的で、感情を誇示しない色。


彼女はそれが誰からの手紙か、見なくても分かっていた。


マーガレット・クロウリー。


庶民院議員の娘。

財政委員会の議事録を暗唱できる少女。

そして、シャーロットが唯一、名前を呼ばれることを許した人。


シャーロットは手袋を外し、封を切った。


紙の擦れる音が、部屋の静寂を裂く。


「開戦は不可避です。

父は、明日にも動員予算案を支持するでしょう。

もしあなたが“帝国のために”何かを失うのなら、

それがあなた自身でないことを、私は祈っています。」


短い文だった。政治の報告のように淡々と。だが、その裏側にある沈黙の量を、シャーロットは知っていた。


胸の奥が、じくりと痛む。


彼女は手紙を胸に押し当てた。


政治は父の言葉だった。

戦争は新聞の見出しだった。

帝国は遠い概念だった。


けれど、マーガレットだけは違った。


彼女の声。

体温。

指が触れたときの、躊躇と確信の入り混じった震え。


それらだけが、シャーロットにとって現実だった。


「……欲しい」


声にならないほど小さく呟く。


帝国ではなく。

家名でもなく。

義務でもなく。


ただ、ひとりの女として。


その願いが許されないことを、彼女は最初から知っていた。


だからこそ、恋は秘密でなければならなかった。


だからこそ、愛は政治よりも重かった。


窓の外で鐘が鳴る。


開戦を告げる前夜の鐘。


シャーロットは灯りを落とし、闇の中で手紙を抱いたまま目を閉じた。


帝国は、彼女を必要とする。


だが――


彼女は、彼女を必要としていた。


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