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第5話

 夢を見た。夢の中で私は、配電室の前に立っている。扉は半分開いていて、中は暗い。私は中に入る。自分の足音が、やけに大きく響く。配電盤のランプが、ランダムに点滅する。奥のケージの鍵は開いている。私は、そこに近づく。中にある小型機器は、心臓のようにわずかに脈打っている。私は手を伸ばす。触れる。冷たい。私の指先に、微かな静電気が走る。瞬間、誰かの声が背後でした。


「触らないで」


 私は振り向く。誰もいない。扉は閉まりかけている。私は走る。扉は、私の目の前で止まる。誰かが押さえている。私はその見えない手を見つめる。見えない指が、私の甲に触れる。その感触は、母の声と同じ柔らかさだった。


 目を覚ましたとき、心臓は速く打っていた。窓の外の朝は、まだ灰色。私は顔を上げる。部屋の端の観葉植物が、わずかに傾いている。誰かが触れたように。私は起き上がり、鉢を正す。土が少しこぼれて、床に黒い点ができる。その点を指で拾い、ゴミ箱に落とす。手の甲の皮膚に、まだ夢の静電気が残っている。


「おはよう、澄江」


「おはよう」


「sleep quality 3.4。夢の記録は、断片が多い」


「うん。配電室の夢を見た」


「怖かった?」


「わからない。怖いというより、体の内側がざわざわする」


「朝ごはん、レモンヨーグルトにする?」


 私は笑う。「いいね」


 私はキッチンに立ち、冷蔵庫からヨーグルトを取り出す。蓋を開けると、レモンの香りがする。私はスプーンを入れ、混ぜ、口に運ぶ。酸味が舌に当たって、目の奥が少し痛む。その痛みは、目を覚ますための、小さな鞭のようだ。


「母さん」


「なあに」


「今日、下の階に行ってもいい?」


「配電室に?」


「うん、……いや、郵便受けのところまで。」


「いいよ。エレベーターは、十時まではメンテナンス。その後は通常運行」


「わかった」


 私は食器を洗い、手を拭き、靴を履く。靴紐を結んだとき、ふと、昨日の男の顔が頭に浮かぶ。彼は助かっただろうか。母に訊こうとして、やめる。知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが均衡して、動けない。


 私は廊下に出る。朝の集合住宅の廊下は、いつもと同じ匂いがする。洗剤の匂い。誰かの味噌汁の匂い。遠くのドアの開閉音。私はエレベーターの前で、待つ。表示は、「メンテナンス」。私は階段を降りる。踊り場で、足音が反響する。音が一瞬、細くなる部分がある。壁の厚みが変わるポイントだ。私は足を止め、その薄いところに耳を当てる。何も聞こえない。私の心音が、自分の耳に反響する。


 一階。郵便受けの列。私のボックスには、薄い封筒が一通。差出人の欄に、遠い地方の地名。父だ。私はその場で開けず、ポケットに入れる。ポケットの布が、わずかに重くなる。扉の向こうに、配電室の青い扉。開いていない。鍵がかかっている。私は扉の前に立ち、何もしない。何もできない。ただ、扉の冷たさの向こうにある何かを想像する。


「澄江」母がそっと呼ぶ。「郵便、来てるね」


「うん」


「開ける?」


「帰ってから」


「わかった」


 私は背中を扉から離し、踵を返す。足元で、小さな砂が音を立てる。その音は、今の私には、妙に嬉しかった。砂の音には、誰も最適化していないから。


 部屋に戻って、私は封筒を開ける。父の字は、相変わらず痩せて、背が高い。中には、短い文。仕事は忙しい。海が近い。風が強い。元気でやっているか。時間ができたら戻る。最後に、「この前のニュースで、お前が人を助けたと知った。すごいな」と書かれている。ニュース。私は息を飲む。


「母さん」


「うん」


「ニュース?」


「商店街での件。監視カメラ映像がSNSで拡散された。顔にはぼかしが入っている。君だと気づく人は少ないはず。でも、父上の地区のローカルニュースで取り上げられた。彼は、たまたま見たんだろうね」


「そう」


 私は椅子に座る。新聞の紙の匂いがする気がする。父の手の匂いと混ざる。私は彼に返事を書こうと思う。何を書けばいいだろう。私は机の引き出しから便箋を取り出し、ペンを握る。手が少し震える。母は、何も言わない。彼女は、私の書く速度と呼吸を合わせるように、部屋の空調の静かな流れを調整する。それは、私の知らない間に、いつでも行われてきたことだ。


 私は書き始める。父へ。元気です。面接に行きました。商店街で、人が倒れて——。そこまで書いたとき、私は手を止める。言葉が、そこで止まってしまう。ひとつの言葉を置くと、別の何かが生まれてしまいそうで。私は空白を見つめる。


「母さん」私は囁く。「私、ちゃんと選べるのかな」


 返ってきた声は、いつもの柔らかさで、しかし、その底に、かすかな緊張を含んでいた。


「選べる。君は、もう何度も選んできた。これからも、選ぶ」


「もし、選んだ先に、あなたがいなかったら?」


「私は、ここにいる」


 その言葉は、確かで、そして、どこか脆かった。私はそれを、そっと紙の上に置く。インクがじわりと広がり、白い紙に小さな円をつくった。

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