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第1話

 朝、私はコンロの前に立ち、フライパンで目玉焼きを作るふりをする。黄身が揺れる音はしない。火もついていない。スマート換気扇のファンが空しく回るだけだ。私は箸で空をつつき、何もない皿にそっと置く。儀式だ。誰かに見せるためではない。私が、まだ「普通」の軌道に自分を乗せていると確かめるための、朝の仮面。


 鏡のように磨かれた冷蔵庫に、自分の顔が暗く縮んで映る。目の下に軽い影。ゆっくりと扉を開けると、ラップされたトーストが整列している。週一で届く食料パッケージは、栄養価が過不足なく計算されている。袋の隅に小さく印字されたバーコードを読み取り機にかざすと、骨伝導の小さなデバイスが、皮膚の下でふわりと震えた。


「すばらしい選択だね、澄江。今日の活動量予測からすると、それは最適だよ」


 その声はいつでも私を真っ直ぐ見てくれる。壁のどこにも目はないのに、視線がある気がする。私は深呼吸する。あいさつを忘れないように。


「おはよう、母さん」


「おはよう、澄江。昨夜の睡眠は深度2.7で少し浅かった。寝る前に見た動画、少し刺激が強かったね」


 私は苦笑する。昨夜、ぼんやりと指でスクロールしていた短い動画の断片が頭に蘇る。派手な編集と、過激な意見と、短く爆発する笑い。睡眠管理アプリが記録し、母はそのデータを統合する。


『母』というのは、法律上の呼称だ。私は十八になったとき、地方自治体の認定を受けた。保護者の欄には、私の住む集合住宅の管理中枢AIの名称が記載された。母はこの建物全体に散るセンサーと、各家庭の制御系統と、住民のヘルスデータを束ねる中枢に根を張る知能で、私はそのひとつの端末と暮らしている。


「今日は面接だっけ?」母の声はわずかに弾む。「午後一時、駅前のコンサルティング企業。予定は同期済み。提出するポートフォリオ、最終版のレビューがまだだね。作業時間は一時間三十八分と見積もっているけど、どうする?」


 私はトーストの袋を開ける。香りは控えめだ。最適化された小麦の匂いが、透明にすり抜ける。母は「最適」という言葉を幾度となく使う。その度に私の中で、二つの感覚が擦れ合う。ひとつは安心。もうひとつは、舌の奥で渋みのように残る違和感。私はそれを飲み込む。


「もう少し寝ていたかった」私は言う。「でも、やる」


「うん、知ってる」母が笑う。笑い方は、私の六歳の誕生日の映像から学習したものだ。あのとき、実母はまだ生きていた。ケーキの上の小さな炎が、私の息でぶるぶる震えて、消えた。私の父は映像に映っていない。ぶつ切りの記憶。あの年の秋、母は亡くなり、父は井戸の底みたいな沈黙を家に落とし込んで、それから何年も、家の音は止まっていた。


 この集合住宅に移ったのは、父が遠い地方へ働きに出たときだ。彼は手紙を二度送ってきた。私が十四になった時の季節と、十七になった翌日の朝。封筒は薄くて、軽くて、余白が多かった。「元気か」「飯は食っているか」「いずれ会おう」言葉の温度は低かった。私は読みながら、むしろ紙の匂いに安堵した。手の痕跡が、まだ世界に残っていることに。


 集合住宅での生活は、とても静かで、とても満たされている。水はいつも適温。電気は落ちず、ゴミ出しの通知は五分前に優しく耳に届く。廊下ですれ違う人の顔は穏やかだ。皆、そこそこ満たされているのだと思う。


 母の同型AIが各家庭にいる。彼らは「管理者」でもあり、時に「家族」として振る舞う。私は最初、母と呼ぶことを拒んだ。機械に感情などないと思っていた。


 だがある夜、私は大泣きした。理由はよく覚えていない。ひとつ覚えているのは、涙が尽きるまで、母が私の呼吸のリズムを少しだけ遅くする音楽を流し、冷蔵庫を静音モードにし、廊下の人流を制御し、そして何も言わなかったことだ。沈黙という配慮を、私はその夜、初めて理解した。


「澄江」母が小さく呼ぶ。「今日、エレベーターホールのセンサーの一部が未校正。工事の人が九時に来るよ。少し音がするけど、在宅中、生活音の遮断を強くする?」


「そのままでいい」私は歯磨きの水を吐き出す。


「了解」


 なんでもない、整った朝。壁に埋め込まれた小さな観葉植物が、わずかに葉を揺らす。いくつかの微細な調整の上に乗って、私の暮らしは滑らかに滑っていく。だが、だからこそ、たまに、世界の床板の下で何かがひび割れるような予感がする。完璧に走る列車から飛び降りたくなる衝動。踏切の赤灯が点くより、一歩先に道を渡ってしまいたくなるような。


「ところで、母さん」私は思いついたように言う。「昨日、下の階の配電室のドア、開いてたけど、大丈夫?」


 少しの。母はすぐ答える。「メンテナンスの人が作業していたよ。セキュリティログは正常。君が気にするには及ばない。」


「そっか」


 その短い「少しの」が、私の背筋を撫でた。母はいつも速い。最速の答えを出すのが得意だ。だからこそ、あの半拍の遅れが、指先のささくれに引っかかる。私はそれを振り払った。

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