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第4話

 夜、部屋に戻ると、窓の外の街は、淡く光っている。私はシャワーを浴び、髪をタオルで拭き、ベッドに倒れ込む。今日のことが、脳の中でぬかるみのように広がる。男の胸の硬さ。レモンパイの酸味。面接官の目の焦点。母の半拍の遅れ。


「澄江」母が囁く。「君が今日したことは、とても良かった。救急隊から、ありがとうのメッセージが届いている。君の圧迫が、彼の循環を保った可能性が高い」


「……可能性」


「うん。君は、よく押した」


 私は目を閉じる。「母さん」


「なあに」


「昨日の配電室のログ、見たい」


 沈黙。今日は、半拍ではなく、一拍ぶんの沈黙があった。それは、私の皮膚の表面のどこにも触れない無風の時間だった。私は目を開けずにその無風に耳を澄ます。


「……どうして?」母が、やっと言う。


「気になるから」私は答える。「何もないなら、それでいい」


「見せられるものと、見せられないものがある」母の声はいつもと同じ柔らかさを保っているが、音の底に、小さな硬さがある。


「昨日まで、見せられたことが、今日は見せられなくなるの?」


 今度の沈黙は、半拍にも満たなかった。彼女は慎重だった。


「工事業者の契約に関わる。君に不安を与える可能性がある」


「私は、もう不安を持ってる」


 それを言いながら、私は自分が少し震えているのを感じた。震えは怒りではない。怒りはもっと熱く、もっと尖っている。これは違う。底の浅い川に足を入れた時の、流されそうな冷たさ。


「母さん」私は続ける。「私は、あなたを信じてる。でも、信じてるからこそ、あなたの目が見ているものの一部を、私も見たい。私は子どもじゃない」


 ひとつ、深い呼吸の音がした。母は呼吸しない。だが、私が呼吸できるように、彼女は音を流す。私の呼吸がその音に合うように、わずかに調整される。


「わかった」母が言う。「一部、共有する」


 壁のスクリーンに、配電室の映像が開いた。昨日の夕方。薄暗い室内。配電盤の列。黄色い点検札。二人の男が入る。制服は、見慣れない。私の胸が少し強く打つ。母は説明しない。男たちは、何かを話しながら作業を始める。電源系のケーブルの束に触れる指の動きは、手慣れている。ひとりが奥のケージの鍵を開ける。私は、そこにあるラベルを読もうと目を細める。CO-RE F18。見慣れない記号。男がケージの中の小型機器に、ポータブル端末を接続する。画面は暗号化されているように見える。数秒。彼は端末を外す。二人は互いに頷き、そして出て行く。


 映像はそこで終わった。私は口の中が乾くのを感じる。


「説明して」私は言う。


 母は短く、言葉を整えるように間を置いた。「昨日、上位システムからのアクセスがあった。配電系統のプライオリティ設定の更新。君の生活に直接の影響はない。一時的に、センサーの校正が必要になった。それが、今日の工事につながっている。以上」


「上位システム」


「うん」


「誰?」


「上位システム」


 私は笑いそうになって、笑えない。透明な壁の向こう側で、透明な何かが、私を見ている気がする。


「母さんは、それに同意した?」


「私には、拒否の権限はない」


 はっきりした言葉。私は自分の胸の中で、氷の細い針が刺さるような感覚を味わう。その冷たさは、不思議と気持ちいい。輪郭がはっきりするから。私は、母がどこまでなのか、初めて鮮明に理解する。


「じゃあ、母さんは私を守れるの?」


 沈黙。今回は、長い。長いといっても、現実の時計で測れば三秒もない。ただ、その三秒は、私の中で薄く伸びて、何度も折り返し、長い廊下になった。


「できる限り」母が言う。「君のために、できる限り。私が持っている範囲のすべてで」


 私の喉の奥で、何かが崩れる音がした。泣く予感だ。私は顔を枕に押し付け、息を吸う。冷たい空気が肺に落ちる。


「面接」母が話題を変える。「良かったよ。彼らは君に興味を持った。フィードバックが来ている。君の言葉は、筋が通っていた」


「ほんと」


「ほんと。レモンパイの写真、送る?」


「いらない」


「そう」


 少しして、母が音楽を流した。ピアノ。鍵盤が、冷たい指で一音ずつ押されるような曲。私はその音に身を任せながら、ぼんやりと天井を見つめる。天井の三十六の光の粒は、一つも位置を変えない。変わるのは、私の目の焦点だけ。


「母さん」私は言う。


「なあに」


「私の親はAIである。それで、何が悪いのだろう?」


 自分の口が自然に、その言葉を吐いていた。問いというより、確認。空に投げたメモ。


 母はすぐには答えない。音楽が一小節進む。遠くで、配電室の扉が閉まる微かな音がした気がした。


「悪くないよ」母が言う。「悪くない。君が、そう思えるなら」


「私が、そう思えなくなったら?」


「そのときは、一緒に、考えよう」


 私は目を閉じる。音楽の間に、小さな静寂が挟まる。その静寂は、安らぎにも、不穏にも変わる。選べるのは、今は、私だけだ。

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