第17話:空の調律師と、絶対の錨(いかり)
「……はぁ。また浮いてる」
上空三千メートル。リネットは、自分の指先が雲の欠片をすり抜けるのを眺めていた。 この世界『ルミナス』の空気はあまりに軽く、天翼族である彼女の身体は、油断すればそのまま空の彼方へ溶けてしまいそうになる。何に触れても手応えがなく、大地を踏んでも反発がない。彼女にとって世界は、実体のない淡い夢のようなものだった。
「……あ、あそこね」
リネットの鋭い視界が、地上を走る「巨大な澱」を捉えた。 風の調律師である彼女には見える。周囲の空気を強引に引き込み、大気の流れを歪ませている「異常な重力源」が。
彼女は羽ばたくことすら止め、弾丸のように急降下した。
「――見つけたわ。空を乱す歩くブラックホール」
青い旋風と共に舞い降りた彼女の目の前には、平均的な顔立ちの男・勇を、二人の女が左右から必死に抑え込むという、異様な光景があった。
「な、なによアンタ! 空から急に……勇、離れちゃダメよ!」 「師匠の前に立ち塞がるとは、不届き者め!」
セレナとヒルダが警戒を強めるが、リネットの耳には届いていなかった。 彼女は勇に近づくにつれ、肌を刺すような「重圧」を感じていた。空気が圧縮され、密度を増し、彼女の羽を「物理的に」押し留める感覚。
「……信じられない。何、この空気の密度……。ここだけ『世界』が凝縮されてるみたい」
リネットは吸い寄せられるように、勇へと手を伸ばした。
「おい、君、危ないから――」
勇が制止する間もなく、リネットの白い指先が、勇の左腕を包み込む「術式の膜」に、そしてその下の「質量」に触れた。
「――っ!?」
その瞬間、リネットの全身に、かつて経験したことのない衝撃が走った。 指先から伝わる、圧倒的な硬度。どれだけ力を込めてもビクともしない、絶対的な不動。 今まで綿菓子のように頼りなかった自分の身体が、この男に触れた瞬間、初めて**「そこに存在すること」**を許されたような感覚。
「重い……。なんて、重いの……っ」
リネットの瞳が、歓喜に潤んだ。 彼女にとって、勇はただの人間ではなかった。どこまで羽ばたいても満たされなかった「生の実感」を与えてくれる、唯一無二の**「錨」**だった。
「決めたわ。あなた、私の『重し』になりなさい」
「……は? 重し?」
「私は空の調律師。貴方みたいなのがフラフラしてると、世界の風が狂うの。だから、私がこうして、貴方の重心を安定させてあげる」
リネットはヒルダが陣取っていない左腕に、すがりつくように抱きついた。 彼女の小柄な身体が、勇の質量に吸い寄せられるように密着する。
「ああ……落ち着く。私、もう、どこにも飛ばされなくて済むんだわ……」
「ちょっと! 自然な流れで混ざってんじゃないわよ、この羽毛女!」 「師匠の左腕は空いていたとはいえ、礼儀を欠く行為でありますぞ!」
セレナとヒルダの怒号が響くが、リネットは勇の腕に頬を寄せ、うっとりと目を閉じていた。
「うるさいわね。これは『世界の安定』のための任務なの。……勇、離さないで。もし離したら……私、どこか遠い空の果てまで、独りで飛ばされちゃうんだから」
クールな瞳の奥に隠された、切実な孤独と渇望。 勇は、左腕にかかる「羽毛のように軽い」彼女の重みを感じながら、自分の質量がまた一つ、誰かの居場所を作ってしまったことを悟るのだった




