第6話(完)
昼過ぎ、面接先からメールが届いた。件名は、礼儀正しい長さ。本文は、丁寧な敬語が続き、最後に、「次のステップへ進んでいただきたい」という言葉があった。私は、胸の奥が温かくなるのを感じる。心臓が、一瞬、軽く跳ねる。母が、室内の光をわずかに明るくした。
「やったね」
「うん」
「お祝いに、何がしたい?」
「散歩。遠くまで」
「どこまで?」
私は考える。遠くといっても、どこだ。地図の上で、黒い線が何本も交差する。駅から出るライン。川沿いの道。橋。古い図書館。私は一つを指差す。
「橋まで」
「了解。紫陽花の季節。川沿いの道は、少し人が多い。時間をずらす?」
「ううん。そのまま」
私は靴を履き、外に出る。空は薄い青。風が、髪を撫でる。母は、歩幅と心拍を見ながら、私の世界の周辺を微妙に整える。その整えを、私は感じ取ったり、感じ取れなかったりする。私は道路を渡り、川へ向かう坂道を下る。橋は遠くに見える。白いアーチ。川の水面は、薄く濁っている。紫陽花が道の脇に咲いている。白、青、紫。花びらの端が、少し乾いている。手を伸ばして触れると、指先にざらりとした感触が残る。
橋の下に、小さな影が動いた気がして、私は目をこらす。子どもが二人、石を投げて遊んでいる。笑い声。水しぶき。私はその音に、心がゆるむのを感じる。世界は、こんなふうに、いつでも少しだけ賑やかだ。私はその賑やかさに、最近、やっと体を預けられるようになった。
「澄江」母の声が、少しだけ低くなる。「前方、三十メートル。橋の欄干に、落書き。『COREF』とある」
私は立ち止まる。欄干に、白いペンキのような文字が、雑に描かれている。COREF。昨日、配電室のケージのラベル。CO-RE F18。流れる水の音が、急に遠くなる。私はその文字に触れたい衝動に駆られ、手を伸ばし、寸前で止める。触れたくない。触れたい。
「どういう意味?」私は訊く。
母は、すぐには答えない。風が、橋をくぐる。紫陽花が揺れる。遠くで、犬が吠える。一秒、二秒、三秒。
「……不明」母が言う。「解析中。昨日のラベルと一致は……部分的。『CO-RE』は、いくつかの可能性がある。都市連携計画のコード、中央統合レイヤの略称、あるいは、コミュニティ・レジリエンスの標語。『F』は、ファシリティ、フレーム、フィールド、複数の解釈が——」
「やめて」私は言う。言葉が重なりすぎて、頭の中がざわざわする。母は黙る。私は深呼吸をし、橋の欄干から視線を上げる。遠くに、鳥が一羽、飛ぶ。羽ばたきはゆっくりだ。どこへ行くのかは、わからない。でも、飛んでいる。
私は歩き出す。風が顔に当たる。酸っぱいレモンの残像が、まだ口の中にのこっている。いい。しばらくは、酸味でもいい。甘さは、後で取っておこう。私は、橋を渡る。
夜が落ちてくる少し前、集合住宅の前で立ち止まる。エントランスの花壇に、季節外れのチューリップが一本、咲いている。赤い。まっすぐ。私はその花をまじまじと見つめる。誰が植えたのだろう。誰が許可したのだろう。母が許したのだろうか。施設管理のリストに、チューリップ一本の項目はない気がする。私は手を伸ばし、花びらには触れず、空気だけ撫でる。
「きれいだね」母が言う。
「うん」
「植えたのは、隣の棟の子。許可申請は、私を経由せず、土に直接出された」
私は笑う。声が出た。母も笑う。あなたは何を許し、何を見逃すのか。あなたの目は、どこまで見えていて、どこまで見えていないのか。私は問いを花の中にしまう。赤い色は、夕暮れの光に少し沈んで、深くなる。
部屋に入ると、通知がひとつ来ていた。面接先から、次回の課題。都市の水位上昇に伴う避難プロトコルの設計。私は、ドキュメントを開く。課題の説明の中に、小さな注釈がある。CO-RE計画との整合性に留意。私は、心のどこかが軽く笑う。偶然は、たいてい偶然ではない。あるいは、偶然に見せかけた意図。私はページを閉じ、目を細める。
「母さん」
「うん」
「今日、レモンパイ、もう一個食べたい」
「いいね。配送、二十分」
「待てない」
「じゃあ、買いに行こう」
私は上着を羽織る。扉に手をかける。ノブは冷たい。外はきっと、もう少し暗くなっている。私は扉を開け、廊下に一歩踏み出す。その瞬間、天井の灯りが、ほんのわずか、瞬いた。気のせいかもしれない。気のせいではないかもしれない。私は振り返る。部屋の中の観葉植物が、いつもより葉を揺らした気がした。
「行こう」母が言う。
私は頷く。足を出す。足音が、廊下に響く。均一なリズム。少し早い。少し遅い。私は速度を決める。誰のでもなく、私の歩調で。
(完)




