第3話:聖域の衛生事情(風呂と掃除は命がけ)
「ねぇ、勇……。そろそろ限界じゃない?」
地下倉庫の隅、セレナが顔を真っ赤にしながら、勇の背中にしがみついたまま問いかけた。 勇は苦悶の表情で、震える膝を押さえていた。
「……限界だ。平均的な日本人の膀胱は、転生して密度が12倍になったからといって、12倍の我慢ができるわけじゃないらしい」
人間である以上、避けて通れないのが「排泄」である。 しかし、今の勇にとって「立ち上がってトイレに行く」という行為は、一歩ごとに床を貫通し、下水管どころか地下水脈まで到達しかねないリスクを孕んでいた。
「わ、分かったわ。私がリミッターを最大出力にして、貴方の『重心』を浮かせ気味にするから……その隙に、用意した特注の『石のバケツ』に……!」 「女神にそんなことさせられるか! そもそも、そのバケツが俺の重さ(排泄物含む)で底が抜けるだろ!」 「大丈夫よ! 底に私の加護を何重にも張っておいたから! 早くしなさい、漏らしたらこの地下倉庫、異臭で聖域指定を解除されちゃうわよ!」
結局、勇は女神に全身でしがみつかれ、文字通り「持ち上げられる」ような姿勢で、人生で最も緊張感のある用足しを済ませた。女神の耳元で聞こえる音、そして彼女が必死にこらえる吐息。平均的な男のプライドは、この瞬間、クレーターとともに粉砕された。
用を足した後は、衛生の問題だ。 数日間、窓のない地下に閉じこもっている二人は、体臭も気になり始めていた。
「……お風呂、入りたいな」 「無理よ。貴方がお湯に入った瞬間、アルキメデスの原理で地下倉庫が水没するか、浴槽が爆発するわ」
セレナは断言した。勇が水に入れば、その異常な密度ゆえに水面は急激に上昇し、何より勇自身が「鉄塊」のように沈んで二度と浮かんでこれないだろう。
「だから、今日はこれで我慢して」
セレナが魔法で召喚したのは、大量の温かい蒸しタオル。 彼女は勇の背中に回していた腕を、片手ずつ交互に離しながら、丁寧に勇の体を拭き始めた。
「……っ、意外と熱いな」 「冷めないように魔法をかけてるのよ。……あ、ここ、すごく筋肉が固まってるわね」
セレナの白い指先が、勇の肩の凝りをほぐすように動く。 12倍の質量を四六時中支え続けている勇の肉体は、常に全身の筋肉がフル稼働している状態だ。セレナの指が触れるたび、勇の体には電気が走るような刺激が走る。
「セレナ……。片手を離して大丈夫なのか?」 「ふん、数日でコツを掴んだのよ。貴方の肌のどこか一箇所でも、私の神力が流れ込む『接点』があれば、位相は安定するわ。だから……こうして、脚の間を通って、太ももを拭く時だって……」
セレナが勇の股ぐらの方へタオルを伸ばした瞬間、勇の身体がビクンと跳ねた。 そのわずかな振動で、座っている石のベンチが「パキン」と鳴り、新しい亀裂が入る。
「わわっ! 動かないで勇! 今のは私が悪かったから! 変な声出さないで!」 「……お前が変なところを触るからだろ!」 「し、仕方ないでしょ! 清潔は女神のたしなみなの! ほら、次は前を拭くから、大人しく私の腕の中に収まってなさい!」
密着。 狭い地下室で、湯気に包まれながら、一歩も動けない勇者と、彼を必死に世話する女神。 この「究極の介護」とも呼べる共同生活は、少しずつ、だが確実に二人の心の境界線を溶かしていく。
(……この生活、いつまで続くんだろうな)
腕の中の女神は、タオルを絞りながら「明日は何を食べたい?」と少し楽しそうに聞いてくる。 一歩も歩けない不自由な日々。しかし、平均的な日常では決して味わえなかった、重厚で密度の濃い時間がそこには流れていた。




